「金庫」読み切り

【あらすじ】 
防犯用品を扱う会社に勤める松永まつながはある日、小夜子さよこと名乗る女性から特注の金庫を購入したいという電話を受ける。
小夜子の住む屋敷に向かった松永は、やがて商談を重ねていくうち彼女にかれ、依存するようになる。
やがて金庫が完成し、松永は小夜子と会い続ける理由を失ってしまう。
松永は最後に小夜子に会いに行くが、屋敷には自身が納めた巨大な金庫しかなかった。その金庫の中から、松永を呼ぶ声がする。呼び声に従い閉じた金庫の扉を開きかけるも、松永は老いた母のことを想い、その誘いを拒絶する。
小夜子と決別した松永は、認知症を患い息子のことすら忘れてしまった母と再び向き合い始める。


【本編】

 彼女と会う日はいつも、雨が降っていた。
 進行したアルツハイマーによって介護施設へ入居することになった母のために、東京から地元の街へと戻ったわたしは、防犯用品をあつかう会社の営業員として働き始めた。前職で経験があったわけではなく、また、内向的な性格のわたしにとって、営業という仕事は重荷であった。しかし、介護施設への入居費用に加え、歳をとってから病気がちになってしまった母の治療費のため、とにかく金が必要だった。毎日必死に働いていた。

『金庫が欲しいんです。とにかく大きくて頑丈がんじょうな……一度閉じたら二度と開かないようなものを』

 そんな電話がかかって来たのは、転職してから一年ほど経ち、ようやく一人で仕事を任されるようになった頃だった。
それが彼女――小暮こぐれ 小夜子さよこと関わるようになったきっかけであった。

 *

 その日は、朝から目の細かい霧のような雨が降っていた。小夜子の自宅は市街地から離れた山間の集落にあった。
「……立派な門だな」
 緑の多い山肌に沿って作られた田園地帯の中に、その門構えの立派な二階建ての屋敷は建っていた。正面から見ると後ろに山を背負っているようにも見える建物だった。
 わたしは長雨にぬかるむ道を慎重に運転し、屋敷の前で路肩に車を停めた。フロントガラス越しに目を細め、表札がないか探す。古ぼけた門の柱に【小暮】と記された小汚い木の表札が打ち付けられているのがすぐに見つかった。
 わたしは腕時計に目を落とす。九時五十分。十時過ぎ頃に来てくれれば良いと小夜子は言っていたが、他人の家の前に車を停めてじっと待つのも落ち着かない。十時になったら訪問できるようにしておこう。
 わたしは身体をひねると、後部座席に置いてある仕事用の黒いかばんに目をやった。その中には商談をするために必要な資料と、何冊かのカタログが入っている。未だに客と直に取引するのは慣れなかったが、仕方がない。電話越しに聞いた限りでは、どうも小夜子と名乗るその客は、特注の金庫を求めているようだった。そうなると、いつものようにカタログを持って行って、その中から選んでくれというわけにはいかないだろう。
 ――それにしても、どこか薄暗い雰囲気のところだ――
 ほとんど霧のような雨の降るその集落は、山際に背の低い住居がいくつか立ち並んでいた。水面みなもに揺れる白いもやのような雲が、山の斜面を滑りおりて家々の屋根のすぐ側まで迫っている。わたしはあらためて目の前の屋敷に目を向けた。時代劇で見るような、どこか物々しささえ感じる大きな屋敷。門もそうだが、敷地と外部とを区切っている瓦葺かわらぶきの土壁も他の住居と一線をかくしている。屋敷の外壁に植物のつるが無数に張り巡らされているのも、おごそかな雰囲気をかもしていた。田園地帯の中に一軒だけたたずむような立地をかんがみても、この土地ではかなり裕福な人物の邸宅なのだろうとすぐに想像できた。
 もう一度腕時計を見る。十時五十六分。少し早いかもしれないが、妙に落ち着かなかったわたしは、資料の入ったかばんを手に車を出た。
 門の前に立つ。大型トラックが楽に往復できるほど大きな門だが、門扉もんぴは取り払われている。入り口から続いている石畳を進めば、そのまま真っすぐ屋敷の玄関まで歩いて行けた。見た所、玄関にはインターフォンがないようだった。わたしは仕方なく、玄関扉のガラス戸を軽くノックした。
 間もなく、「はい」と玄関扉の向こうから、事務所の電話越しに聞いたのと同じ声がした。
「あ、どうも初めまして、南陽なんよう防犯用品の松永まつながと申します」
「ああ、金庫の……少々お待ちください」
 玄関扉のすりガラス越しに人影が映り、カチャリと鍵を回す音がした。そして、
「どうぞ」
 と返事が返ってきた。
 ――開けてくれないのか――
 と内心そう思ったが、別に口に出すことでもない。ガラガラと音のする玄関扉を開くと、玄関の三和土たたきを上がった先に女性が一人立っていた。肩まで伸ばした髪の毛と身にまとった衣服、そのどちらもまるでがらすのように淡い光沢のある黒色をしていた。
 小雨の中、直前まで外にいたのだろうか、彼女からじっとりとした湿り気を感じる。黒一色の出で立ちと玄関の薄暗さも相まって、その姿にはまるで夜霧が人の形を持ったように、胡乱うろんで怪しげな雰囲気があった。顔立ちからしてまだ二十代後半位の若い女性のように見えたが、その落ち着いた様子は大人の女性として、とうに成熟しているようにも感じさせた。
 一目見ただけではおよそ年齢の検討は付かない。不思議な人物だった。「あ、えっと、初めまして。南陽防犯用品の松永と申します」
 見惚みほれてしまったみたいだと照れ臭く、わたしは少しはにかむ。そんな様子を気にする素振りもなく彼女は、
「小暮 小夜子と申します。どうぞよろしく」
 とほほえみ、「上がってください」とわたしにうながした。

 *

 招き入れられた屋敷の中は、降りしきる雨のせいかどこか陰気な雰囲気があった。玄関から伸びる板張りの廊下はやけに長く、その両脇には締め切られたふすまが並んでいる。天井からは電灯がぶら下がっていたが、どういうわけか照明は付いていなかった。暗い廊下の中、唯一の光源は玄関扉の曇りガラスから差す灰色の日の光のみで、それも玄関を少し行った所までにしか届いていない。辛うじて、廊下の奥の暗がりに二階へと続く階段があるらしいことは分かった。部屋の数は六つ。廊下を挟んで三部屋ずつあるようだが、締め切ったふすまからその中がどうなっているのかは想像もつかない。いまいち屋敷内の構造がつかみ切れない、妙な感覚のする建物だった。
「すみません、家の照明の調子が悪いみたいで。今、修理を待っている所なんです」
 じろじろと中の様子をうかがい過ぎたようだ。小夜子が少し困ったように言った。
「あ、いえ……。でも、ご不便でしょう」
「慣れてくればそれほどでも。夜は燭台しょくだいがありますから」
「へぇ、燭台しょくだい……。つまり、ろうそくで明かりをとっているんですか。今どき珍しいですね」
「ええ、そうかもしれませんね。実は私の主人は画家をしておりまして、職業柄か気に入ったものはあちこちから集めて来てはデッサンをしていましたから……その中にいくつか」
「画家ですか、それは凄いですね」
「ふふ、どうなんでしょう。私はそういった業界にはうといのですが、その筋ではある程度名前は売れていたそうですよ。……すみません、関係のない話を長々と。どうぞこちらへ」
 わたしは小夜子にうながされ応接用らしい南側の一番手前にある居間へと通された。
 居間は三十畳近くある広い座敷だった。立派な欄間らんまの下には松の木が描かれた品のよいふすまが閉じられており、その向こうにもまだまだ広い座敷が続いているようだった。
 そんな居間の中央には、高級そうな木の一枚板を加工して作られた、あめ色のテーブルが置かれており、それを挟む形でわたしと小夜子は座った。座布団は見た目こそ綺麗だったが長く使っているらしく、綿が潰れてぺらぺらになっていた。
 居間の南側にはガラス張りの引き戸があった。目をやるとそこから花壇が見えた。丁寧に手入れをされているとわかる花々がいくつも咲いている。ふと、その中にある淡い紫色をした花が目についた。
「あれは……」
 わたしは一瞬、仕事に来ていたことを忘れ考え込んでしまった。
 あの花は確か、昔、母が好きだと言っていた……
 名前を思い出そうと記憶を探る。かつて母がプランターで大切に育てていたのは思い出せたが、名前が出てこない。
松虫草まつむしそう、ですか?」
 なかなか思い出せずやきもきしているところへ、小夜子にそう声をかけられた。
「ああ、松虫草…………」
 そうだ、母はあの時確かに松虫草が好きだと言っていた。子どもの頃、確か父が他界する直前くらいだった。

『お母さんね、このお花が一番好きなんだ』
『へぇ、どうして?』
『こんなに可愛らしいのに、なんだか切なくなる、そういう所がなんとなく。ねぇ、この花の花言葉って知ってる?』
『えー、知らないよそんなの』
『松虫草の花言葉はね…………』

 その時一緒に、松虫草の花言葉を教えてもらったはずだったが、そちらは思い出せないままだった。あれだけ大切にしていたのに、以前久しぶりに実家に帰った時、プランターに植えられていた花は全て枯れてしまっていた。「お好きなんですか」
 小夜子の声にわたしは、過去の思い出から現実へと引き戻された。
「あぁ、いえ。母が……わたしの母が好きな花だったんです。それにしても素晴らしいながめですね」
 お世辞やおべっかではなく率直な感想としてそう述べると、小夜子は再びほほえんだ。
「ありがとうございます。主人が聞けば喜びます」
「あの花たちはご主人が?」
「ええ、ガーデニングが趣味だったので。今は私が代わりに世話をしています」
「そうですか。……ご主人は今どこかで絵を?」
 彼女の話し方に引っ掛かるものを感じ、わたしはそう尋ねてみた。
「いいえ、今はもう絵を描いていません」
 小夜子は目を伏せる。
「実を言うと、少々重い病にかかっておりまして。今は、二階の自室で安静にしております」
「あ、すみません。ずけずけと……」
 わたしは慌てて頭を下げたが、小夜子は「お気になさらないでください」と言った。
「あの庭も、主人がこだわっていたものですから……」
 そして彼女もその庭の方へ目を向けた。しばらくそうして二人で庭をながめる。小さな泡ぶくのような松虫草の花弁が風に揺れる。
 不意に、縁側の表面に小さく丸い染みが無数に浮かび始めた。そしてほぼ同時に雨粒がパチパチと軽い音を立てて軒を叩く。
「雨、降ってきましたね」
 小夜子がポツリと言う。恐らく三十秒にも満たない位の短い時間だった。だが、それまでの全てを忘れられるような、居心地の良さがあった。
 小夜子との商談は当初予定していた三十分を上回り、区切りがつくまでに二時間近くかかってしまった。小夜子との会話は白熱するということはなく、どちらかと言えば淡々とした口調でのやり取りに終始した。だが、その静かな言葉の往来はむしろわたしにとっては心地よいものであった。しばしばこのままずっと話していたいと感じるほどに……。
 小夜子の方もただ受動的に話を聞いているだけではなく、気になったことや自らの希望は積極的に口にした。彼女なりに求めている製品のイメージが具体的にできているようだ。だが、その中でわたしは確かな違和感を覚えていた。
 彼女の欲しがっている金庫が、個人で所有するものとして明らかに大きすぎるのだ。
 商談の最中、わたしは度々たびたび確認した。
「個人のお宅に設置する物としては相当な額になりますが、本当によろしいのですか?」
 その都度つど彼女は答えた。
「ええ、金額については気にしないでください。絶対に外から開けられることがないものを。なるべく大きくて、頑丈がんじょうで――そうですね、私が入ってもまだ余裕があるくらいに」
「それじゃ、まるでロッカーだ」
 冗談半分、呆れ半分で思わずそう口にしたわたしに小夜子は、
「ロッカーでは心許こころもとないので」
 と真顔で言った。
「はぁ」
 彼女の言葉にわたしがそう曖昧あいまいな返事を返した時だった。

  ウゥゥ……ウゥゥ…………
 
 
どこからか、風の音とも、獣のうなり声ともつかない奇妙な音が響いて来た。ぞっとするような、なぜか無性に恐ろしく感じる音だった。わたしは反射的に開いていた口を閉じる。少しして今度は、ギギッ……ギギッ……と天井から木の板のきしむような音がし始めた。
 目の前の小夜子がはたと顔色を変えた。それを見てすぐに、その音が二階で安静にしているという彼女の夫の足音だとわかった。
「すみません、主人が目を覚ましたようですので……」
「あ、いえ。わたしの方も長居しすぎました、すみません」
「時折起き上がって部屋から出ようとするんです。様子を見てきますので、少々お待ちください」

〝部屋から出ようとする〟

 まるで部屋に閉じ込めているような言い方だなと思いつつ、ぱたぱたと慌ただしく居間から出ていく彼女を見送る。一人になるとわたしは、彼女が話していた金庫について考えを巡らせた。彼女の言うことをそのまま真に受ければ、外寸の高さは私の背丈をゆうに超えるだろう。下手をすれば居間の天井に届くのではないだろうか。今の会社に入ってまだ日が浅いとはいえ、そんな巨大な金庫を、それも普通の民家の一室に納入したという話は聞いたことがなかった。
 一体、何を仕舞い込むつもりなんだ。
 口にこそしなかったが、わたしは一抹いちまつの不安をそこに感じていた。

 *

 それからわたしは、特注の金庫について打ち合わせをするため、定期的に小夜子のもとへ訪れるようになった。最初は仕事として商談をするためだけに尋ねていたが、次第にわたしは彼女にかれていった。彼女の優しげなほほえみに、かつての母の面影を見たのかも知れない。その頃、母はかなり痴呆ちほうが進み、一人息子であるわたしのことすら曖昧あいまいになっていた。話しかけても常にぼんやりとして何の反応も見せない母の姿に、いつの間にか足が遠のいていた。
 八歳の夏にわたしは父を亡くし、以降は母の手一つで育てられた。
 父は大学の講師をしており、物静かで穏やかな人柄をしていた。当時の母は心配性な部分があったものの、愛情深くしっかりとした人物だった。共働き家庭ということもあり、時々さみしく思うこともあったが、わたし達家族三人はそれなりに幸せに暮らしていた。父の事も、母の事も、わたしは大好きだった。
 しかし、父が死んだ日、わたしの人生に照らしようのない影が差した。その日から、母との間には言葉にはできない深い溝が生まれてしまった。そして東京への大学進学を機に、わたしは母のもとを去り、それ以降わたしは、母とほとんど顔を合わせずにいた。
 それから二十年以上経つ。警察から徘徊はいかいしていたところを保護したと連絡が来るまで、わたしは母の状態を把握はあくしていたとは言いがたかった。事態をここまで深刻にしてしまったのは、わたしが母を一人にしてしまったからであった。
「お気持ち、お察しします」
 ある時、ふとした会話の流れでそんな話をしたわたしに小夜子は言った。「ですがそれは、誰にだって起こりうる仕方のないことです。松永さんのせいなんかじゃありませんよ」
 彼女にとってそれは何気ない言葉だったのかも知れない。だがそれで、わたしの心は軽くなった。
「いや、すみません、気を使わせてしまって」
 わたしがそう言うと、小夜子は暗くなった雰囲気を払おうとするかのようにパチンと手を叩き、明るい声を出した。
「そうだ、前々から松永さんにお渡ししようとしていたものがあったんです」
「わたしにですか?」
「ええ、少しだけ待っていてください。今持ってきますから」
 そう言うと彼女は居間を後にした。待っている間、不思議と胸が高鳴るのを感じた。程なくして戻って来た彼女は、チャック付きの小さなポリ袋を手にしていた。
「これは?」
 私は彼女から受け取ったポリ袋を、下からのぞき込むようにしてながめた。中には小さいゴマ粒のようなものがいくつか入っている。指で触れると小石のように固く、ややいびつ紡錘ぼうすい形をしていた。
「松虫草の種です。庭に植えた分が少しだけ残っているのを見つけまして」「へぇ、こんなに小さいんですね。これがあんなにきれいな花になるなんて」
「どの花も、種の内はこういうものです。時間をかけて大切に育てるから、きれいな花が咲くんですよ。どうですか、お母様へお送りになってみては?確か、お好きな花なのですよね。きっとお喜びになりますよ」
「そんな、今さら親孝行なんてできませんよ。……私が母を想う気持ちなんて、きっと偽物ですから」
 ははは、とわたしが照れ隠しに笑うと小夜子は、
「偽物でもいいじゃないですか」
 と真剣な表情で言った。
「偽物だったとしても、後悔をしたくないのなら何か行動するべきです。あなたの大切な人が、いつまでも健在とは限らないのですから。それに……」
 小夜子はわたしの目の奥を、じっとのぞき込むように見つめた。
「お母様に何か、打ち明けたいことがあるのではないですか?」
「え……」
 思わず目を見開いたわたしに彼女は、
「何となく、そう思ったものですから」
 と再び穏やかな笑みを見せた。
「もし本当にそうなら、手の届くうちに伝えるべきです。あなたは、額縁の向こうにしかいられない絵とは違うじゃないですか」
 小夜子は松虫草の種を持つわたしの手に、自身の手を重ねて握った。
「ご存命の内なら、遅いなんてことはないと思いますよ」
 彼女の手はしっとりと柔らかく、しかし酷く冷たい手だった。頭の中にぼんやりとかすみがかかっていく。
「そうか……そうですよね」
 吸い込まれるような彼女の黒い瞳に、気が付くとわたしは小さくうなずいていた。

 *

 その次の週末、私はおよそ半年ぶりに母を預けている介護施設へ足を運んだ。
 私の住むアパートから車を走らせて二時間弱。大きな湖のある街に、その黄色い屋根が目印の介護施設はあった。病院からの距離や交通の便、介護職員の質などを十分に吟味ぎんみしたつもりだったが、久しぶりに訪れてみるとずいぶんと遠い場所に入居させてしまった。
 単にわたしは、手のかかるようになった母を遠ざけようとしていただけではないのか。
 車をおりる時、そんなことを考えて少し気分が重くなった。
「あぁ、景子けいこさんの……お久しぶりですね」
 受付に行くと、奥から年配の男が出てきた。青いポロシャツの胸には『やまもと』と記された名札が付けられている。
「あ、はい。お電話させていただいた松永景子の息子です」
「はい、お待ちしておりました。いやぁ、今日はお車で?晴れてよかったですねぇ、このところ雨が続いていてうんざりですよ」
 ははは、と気さくに笑う彼にわたしは愛想笑いを浮かべる。禿げ上がった自らの頭をしきりになでながら話すその愛想のいい男は、この施設の施設長で名前を山本といった。母を入居させる際と、それから何度か施設を尋ねた時に顔を合わせているはずだが、わたしはすぐに彼のことを思い出せなかった。
「今日は他の職員や入居者の方はいらっしゃらないんですか?」
「皆さん近くの公園へピクニックに行っているんですよ。本当は先週行く予定だったんですが雨で中止になったもんで、代わりに今日行くことになったんです」
 やけに静かな廊下を二人で歩く。温かい色をした木目調のフローリングに、ぱたぱたとスリッパで歩く二人分の足音が響いている。廊下の横にはアパートのように各部屋へ続く扉が並んでいた。
「もしかして、どこか具合が……」
 わたしは母がなぜそのピクニックに参加していないのか心配になり尋ねた。しかし山本は顔の前で大げさに手を振ってみせた。
「ああ、いえいえ、全然そんなことないですよ。息子さんが来るとお伝えしたら、部屋で待っているとおっしゃったんです。あなたに会うのを、ずいぶん楽しみにしているみたいですよ」
「そうですか、それは良かった」
 母が無事であるということに、わたしはほっと胸をなで下ろした。ただ、そんな気持ちの中に、自身が母を放置していたことについての罪悪感があったのも事実だった。
「ただですね、ちょっと表現が難しいんですが……」
 そんな浮ついたわたしの気持ちに釘を刺すように、山本は低い声で言った。
「景子さん、やっぱりだいぶ記憶が曖昧あいまいになっているみたいで、あなたのことをまだ子供だと思っているようなんですよ」
「はぁ、それはえっと、つまり……」
「やはり少しずつ認知症の症状が進んでいるみたいで、近年の記憶が相当抜け落ちているようなんです」
「はあ……」
 わたしは山本の言葉の意味が上手くみ込めなかった。それはつまり……、と思考を整理する前に、「ここです」と山本が足を止める。目の前には、【108】と黒い刻印がされた、若草色の扉があった。その部屋は廊下の突き当りにあった。
 この扉の向こうに母がいる。
 落ち着かせていたはずの心がにわかに騒めき出した。締め切られている扉の向こう――開けてみなければどうなっているかわからない、箱のように閉じられた四角い部屋の中。その中に、母がいる。
 不意に山本の存在が意識から消えた。首筋の辺りにじわりと嫌な汗がにじむ。途端に息苦しくなった。
 場所も時間も違うが、今の状況は二十二年前のあの夜と同じに思えた。
 わたしはこれから、あの時のことを母に告白しなくてはならない。
「松永さん?」
 声を掛けられ、我に返る。山本が心配そうな顔をしてわたしを見ていた。
「あの、どこか具合でも?」
「あ、いや……大丈夫です」
「はぁ……」 
 少し困惑したように返事をすると、山本は扉を開けて中へ入った。わたしも続いて部屋に入る。部屋の中央には大きな白いベッドがあり、そこに母がこちらに背を向けて座っていた。宙を見上げるような母の視線の先には、窓越しによく晴れた青空がある。わたしはその母の背中が、あまりにも小さくなっていることにドキリとした。
「景子さん、息子さんが来ましたよ。景子さん」
 山本が母の耳元で呼びかける。始め母はその呼びかけに反応しなかった。だが、やがてゆっくりと山本の方へ首を動かした。
「松永さん」
 山本はこちらに手招きをした。金縛りのように声すら出なかったわたしは、そこでようやく身体が動くようになった。
「か、母さん……」
 わたしは恐る恐る母の顔をのぞき込む。情けない程、自分の声が震えているのがわかった。母がこちらへ目を向ける。しわだらけで赤く、完全には開き切らないまぶたの下から、ぎょろりとした目玉が動いた。わたしは思わず言葉を失った。目の前の人物が、一瞬誰なのか分からなかったのだ。「松永さん、あの……大丈夫ですか?」
 あからさまに動揺したのがわかったのだろう。山本が気づかうようにそう声をかけてきた。
「あ……いえ、大丈夫です」
「本当に大丈夫ですか。さっきから顔色が良くないですよ」
「平気です。何ともないですから、少し母と二人だけにしてもらえませんか?」
 わたしは山本から顔を背けるとそう答えた。「そ、そうですか」と、視界の隅で山本は怪訝そうにわたしを見ながらうなずいた。
 わたしは再度母の方を見てみる。改めて見れば確かに、目の前の小さな老婆はわたしの母だった。わたしは動揺を隠すように「母さん、調子はどう?」と努めて明るい声色で尋ねた。
 母は問いかけに応じなかった。代わりにわたしの顔をじっと見つめた後、母は自身の手元にゆっくりと視線を移す。その手には、握り締められてくしゃくしゃになった古い写真があった。その写真を見ると、白い車の前で困ったような顔をして立っている、水着姿の少年が写っていた。
 その写真を見て、わたしは息をんだ。
「母さん、その写真って……」
 もう一度そう呼びかけた時、母は眉間みけんしわを寄せ、わたしをにらんだ。
「どちら様ですか?」
「え?」
 一瞬、思考が止まった。
「あなた、どちら様ですか?」
 耳を疑うわたしに、言い聞かせるように母はもう一度言った。足の裏からぞわぞわとした感覚が昇ってくるのがわかった。
「いや、何言ってんだよ。俺だよ、母さん、忘れたのかよ!」
 思わず声が大きくなる。母の弱々しくやせ細った肩を力任せにつかんでしまった。
「松永さん!」
 部屋の扉から外へ出かかっていた山本が慌てて引き返し、わたしを止めようと駆け寄った。だが、その時にはもう遅かった。ヒィッと短い悲鳴をあげて母は戻って来た山本に助けを求めるように飛びついた。
「えっと……今日はこの辺りにしておきましょうか。景子さんが落ち着くまで共用スペースで待っててもらってもいいですか?」
 山本が表情を引きつらせてそう言った。彼にすがりつく母の身体は小刻みに震えていた。
 そんな母を見ながら、わたしはもう取り返しがつかなくなってしまったような――どこか途方に暮れたような感覚に陥っていた。

「すみません、わざわざ遠くから来てくださったのに」
 駐車場に出ると山本は頭を下げた。
「いえ、私の方こそご迷惑をおかけしてしまって……すみませんでした」
 わたしはいたたまれない気持ちで、一刻も早くその場を去ろうときびすを返した。
 ――自分は一体何をしに来たのか――
 心底自分が嫌になる。
 車の鍵を取り出そうとズボンのポケットに手を入れると、指先に妙な感触があった。取り出してみるとそれは小夜子からもらった松虫草の種を入れた、小さな封筒だった。
「すみません、山本さん」
 それをその場で投げ捨ててしまいたいという衝動をこらえ、わたしは玄関へ戻ろうとしていた山本を呼び止めた。そして彼の手に、その種の入った封筒を押し付けるようにして渡すと、すぐに車に乗り込んだ。とてもではないが、もうそれを持っていたくはなかった。
 わたしはそそくさと駐車場から車を出すと、逃げるようにして施設を後にした。もうそこにわたしの知る母はいなくなっていた。
「くそっ!」
 車の中で一人叫ぶが、その感情を受け止める相手はどこにもいなかった。
 〝自分の中で整理がついてから、話をしに行こう〟
 〝また今度時間ができたら、その時に打ち明けよう〟
 母に会いに行くことを避ける度、自分にした言い訳が次から次へと雨のようにふり注ぎ、心の底に打ち付けては消えてゆく。
 時間はいくらでもあると勘違いしていた。そんな猶予ゆうよはどこにもなかったのに。
 わたしの知る母は、わたしの知らぬ間に、とうに死んでいたのだ。
 夕暮れの中、延々と続く高速道路を運転している時、わたしはとうとう独りぼっちになってしまったのだと悟った。
 そして同時に、また小夜子に会いたいと、そう強く思っていた。 

 *

 それからだった。小夜子との商談が――いや彼女のもとを訪れることそのものが――胸にぽっかりと空いた穴を埋めてくれる、そう感じるようになったのは。いつしか小夜子の存在がわたしの心の中で大きくなっていった。
 その内、わたしは営業に行くと嘘をついてまで小夜子のもとを訪れるようになっていた。
「小夜子さん、前から聞きたかったんですが、こんなに大きな金庫を作って一体何を入れるつもりなんですか?」
 ある時、いつもの居間でわたしはそう尋ねてみた。
「ふふ、内緒です」
「内緒、ですか。はは、小夜子さんは秘密が多いな。なんと言うか、ミステリアスですね」
「ミステリアスな人はお嫌いですか?」
「あ、いえ。そんなつもりじゃ」
「……なら私の秘密を一つだけ、教えてあげましょうか?」
 小夜子が、わたしの目の奥をじっとのぞき込んで来る。彼女のその黒い瞳は、いつもこちらの心を見透かすようだった。わたしはどぎまぎしながら顔を伏せた。
「私、好きになったものは皆、どこかに閉じ込めておかないと気が済まないんです」
 不意に小夜子がわたしの耳元に顔を近づけた。頬と頬とが重なり合う程の距離だった。
「自分で言うのもおかしいですけど、少し病的なくらい……」
 吐息と混ざり合った彼女のささやき声が、耳から頭の中に滑り込んできた。意識がおぼつかなくなる。彼女の声は視界を白くにじませる霧のようだった。
「それは……どうして?」
 辛うじてわたしはそう返す。表情は見えないが、すぐ横で小夜子が笑みを浮かべるのがわかった。
「私、独占欲が強いんです。大切なものはどこにも行かないようにしておかないと気が済まない。放っておいたら、私のもとからいなくなってしまうんじゃないかと思ってしまう……。それが生まれ持った私のさがなのかもしれません。……だから金庫が欲しいんです。そこへ入れてしまえばもうどこにも行けないような、丈夫な金庫が」
「小夜子さん……」
 ――それ程までにあなたが大切にしているものは、一体何ですか――
 その問いかけは実際に言葉にしていたのか、それとも頭の中でそう思っただけなのか、はっきりとしなかった。
 ただ、小夜子は、
「次は、あなたの秘密を教えてください」
 とわたしに告げたことだけはわかった。

 わたしがまだ八歳になったばかりの、夏休みの日の出来事だった。熱帯夜の続く、酷く暑い夏だったことを覚えている。
 その日は朝から母が会社の出張で家を空けており、わたしは父と二人で前々から約束していた海へと出かけていた。
 上越市の能生のう漁港付近にある海水浴場で、わたしは茶色くにごった海から繰り返し砂浜に打ち寄せる波と、飽きもせず延々とたわむれていた。その間、父はせっかく持って来たカメラをバッグから出そうともせず、浜辺にあるコンクリートの階段に腰をかけてぼんやりと沖の方を眺めていた。
 そろそろ帰ろうか。
 父に呼びかけられ、わたしは手にしていたくすんだオレンジ色のヒトデを海へ放り投げた。どれだけの時間海で遊んでいたのか。正確な時間は分からなかったが、既に日はだいぶ傾いていた。
 車を停めていた駐車場まで戻ると、父は最後に写真を撮らないかと言った。
 写真なら、さっき撮ればよかったのに。
 そんなことをわたしが言うと、父は、なんだか今撮っておきたい気分なんだよ、と少しはにかんでシャッターを切った。後で現像したその写真には、父の白い車の前で、困ったような顔をした水着姿のわたしが立っていた。
 自宅へ帰ると、わたし達はすっかり疲れ果てていた。時刻は午後七時を少し過ぎた位で、西の空がまだ少し明るかった。
 夕食は帰り道で済ませていたので、わたしは風呂へ入るとすぐに二階の自室へと戻った。父はリビングのソファに腰をかけてテレビを見ていた。最後に声をかけると、父はこちらを振り向いて、ああ、おやすみ、とだけ言った。わたしも同じように、うん、おやすみ、とだけ返し、リビングの扉を閉めた。なんとなく父の顔色が悪いような気がしたが、それ以上は特に言葉を交わすことはなかった。
 その日の夜も、熱帯夜だった。
 海で遊んだ疲労感もあり眠りに入るまでは早かったものの、開け放した窓から入って来る、まとわりつくような熱気にやがて目を覚ましてしまった。
 ――喉が渇いた――
 そう思い、わたしは部屋を出て、一階のリビングに向かうことにした。冷蔵庫で冷やしているオレンジジュースが目当てだった。母は明日の昼まで返って来ない。夜中にどれだけジュースを飲んでも、きっとわかりやしないだろう。
 階段を下りると、リビングに明かりはなかった。ただ、どうやらテレビはついているらしく、がやがやとした人の話声が扉越しにも聞こえてきていた。
 わたしは真っ暗なリビングの扉を開けた。途端に酷くじめついた、むせかえるような熱気が押し寄せて来た。
 きっと窓を閉め切ったままにしていたんだ。そう思いわたしは顔をしかめる。当時わたしの家にはまだエアコンはなかった。テレビでは外国の映画がながれていた。夫婦らしき男女がパニックになる群衆の中で抱き合っている。悲鳴と、車のクラクションと、ガラスの割れるような音が混ざり合って騒がしい。音量をかなり大きく設定しているようだった。
 騒がしい音と息の詰まるような暑さを不快に思いながら、わたしは電灯のスイッチを点けた。
 パチンッと軽い音を立て、白っぽい蛍光灯の光がリビングを照らし出す。ソファ越しに、横になっている父の肩が見えた。どうやら眠っているようだった。テレビ画面では、高層ビルの並び立つ大都市が猛烈な勢いで炎に飲み込まれていく最中だった。巨大隕石でも落ちたのだろうか。映画はいよいよクライマックスといった様相だった。
 映画、見なくていいの?
 わたしは父に声をかけた。しかし、父の眠りは深いのか何の反応もなかった。
 まぁ、いいか。とわたしは眠っている父を起こさないようにして、冷蔵庫を開ける。目当てのオレンジジュースをコップに注ぎ、一度に飲み干した。コップを水道の水ですすぎ、元の場所に戻しておく。テレビの方を見やると、寂し気なエンドロールが流れていた。どうやら地球は滅亡したらしい。お疲れさまでした。
 エンディングの曲と共に、父のいびきが聞こえて来た。何かをすすり上げるような、普段とは違う、おかしないびきのかき方だった。
 ふと、ほんの一瞬だけだったが、不吉さを感じさせるような嫌な臭いが漂ってきた。
 父さん?
 大きな声でそう呼びかけてみるも、父は目を覚まさない。
 少し不安になったわたしは、起こしてしまうことを承知で父の肩を揺すってみた。すると横になっていた父の身体はあっけなく倒れ、ソファの上で仰向きとなってしまった。
 うぅっ……うぅっ……と父は相変わらず、おかしな音のいびきを立てている。
 初め、父はわたしをからかっているのかと思った。しかし、何度声をかけても父は反応しなかった。再度身体を揺すってみるも、やはり父はぐったりとして動かなかった。
 ――どうしよう――
 その時のわたしには、冷静な判断力が欠けていた。普段とは違う父の様子に混乱していたのかも知れない。どうするべきか、その時のわたしにはわからなかった。
 わたしは再び電灯を切ると、慌てて二階の自室へと戻ってしまった。そしてベットの上で、毛布代わりのタオルケットを頭から被った。きっと父はただ眠っているだけだ。明日になったらきっといつも通り、階段を上がってわたしを起こしに来るはずだ。
 わたしは薄いタオルケットの中でぎゅっと目を瞑った。下の階からは先程の映画とは打って変わってにぎやかなバラエティ番組の笑い声が聞こえて来ていた。凍えるような手の震えは、一向に収まらなかった。
 そのうち、窓の外が明るくなり始めた。しばらくして窓から朝日が差し込み、自分と同い年位の子ども達が、弾んだ声をあげながら家の前を駆けて行くのがわかった。そろそろ近所の寺でラジオ体操が始まる時間だ。
 しかし、父はわたしを起こしに来なかった。何度か部屋を出て父の様子を確かめようと思いはしたが、結局わたしは部屋を出られなかった。何度か部屋の扉に手をかけたものの、そこから出て確かめに行くのが怖かった。
 やがて下の階から母の悲鳴が聞こえた。丁度時計の針が正午を指し示した時だった。それから少しして、どたどたと階段を駆け上がる音がした。
 部屋の扉が勢いよく開く。わたしの名前が呼ばれ、被っていたタオルケットが引きがされた。
 お父さんが! 
 母の取り乱した声が聞こえた。
 酷く動揺した母について、リビングにおりていく。点けられたままのテレビは朝のニュースをやっていた。父は昨夜見た時と同じように、ソファの上で仰向けになって動かなかった。震える声で母が、電話越しに救急車を呼んでいた。
 わたしはもう一度父の身体を揺すろうと手を伸ばした。そうすればいつも通り寝ぼけた顔で、何事もなく目を覚ますのではないかと思った。だが、蒸し熱い部屋の中、父の身体は冷たく、固くなっていた。
 父は死んでいた。後日、原因は急性心筋梗塞だったと聞かされた。

「もしかしたら、あの時わたしが救急車を呼んでいれば、父は助かったかもしれなかった。それなのにわたしは……突然怖くなって、父を見殺しにしてしまったんです」
 そこまで話して、怯えた目でわたしをにらむ母の姿を思い出した。
 〝仕方のないことだったんだよ〟
 あの日の出来事を正直に打ち明ければ、きっと母は許してくれる。そうすれば、父を見殺しにしたという罪の意識から逃れられるのではないか――心のどこかでそんな期待をしていた自分自身の愚かさに気づき、わたしは愕然がくぜんとしていた。
 わたしは結局、母のことなど気に掛けてはいなかったのだ。自らの罪悪感を払拭ふっしょくするために母を利用しようとしていたに過ぎない。わたしが母を想う気持ちなど、やはり偽物だったのだ。
 わたしはどうしてこんなにも身勝手で弱いのだろう。父のことも、母のことも、わたしの弱さのせいで何もかもを手遅れにしてしまった。
「もう、終わりですよ。わたしは父を見殺しにして、今度は母に忘れられてしまった。わたしはただ自分の罪悪感から逃げたかっただけで、一人になった母を大切にしようとしなかった。家族でさえ大切にできない……だからわたしも、最後は独りぼっちだ」
 雨が降り始めたのか、部屋の中に暗い影が差した 。今にもわたしは、その場に膝から崩れ落ちそうになっていた。
「松永さんは、私の主人に少し似ているのかもしれませんね」
 小夜子の手がうつむくわたしの頬に触れた。顔を上げると、彼女はいつものように優しくほほえんでいた。
「あまり自分を責めないでください。私はあなたのことも大切に思っているんですよ?」
「そ、それは……」
 思わず小夜子の目をまじまじと見てしまう。
「独りぼっちなら、あなたも私と一緒になりますか?」
 小夜子は穏やかな表情を浮かべたまま、じっと私の言葉を待っていた。
 まただ、と私は思った。
 また、小夜子の黒い瞳に吸い込まれそうになる。今すぐ全てを投げ出し、その瞳の底にある暗闇に飛び込みたい。そんな衝動に駆られる。わたしは唇が震えるのを必死にこらえて、小さく息を吸った。
「あっ……」
 しかし、先に声をあげたのは小夜子だった。わたしは出かかった言葉を詰まらせ、口を閉じた。小夜子の顔色がにわかに変わる。同時に霧がさっと晴れたように意識が明瞭めいりょうになった。
 それは低く、そして重々しく、屋敷全体を震わせるような音だった。

 ウゥゥ……ウゥゥ……ウゥゥゥゥ………………  

「すみません、主人が呼んでいるので」
「えっ……」
 小夜子が背中を向けた。
 不意にわたしの中で、言いようのない暗い感情がふくらんだ。小夜子は夫のことを大切にしているようだったが、わたしにとっては、彼女との時間をいつも邪魔する障害でしかなかった。独りになってしまったわたしには、もう小夜子しかいないのに……
「小夜子さん!」
 気づけば、わたしは慌ただしく部屋を出ようとする小夜子の腕に手を伸ばしていた。突然腕をつかまれた小夜子は脚を止めたが、こちらを振り向こうとはしなかった。張り詰めた沈黙が、わたし達の間に流れる。
「あ……す、すみません」
 わたしは、はっとして小夜子の腕を離した。まるで自分が自分でないような気がして、怖くなる。小夜子はわたしにつかまれた腕を隠すように、もう片方の手で抱えていた。
「……いいえ、いいんですよ松永さん」
 小夜子がようやくこちらを振り向いた。彼女は笑っていた。柔らかい果物にスプーンでざっくりと切れ込みを入れたような――そんな笑顔だった。
「また、いらしてくださいね…………必ず」
 彼女の声が低く、頭に響いた。
「……はい」
 薄暗い廊下の奥に消えてゆく彼女を見ながら、わたしはうなずいた。
 ――小夜子がいれば、ただそれだけでいい――
 またも霧のかかり始めた頭の中で、そう思った。

 *

「この金庫ができたら、松永さんに会えるのもそれで最後になるんですね」
 商談が大詰めを迎えつつあったある日。ようやく完成した製品図面を手に、小夜子がぽつりとそんなことを言った。
 わたしはそれを聞いて、思わず言葉を失った。当たり前の事だが、注文された金庫を納品してしまえば、彼女との取引もそこで終わりになる。そうなれば、小夜子のもとへ通う理由がなくなってしまう。また、以前の無機質な日々に逆戻りしてしまう。
 この時間がいつまでも続くと無意識に信じ込んでいたわたしにとって、その現実はあまりにも残酷なものに思えた。
 どうにかして、納品日を遅らせないだろうか。何度となくわたしは考えた。だが、そんなことができるはずもなく、やがて金庫の納品日がやって来た。
 いつものように玄関扉を軽くノックし、「すみません」と呼びかける。少しして小夜子が玄関扉の前までやって来て、「どうぞ」と答える。小夜子は決して自分から玄関の扉を開かない。必ずこちらから玄関扉を開いて、屋敷に入る。この日までに何回繰り返したか分からない彼女とのルーティンすら、これで最後と思うと惜しくなった。
 しかしそれを表に出さず、平静を装い屋敷へと上がる。そしてわたしは、小夜子にその日の納品作業についての説明を始めた。説明の最中、わたしは小夜子の横顔をちらちらとうかがい見ていたが、普段通り穏やかな笑みを浮かべているだけで、その内面は読めなかった。
 始まってしまえば、金庫の納品はすぐに終わった。作業をする職人は金庫の巨大さに戸惑っていたが、作業自体は金庫を居間へと運び込み、倒れないよう壁の柱に固定するだけの簡単なものだった。
 実際に設置された金庫を見てみると、やはりそれは異様な雰囲気を放っていた。甲虫の外殻を思わせる黒く滑らかな光沢を放つ躯体くたいは、近くで爆発があっても耐えられそうな程頑丈がんじょうそうだった。大の大人が六、七人がかりでようやく運び入れることのできた重量物が立つ姿は、落ち着いた和室の空気を押しつぶすような圧迫感さえあった。
「あ、松永さん。ちょっといいですか」
「はぁ、なんでしょうか」
 そうやってわたしが金庫をながめていると、手ぬぐいを頭に被った年配の作業員が話しかけてきた。彼は他の作業員を取りまとめる職長だった。
「あの、家主の方はどこにいるんですかね?ぼちぼち次の現場へ行こうと思うんで、一応最後くらい挨拶をしておこうと思って探しているんですが、どうも今朝から顔を合わせていないもんで……」
 少し困ったような表情の職長に、わたしはどこかに落ちないものを感じたが、
「なら、わたしの方からそう伝えておきますので、もう撤収して頂いて結構ですよ」
 と伝え、とりあえず彼らを帰すことにした。確かに、いつの間にか小夜子の姿が見当たらない。作業員たちが引き上げた後、わたしは小夜子を探すため、ひとまず廊下に出た。最後に、納品した金庫の仕様についていくつか説明をしなければならない。
「小夜子さん」
 長い廊下の先に向かって、わたしは呼びかけた。しかしその声は奥の暗がりに吸い込まれるだけで、返事は返ってこない。そう言えば今日、最後に小夜子を見たのはいつだったか。
「小夜子さん、いらっしゃらないんですか?」
 もう一度そう呼びかけて、わたしは廊下の奥へ向かう。手前から居間、寝室、書斎、納戸と分かれているという話は聞いていたが、廊下の先に行くのは初めてだった。
 もしかしたら台所にいるのかも知れない。台所は廊下の突き当たりを左手に行った所にあるらしい。やけに長く感じる廊下を、ギシ……ギシ……と音をたてて歩いていく。
 そうしてようやく廊下の突き当たりまで行きついた。足元の床には漆を塗ったような黒々とした染みがあった。板材が腐っているわけではないらしい。どうやらそれは古い染みのようで、何かは分からないが、コールタールのような黒く粘度の高い液体がしみ込み跡になっているようだった。
 ふと、なにか腐ったバターや廃油のような、妙な臭いがわたしの鼻についた。台所の生ゴミの臭いだろうか。
「小夜子さん?」
 台所をのぞくが、人影はない。想像していたような生ごみの入っているゴミ箱もそこにはなく、異臭の発生しそうなものは見当たらなかった。
 わたしは再び廊下に戻る。どうやらこの妙な臭いは台所ではなく、その反対側の、二階へと続く階段の方からおりて来ているようだった。
 確か二階には、小夜子の夫の部屋があるはずだ。
 階段の上を見上げてみる。階段の角度はかなり急で、上るのに少し苦労しそうだった。夫の容態ようだいが悪くなった時、おろすのに苦労するだろうに……。
 そんなことを思っている内に、ふと、わたしの中で、以前にもあった暗い感情がにわかに首をもたげた。
 ――小夜子にあれだけ愛されている男の顔はどんなものか。どの程度の人物なのか、この目で見定めてやろう――
 わたしは二階への階段を登り始めた。頭の中では、いなくなった小夜子を探すためだと、自身に言い訳をつけていた。その中にやはり、どこか自分が自分でないような、ふわふわとした感覚があった。
 ギシギシときしむ音を立てて、所々黒い小さな染みのついた階段を登り切る。すると突き当りまで真っすぐ伸びた廊下に出た。さほど長い廊下ではない。妙な臭いの濃さが増してきていた。臭いのもとはやはり二階にあるのだろう。
 雨の中、窓から差し込む日の光は弱々しく、薄暗い廊下はどこか不気味な雰囲気がある。意外にも二階は部屋の数が少ないようで、廊下の手前側と、突き当りの二か所にしか扉はなかった。
 そしてわたしは、その手前側の扉の異様さに目を疑った。
 その扉には、長方形の分厚い木の板が上から何枚も重ねて打ち付けられ、決して開かないようにされていたのだ。
 しかもそれだけではない。近づいて見れば、扉にはガムテープで何重にも目張りがされており、一切の隙間すきまふさがれていた。さらにガムテープはドアノブにも巻き付けられており、さながら幾何学きかがく模様の上に巨大なキノコが生えているような、奇妙な光景だった。「なんだ、これは……」
 奥の部屋へ目をやるが、そちらに特に異常は見られなかった。どうやら物置部屋か何かのようだ。そうなると二階にあるのは実質、手前側の一室のみである。そして例の異臭はその部屋の中から漏れ出しているようだった。
 ――小夜子の夫がこの部屋の中にいるのか――
「いや、そんな、まさか……」
 わたしはなるべく足音を立てないよう、慎重にその扉まで近づくと、恐る恐るドアノブに手をかけてみた。巻き付けられているガムテープは劣化しており、溶けだした接着剤が手のひらにへばり付いて気持ちが悪い。ドアノブも扉もがっちりと固定されていて一切動かなかった。これでは部屋の中の夫が外に出ることはまず不可能だろう。それどころか、外から人が入ることも難しい。
 ――部屋を間違えたのか――
 しかし二階の部屋はここの他に物置部屋しかない。
 ――二階に夫がいるというのは嘘だったのだろうか――
 だが、二階で誰かが歩き回る音、そしてあのうめくような声をわたしは確かに聞いている。この屋敷の二階に誰かがいるのは間違いない。しかし、病人をこんな風に閉じ込めておくだろうか。
 不審に思ったわたしは、中の様子をうかがうために、そっと扉の側に耳を近づけてみた。
 真っ暗な部屋の中、男が一人、横になっている姿が頭に浮かんだ。
 唐突に、怖気おぞけが背中を走る。
 これは、あの時と同じだ。わたしはそう思った。あの夜と同じ、閉じきられた箱のような、真っ暗な部屋の中。すすり上げるような父の呼吸音が鮮明に蘇った。
「主人の様子が気になりますか?」
 突然背後から声をかけられた。
 わたしは跳び上がるようにして振り返る。すぐ後ろに小夜子が立っていた。わたしは動揺のために声が上ずってしまった。
「さ、小夜子さん……」
「業者の方にお茶を出そうと台所に居たのですが、どうやらお帰りになられたようですね」
 先程台所をのぞいた時は彼女の姿どころか、湯を沸かしている様子もなかった。当惑するわたしを他所に彼女は続ける。
「それで、私に何か御用があるのでは?」
「あ、いや、金庫の仕様について説明をと……」
「そうですか。では居間の方に戻りましょうか。…………ああ、そうだ」
 小夜子は振り向きかけた足を止めて、再びこちらに顔を向けた。
「何か……聞こえましたか?」
 わたしは声も出さず首を振った。
「そうですか」
 薄暗がりの廊下の中で、小夜子の顔には影がかかり、その表情ははっきりと見えなかった。ただ、首を絞められるような異様な雰囲気に、わたしはその部屋について何も聞けなかった。
 ましてや、扉の向こうからあのおぞましいうめき声が聞こえたとは、とてもではないが口にできなかった。
 居間に戻り、一通り金庫の仕様について説明を終える。二階の部屋については何も言わなかったが、小夜子の様子は普段通りの穏やかなものになっていた。不思議とわたしも、あの部屋の異常さについて追及しようとは思わなかった。小夜子の機嫌が戻ったこと、ただそのことにわたしはほっと胸をなで下ろしていた。
 一つ二つ、仕様についての確認をした後、小夜子との会話が途切れた。これで彼女と会う理由がなくなってしまう。この関係が終わってしまう。そう思うと、わたしはひどく未練がましい気持ちになった。
 この想いを伝えてしまおうか。一瞬、自身の心が揺らめくのがわかった。理由がなくとも、またあなたに会いに来てもいいですか、そう聞いてしまえばいいとも思った。
 だが、結局言い出すことはできなかった。わたしは、何事もなかったように小夜子に別れの挨拶を告げ、屋敷を後にした。ただその時、わたしは小夜子との別れに対し、ささやかな抵抗を試みていた。
 車に戻るとわたしはジャケットの懐から、ジッパー付きの小さいポリ袋をとりだした。袋の中には銀色に鈍く光る鍵が三本入っている。それは予備を含めた、金庫を解錠するための鍵だった。オートロック式のあの金庫は、一度閉めてしまえばこの鍵を使わない限り解錠することはできない。
 また明日辺り、鍵を渡し忘れていたと言って小夜子のもとを訪れよう。
 くだらない、子供のいたずらのようなものだ。そんなことをして何が変わるわけでもない。
 だが、それでもせずにはいられなかった。

 *

 翌日、わたしは鍵を持って小夜子のもとへと向かった。
 〝……続いてのニュースです。一年前の七月四日、都内のアパートで男性が腹部を包丁で刺され死亡した事件について警視庁は、現在足取りのつかめていない、当時同じアパートに同棲どうせいしていたパート従業員の斎藤さいとう 和子かずこさんについての情報を……〟
 どんよりと薄暗い雨空の下、車のラジオからは何回か聞いたことのある暗いニュースがながれていた。朝からこんな話ばかりを聞かされていると、何もなくても気が滅入ってしまう。
 そんなわたしとは裏腹に、その日は小夜子の住む地域で大規模な祭りがもよおされるらしく、繁華街の辺りはどこかにぎやかな雰囲気に包まれていた。去年、初めて小夜子のもとを訪れたのは、この祭りが終わった後だったのだろうか。集落内にここまで人が多くいるのを見たのは初めてだった。
 結局、小夜子から鍵のことについて連絡が来ることはなかった。昨日会社に戻った後と、今朝の二度、小夜子の住む屋敷へと電話をかけてみたが繋がらなかった。もしかしたら私のしたことに気づいて、怒っているかもしれない。家を出る時そんなことを思いもした。だが、それでもわたしは、しとしとと降る雨の中、車を走らせた。
 屋敷の前に着くと、わたしは普段訪れるのと同じように屋敷の門を潜り、玄関の扉を軽くノックした。しかし、いくら待っても返答はない。今日は不在にしているのだろうかと、そう諦めかける。だが、わたしはふと思い立ち、玄関扉の取手に指をかけほんの少し引いてみた。鍵はかかっていなかった。玄関扉はなんの抵抗もなくあっさりと開いた。
 わたしは無断で屋敷の中へと入った。もちろんそれが法を犯す行為であることはわかっていた。それでも、ずるずると何か見えない力に引きずられるように、わたしは玄関を上がり屋敷の中へと踏み込んだ。
「小夜子さん、いらっしゃらないんですか?」
 そう呼びかけながら、わたしは屋敷の異変に顔をしかめた。昨日、あの二階の部屋から漏れて来ていた不快な臭いが屋敷中に広がっていたのだ。
 わたしはもう一度小夜子の名前を呼んでみた。だが、水底のような重々しい暗さをたたえる廊下に、その声は響かなかった。わたしは天井からぶら下がる電灯を見上げる。結局、いつまで経ってもこの電灯が修理されることはなく、ここの廊下は最後まで暗いままだった。
 しかし、そんな廊下に一筋、細長い灰色の光が差していた。それはほんの少しだけ開いていた居間のふすまから差している光だった。小夜子がそこで待っている。そんな予感がして、わたしはそこへ入ってみることにした。
「小夜子さん?」
 ふすまを開き、そう声をかけてみる。だが予感とは裏腹に、居間に小夜子の姿はなかった。そこにはひどく場違いな、巨大な金庫がたたずんでいるだけだった。
「小夜子さん、いないんですか?」
 わたしはそれまでよりも少し大きな声でそう呼びかけた。しばらくしても返事が返ってこないことを確認してから、ジャケットの懐に手を入れて鍵を一本取り出した。
 金庫の鍵は閉じられていた。つまり、小夜子は何かをこの中にしまったのだ。
 それは、本当に全くの興味本位からであったのか、それとも何か誘うような力が作用したのだろうか。とにかくわたしの性格から考えてあり得ないような行動だった。だが、その時は目の前にある金庫の中身――つまり小夜子がそこまでして大切に仕舞い込んだものを見てみたいという欲望がわたしを突き動かしていた。わたしは震える指で鍵をつまんで、解錠用の鍵穴に差し込もうとした。
 不意にギシッ……と二階から床のきしむような音が聞こえた。それに驚き、手にしていた鍵を指の隙間すきまから取り落としてしまった。
「小夜子さん?」
 鍵を拾う暇さえ惜しんで、わたしは大急ぎで廊下に飛び出した。勝手に屋敷の中へ入ったことについて何か弁解をしなくては。
 だが、もう一度呼びかけても返事は返って来なかった。わたしは廊下の突き当りまで行くと、急ぎ足で階段を駆け上がった。二階のあの部屋に小夜子もいるのではないかと、そう思った。昨日と同じように、階段を上がるごとに不快な臭いは強くなっていく。
 二階に上がると、例の部屋の扉がわずかに開いていた。開かないように打ち付けられていた木の板は全てぎ取られ、丸められた大量のガムテープと一緒に、廊下の隅に無造作に打ち捨てられていた。がされたテープののりがべっとりとこびり付いたドアノブを、わたしは握った。そしてわずかに開いていたその隙間すきまから音をたてないよう、ゆっくりと中をのぞいた。
「うっ……」
 途端にわたしは鼻を抑えた。ひどい臭いだった。部屋の中は、吐き気を催し、強い忌避きひ感を抱かせる悪臭が充満していたのだ。たまらずわたしは扉を閉めた。だが、すぐにその部屋の中で小夜子に何かあったのではないかと思いなおし、なるべく息をこらえながらも再度、扉を開いて中へ入った。
 曇天とはいえ、昼間とは思えないほど暗い部屋の中は、足の踏み場もない程に散らかっていた。およそ病人が寝込んでいるようには見えなかった。
 わたしは酷い臭いに表情を歪めつつ、閉ざし切ったカーテンと窓を開け放した。
 外からの光が差し込むと同時に、部屋の中に充満していた悪臭が窓から逃げ出してゆく。
 わたしは開放された窓を背にして部屋の方へ振り返る。部屋の中には大量の絵の具や筆、パレットなどの画材道具が乱雑に転がっていた。そして中央にはひとかかえ程もある大きな画架が立てられてあった。画架には経年劣化で絵の具がげ落ち、ぼろぼろになった絵がかけられている。よく見てみると肖像画のようにも見えたが、肝心の肖像部分が切り抜かれたように丸ごとなくなっており、黒ずんだキャンバスの表面がむき出しになっていた。見ようによってはそれが真っ黒な女性のシルエットのようでもあった。描かれた人物がキャンバスを抜け出し、どこかへ行ってしまったかのような空虚さがそこにはあった。
 絵画の端にはかすれた文字でこう記されていた。

〈『亡き君を想う  我が妻 小夜子』   昭和一九年六月〉 

 丁度、五十六年前に描かれた絵画のようだった。それが何を意味するのか理解する前に、わたしはキャンバス越しに異様なものを見つけてしまった。
 窓からの明かりが届かない、部屋の隅のどんよりとした暗がりにそれはあった。それはまるで、安置された棺のようにも見える巨大な木箱だった。昔、嫁入り道具として使われていた長持ながもちというやつだろうか。その大きな木箱は、分厚い蓋を開け放されたまま、ぽっかりと口を開けて中の空洞をさらしていた。
 ――あの中に異臭の原因がある――
 わたしは直感した。
 臭いの元を確かめるべく近くに寄ってみる。木箱の蓋の裏には何かで引っいたような無数の傷跡と、こすりつけられた赤茶色の汚れが付いていた。木箱の中をのぞいて見ると、木箱の底にはどす黒く汚れ、雨に打たれたように大量の水分を吸ってぐっしょりと濡れた古い毛布が敷かれている。木箱の中は、毛布を含め、どこかしこも絵の具のような粘り気の強い黒々とした液体に汚染されており、カエルやミミズの皮膚のようにてらてらと光っていた。
 この屋敷に蔓延はびこる悪臭の原因は、見る角度によって光を反射し、い回るムカデのごとく黒くうごめく錯覚をもたらす、箱の内側に大量にこびり付いたその黒い液体だった。
 思わず顔を背け、木箱から離れる。こみあげて来る吐き気を必死でこらえる。鼻腔から肺を通り越し脳髄のうずいまでが一度に壊死えししそうな程の臭いだった。しかし、わたしはその臭いにわずかに覚えがあった。
 それは二十二年前のあの夜、苦しそうに何度もすすり上げるような呼吸をしていた父の吐息に、わずかに混じっていた臭いと同じだった。わたしは、木箱の内部にこびり付いたその液体から漂う、その悪臭の正体に気づいてしまった。

 それは死臭だった。

 この箱の中で、人が死んで、そして腐っていったのだ。
 それを理解するやいなやわたしは跳ねるようにして部屋を飛び出した。濃厚な死の臭いに巻きつかれ、今にも窒息してしまいそうだった。
 これ以上、この屋敷にいてはいけない。脳内で鳴り響く警笛に急き立てられ、慌てて階段を駆け下りると、一階の長い廊下へ飛び出した。そして何度も足を滑らせながら、わたしは玄関へ向かって突進した。あと少し、もう少しという所で、わたしの視界の隅に、居間で立ち尽くす女の姿が映った。
 ――小夜子だ――
 わたしは玄関の前で、蜘蛛の巣に絡めとられた小さな羽虫のように動けなくなった。心臓がばくばくと音を立てる。はぁ、はぁ、と息を整え、ゆっくりと後ろを振り返った。人の気配は依然としてない。すぐ近くの居間のふすまは、開け放たれたままだった。
 今のは本当に小夜子だったのか?
 わたしは動揺しつつも居間をのぞいてみた。恐ろしかったが、それでも小夜子がいるのなら、どうしても会いたかった。二階の部屋や、異臭のするあの木箱に何が入っていたのかを問い詰めようとは欠片も思っていなかった。ただ、彼女の顔を見て少しでも安心したかった。
 だが、そこに小夜子はいなかった。
 ――あれは幻だったのか、いや、しかし――
 小夜子の影が立っていた所に、わたしも立ってみた。広い居間の中、柱にはりつけにされたように立つ金庫と丁度向き合う形となった。ほんの少し足を動かすと、つま先に何か固いものが触れた。ひんやりとした感触にドキリとしてそれを見ると、足元に小さな鍵が落ちている。それはついさっきここで取り落としたものだった。わたしは鍵を拾い直した。そして目の前の金庫に視線を向けた。 
 小夜子は一体、何をこの中に仕舞ったのか。そして今、彼女はどこにいるのか。
 〝私、好きになったものは皆、どこかに閉じ込めておかないと気が済まないんです〟
 頭の中に嫌な考えが広がった。わたしは恐る恐る金庫に耳を当ててみた。

 ウゥゥ…………ウゥゥ…………

 冷たい扉越しに何かが聞こえて来るような気がした。曖昧あいまいでよく聞き取れなかったが、それは父が死ぬ直前にしていた呼吸音にもよく似ていた。
 それが本当にわたしの耳に聞こえてきている実際の音なのか、それとも過去の記憶と妄想が生み出した幻聴なのか、判別はつかなかった。だがそれから少し遅れて、
「どうぞ」
 と耳元で誰かがささやいた。分厚い金属の板を挟んでいるにも関わらず、吐き出す息や唇の動きもすぐ近くに感じられた。
 金庫の扉につけた耳の穴から、白い霧がわたしの脳へ侵入してくるような感覚があった。それは痺れるような甘い刺激を伴っていた。この中には何があるのか。彼女の夫はどこへ行ったのか。そんなことは最早どうでもよくなっていた。「どうぞ」と言われたのなら、わたしは扉を開け、中へ入らなくてはならない。邪魔者はもういない。今度こそ全てから解放され、小夜子のものになるのだ。
 わたしは拾った鍵を鍵穴に挿し込んだ。新品の鍵穴は何の抵抗もなくそれを受け入れた。あとは少しだけ力を込めてこの鍵を回せば、この重い扉はその口を開く。
 指先が震える。もう何もかもどうでもいいと思っていたはずだったが、ほんのわずかなためらいが私の中に生じていた。
 ふと、視界の隅で影が動いた。そちらへ目を向けると同時に、薄暗い部屋の中に光が差した。外で強い風が吹いたらしい。束の間、緊張から解かれわたしは外を見る。雨はまだ降り続いているものの、吹いた風に流されて、雲間から日の光がいくつもの筋となって地表におりて来ていた。
 わたしの視線は、庭の花壇へ自然と向いていた。日の光は、雨に打たれ続けてもなお咲く松虫草の小さな花を照らしていた。
 ふと、遠くの介護施設にいる母は今、何をしているのだろうかと思った。わたしのことを忘れていても構わない。父のことを許してもらえなくてもいい。たった一人残った家族に、またもう一度だけ会いたいと思った。

 ――ご存命の内なら、遅いなんてことはないと思いますよ――

 いつかの小夜子の言葉が蘇った。
 居間に差し込んだ日の光がわたしの顔を照らした。はっと我に返る。視界が開け、風の吹く音、雨が軒を叩く音、荒い自分の息づかい、様々な音が思い出したかのようにざわざわと耳へ飛び込んで来た。
「すみません、小夜子さん。わたしは……」
 挿した鍵を引き抜くと、手のひらに強く握った。
 突然、辺りの空気が変わった。目前にある金庫の隙間すきまという隙間すきまから、二階の部屋で嗅いだものよりもさらに濃い死臭と、ぞっとする程どす黒い何かが――むき出しになった人間の暗い感情のようなものが――煙のようにもくもくとあふれ出してきた。分厚い雲が再び空を覆い、屋敷の中は暗くなる。気温が急に低くなった。

 ガンッ……

 今度は間違いなくはっきりと、金庫の中から音がした。中で何かが動いたように、開くはずのない扉が内側から音をたてて揺れた。

 ガンッ、ガンッ、ガンッ…………

 何かが内側から扉を叩いている。何度も、何度も、何度も…………
 今度こそわたしは逃げ出した。何度もつまずきかけ、玄関から転がるようにして。

 *

 後日、わたしは営業の仕事を辞めた。母のいる介護施設の近くに移り住み、今では営業員よりも、もう少しだけ自分に合った仕事をしている。
 母の様子は相変わらずで、いまだに話すことも難しい状態のまま、父が最期に撮った写真の中の幼いわたしを待ち続けている。
 だが、それでもわたしは時間を見つけては母のもとへ通うようになった。わたしのことを思い出せなくてもそれでいい、今までの時間を、母が生きている限り少しでも取り戻そうと思っている。
 つい先日介護施設を訪れた際、山本から、以前わたしが渡した松虫草の種がようやく芽を出したと伝えられた。赤い陶器のコップを花瓶代わりとして植えられたその芽は、なんとも頼りなく、吹けば今にも倒れてしまいそうな弱々しい双葉だった。だが、間違いなくあの小さく固い種から芽吹いたものだった。
 風の噂によればあの屋敷はその後、季節外れの大雨により引き起こされた土砂崩れに巻き込まれ、なくなってしまったそうだ。大量の土砂に埋もれた屋敷の残骸ざんがいからは、誰も見つからなかったという。
 付近の住人いわく、あの屋敷は数十年以上前、妻に先立たれた家主の老人が突然いなくなってからはずっと空き家の状態で、今まで誰かが住んでいたような気配はなかったという。直前まで屋敷を出入りしていたこともあり、警察に何度か事情を聴かれたが、小夜子と名乗る女性が金庫を購入したという事実以外、わたしの話はあまり信じてもらえなかった。結局、小夜子やあの金庫についてその後どうなったのかは聞かされていない。
 最後まで目的はわからないままだったが、あの頃のわたしはきっと、小夜子に利用されていただけだったのだろう。恐らく誰でもよかった。わたしはあの雨の降る日、偶然彼女の電話を取ってしまったに過ぎないのだと思う。
 彼女は一体何を考えていたのか。彼女の言葉はどこまでが本当で、どこまでがわたしを操るための欺瞞ぎまんだったのか、今となっては確かめようもない。
 
 ――ご存命の内なら、遅いなんてことはないと思いますよ――

 だが、あの金庫の扉を開きかけた時、わたしを救ったのが小夜子の言葉だったことだけは確かだ。
 結局、あの金庫の鍵は捨てられず、まだわたしの手元に残っている。いつかまた、使う時が来るのだろうか。
 仕事を辞めてから少しして、一つだけ思い出したことがある。かつて母が言っていた松虫草の花言葉についてだ。
 松虫草の花言葉、それは、

『未亡人』
『悲しい花嫁』
『叶わぬ恋』

 そして、『不幸な愛情』である。




【おわり】

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