わからないまま、隣にいる
「おまえ、虐待されたことあんの?」
その子は、私の目をまっすぐ見てそう言った。
怒鳴るというより、突き放すような声だった。
感情をぶつけているようでいて、どこか冷めていた。
私が何を言い返すか、最初からわかっているような目をしていた。
「この人もどうせ同じだろう」
そんなふうに言われている気がした。
児童養護施設には、さまざまな事情を抱えた子どもたちがやってくる。
家で安心して眠れなかった子。
食卓が、楽しみではなく緊張の場所だった子。
大人の足音に、体をこわばらせてきた子。
大好きな人に、何度も傷つけられてきた子。
それでも、その人を嫌いになりきれない子がいる。
大好きなのに怖い。怖いのに、頼れるのはその人しかいない。
逃げたいのに、帰る場所はそこしかない。
助けてほしいのに、助けてと言う相手がいない。
そんな矛盾を、小さな体で抱えてきた子どもたちがいる。
私は児童養護施設で働いている。
朝ごはんを作り、学校へ送り出し、帰ってきた子に「おかえり」と言う。
宿題を見て、喧嘩の仲裁をして、夜には「おやすみ」と声をかける。
そういう日々を、十年ほど繰り返してきた。
それでも私は、いまだに子どもの気持ちがわからない。
十年も働いているのに、と思われるかもしれない。
けれど、十年働いたからこそ、わからないものはわからないのだと、前よりはっきり思うようになった。
私には虐待を受けた経験はない。
むしろ、愛されて育ってきたほうだと思う。
家にはいつもごはんがあり、熱を出せば心配してもらえた。
誕生日も盛大というわけではないが、それなりに祝ってもらえた。
帰る場所があり、自分のことを大切に思ってくれる親がいた。
だから、虐待の痛みを本当の意味でわかることはできない。
それは考えてみれば当たり前のことなのだが、職員をしていると、その気持ちに共感して対応することが、ひとつの基本として教わる。
私もそのとおりに対応した経験は、数え切れないほどある。
多くの子どもは、そんな大人の言葉を、何も言わずに受け取ってくれた。あるいは、受け取ったふりをしてくれていたのかもしれない。
けれど中には、その言葉の温度を見ている子がいる。
「ほんとうにそう思ってる?」
その子は、いつもそう問い返すような目をしていた。
そして、いつも集団の中で強がっていた。
他の子にちょっかいを出して、嫌がらせのようなことをしてしまうことも多かった。
口がよく回り、注意されそうになると、先にこちらを傷つけるような言葉を投げてくる。
出会って間もない大人を簡単には信用しなかった。むしろ、信用しないための理由を探しているようにも見えた。
どこまで言えばこの大人は離れていくのか。
どこまで乱せば本性を出すのか。
いつも試されているような気がした。
その日、私はその子に注意をした。
何を注意したのか、細かいことはもう曖昧だ。誰かに嫌なことを言ったのか、物に当たったのか、ルールを破ったのか。
児童養護施設の日常には、そうした小さな火種がいくつもある。
私はその子に向かって、たぶん職員らしい顔をして話していた。
「それはよくない」
「相手は嫌な気持ちになる」
「ちゃんと考えてほしい」
そんなことを言ったのだと思う。
すると、その子は言った。
「おまえ、虐待されたことあんの?」
私は一瞬、固まった。
「虐待されたことはないよ」
そう答えるのが精一杯だった。
その子は、すぐに言った。
「だったら偉そうな口聞くな。気持ちもわからんくせに」
そのあと、私は何も言えなかった。
「虐待された経験は今は関係ない」
「よくないことはよくない」
そう返すこともできたのかもしれない。
けれど、そのときの私は、ただ黙ることしかできなかった。
本当にそうだ、と思った。
私はこの子の気持ちがわからない。
この子が家で受けてきた傷を知らない。夜、布団の中で何を思っていたのかも知らない。大人の足音に怯える感覚も知らない。
好きな人に傷つけられるということが、どれほど心に深い傷を負うのかも知らない。
その痛みがわからないのに、私はこの子に何が言えるのだろう。
子どもたちを支援する資格なんてあるのだろうか。
それ以来、私はずっと後ろめたさを抱えるようになった。
同じ経験をしていない私の言葉は、子どもには届かないのではないか。
私がどれだけ寄り添おうとしても、それは「わかったふり」にしかならないのではないか。
「わかるよ」
「つらかったね」
「大丈夫だよ」
そういう言葉が力になる瞬間も、もちろんある。
けれど、どこか教科書どおりにも思えるような対応をしたとき、子どもの目がすっと冷めることがあった。
その目を見るたびに思った。
見透かされている。
支援者らしい言葉を並べていること。
この場を、できるだけ波風なく収めようとしていること。
傷ついた子どもの前で、傷ついていない私が、傷つかない言葉を選んでいること。
子どもは、聞いていないようで聞いている。
見ていないようで、こちらが何を避けたのかまで見ている。
児童養護施設で働こうと思ったとき、私は今よりずっと単純だった。
傷ついた子どものそばに、信頼できる大人がいればいい。自分も、その一人になれたらいい。
そんなふうに考えていた。
入職してすぐ、その幻想は崩れた。
子どもたちは、私が思っていたようには笑ってはくれない。
優しくすれば心を開いてくれる、なんて簡単な話ではなかった。
話を聞こうとすれば、余計に怒る。優しくすればするほど、要求が増える。
疲れている日に限って、わざと怒らせるようなことをしてくる。
何とか対応がうまくなりたくて、支援の本を読みあさり、研修にもよく行った。
愛着。トラウマ。発達。行動療法。心理学。
いろいろな言葉を覚えた。
でも、言葉を覚えれば覚えるほど、目の前の子どもがわからなくなる感覚もあった。
本には載っていない表情をする。
研修では想定されない言葉で、こちらの薄さを突いてくる。
「落ち着くだろう」と思っていた関わりで、かえって気持ちが大きく揺れることもある。
心と体は、何度も底をつきそうになった。
こちらが正しいと思っている関わりが、届かない。
その子と出会ってからは、より強くそれを感じるようになった。
ホームのルールをめぐって、何度も言い合いになった。
友人とのトラブルで、学校や相手の家庭に一緒に頭を下げに行ったことは、一度や二度ではない。
こちらは必死で謝っているのに、本人はどこかあっけらかんとしている。反省していないように見えて、腹が立つ日もあった。
どうして伝わらないのだろう。
ただ徒労感だけが残る日もあった。
言い合いになった日の夜にも、同じ食卓につく。
次の日には、また同じテレビを見る。
果物を出せば、黙って食べる。
ゲームに誘えば、少し迷ったような顔をしてから、結局座る。
こちらの気持ちが追いつかないまま、生活は続いていく。
集団の中では相変わらず強がっていた。職員に注意されれば反発したし、気持ちが荒れれば言葉も荒くなった。
けれど、一対一になると違った。
夜の生活場面。湯気の残る脱衣所。寝る前の廊下。誰もいないリビング。
そういう場所で、その子はぽつりぽつりと話すようになった。
「あのとき、本当はこう思っててさ」
「別に怒りたかったわけじゃないんだけど」
「家にいたとき、こういうことがあって」
その言葉は、いつも唐突だった。
こちらが「話して」と求めたときには出てこない。何でもない時間の中で、ふとこぼれる。
私が急いで拾おうとすると、すぐに引っ込んでしまう。だから、できるだけ慌てないようにした。
驚きすぎない。
詰めすぎない。
わかったような顔をしない。
ただ、「そうだったんだ」と受け取る。
その子が語る家での出来事は、私の想像を超えていた。
どうしてそんなことを、子どもが一人で抱えてこなければならなかったのか。そう思うような話が、いくつもあった。
それでも、その子は淡々と話すことが多かった。つらかったことを、まるで昨日の天気を話すように口にすることがあった。
私はそのたびに、言葉を失いそうになった。
でも、言葉を失った顔をすると、その子を一人にする気がした。
ただ隣で、その言葉を受け取るしかできなかった。
ある時期から、実の母との面会が始まった。
その子は、母に会いたくないわけではなかった。むしろ、会いたい気持ちはあったのだと思う。
けれど、面会の日が近づくと様子が不安定になった。表情が固くなる。口数が減る。ささいなことで苛立つ。
そして、いざ母を前にすると、言葉よりも先に身体が反応してしまうことがあった。
一度だけではなかった。
面会のたびに、似たようなことが続いた。
その姿を見ながら、私は、ほどけない糸を前にしているような気持ちだった。
会いたいと言っていたのに、どうしてだろう。
好きなのか、怖いのか、怒っているのか、寂しいのか。
その子自身も、きっとわからなかったのだと思う。
ある夜、その子がまたぽつりと話し始めた。
「家にいたときさ」
私は黙って聞いた。
「お母さんは、直接は叩いてこなかった」
少し間が空いた。
「でも、守ってくれなかった」
その言葉を聞いたとき、私ははっとした。
そうか。
この子が傷ついていたのは、暴力そのものだけではなかったのだ。
私はそれまで、加害をした人のことばかり見ていた。
誰が何をしたのか。
どんな暴力があったのか。
どんな危険から離す必要があったのか。
もちろん、それは大切なことだ。
けれど、その子が深く傷ついていた場所は、そこだけではなかった。
助けてほしかった人が、助けてくれなかったこと。
守ってほしかった人が、守ってくれなかったこと。
自分が苦しんでいたとき、その苦しみに気づいてもらえなかったこと。
心の奥底に沈んでいた、その子の叫びが浮かび上がってきたようだった。
私はその子の痛みをわかったわけではない。
でも、その子が何に傷ついていたのかを、少しだけ知った気がした。
後日、過去の記録を読み返した。
すると、確かに見えてくるものがあった。
母がその子に直接手を上げた記録はなかった。けれど、その子の前で何が起きていたのか。そのとき、誰がその子を守れなかったのか。
そのことについて、母から本人へ言葉が渡された形跡は見当たらなかった。
謝られないまま、そこに残っていた痛み。
私は母との面接の場で、その子の言葉を伝えた。
責めるためではない。
ただ、その子の痛みを、なかったことにしてはいけないと思った。
「直接手を上げたかどうかだけではなくて、守ってもらえなかったことが、この子の中に残っているように思います」
そう伝えた。
母は黙って聞いていた。
長い沈黙があった。
そして、謝りたい、と言った。
後日、手紙が届いた。
そこには、その子に向けた謝罪の言葉が書かれていた。
守れなかったこと。
気づけなかったこと。
苦しい思いをさせてしまったこと。
その言葉が、どこまでその子に届いたのかはわからない。
手紙一枚で、過去が消えるわけではないし、傷ついた時間がなかったことになるわけでもない。親子の関係が、急に美しいものへ変わるわけでもない。
それでも、その手紙を読んだあと、その子の表情が少し変わったように見えた。
翌日から急に穏やかになったわけではない。相変わらずルールをめぐってぶつかることはあったし、腹を立てることもあった。
けれど、どこかで力が抜けたように見えた。
張りつめていたものが、少しだけ緩んだように見えた。
その頃から、その子は私の前で以前よりも本音を話すようになった。
「ほんとは嫌だった」
「会いたい気持ちはあるけど、怖い」
「自分でもよくわかんない」
そんな言葉が出るようになった。
私は相変わらず、気の利いた返事はできなかった。
「そっか」
「そうだったんだね」
「何て言ったらいいかわからないけど、ちゃんと聞いてるよ」
それくらいしか言えないことが多かった。
でも、その子は話しつづけた。
強がりも、照れ隠しも、乱暴な言葉も混じっていた。
それでも、その奥にある気持ちは、確かにこちらへ向けられているように感じた。
二年ほど経つ頃には、母と会う時間も、以前よりは落ち着いて過ごせるようになっていた。
そして、私にもずいぶん素の顔を見せるようになっていた。
もちろん、いつも穏やかだったわけではない。相変わらず気持ちが荒れる日もあったし、言い合いになる日もあった。
でも、以前のように、こちらを遠ざけるためだけの言葉は減っていた。
困ったとき、少しだけこちらを見る。
うまく言えない気持ちを、少しだけ預けてくる。
嬉しいことがあったとき、何でもないふりをして報告してくる。
私の前なら、本音を話してもいい。
そう思ってくれているのかもしれない。
そう感じる瞬間が、少しずつ増えていった。
私はただの職員だ。
血もつながっていない。
親でもない。
ずっと一緒にいられる保証もない。
それでも、私の前で、少しだけ言葉をほどくようになった。
それ以上のことは、今もわからない。
夕方、台所に立つ。
味噌汁の鍋をかき混ぜながら、今日も私は、あの子の気持ちをわかっていないと思う。
それでも、果物を出すと少し顔が緩むことは知っている。
褒められると、わざとそっぽを向くことも知っている。
一対一になると、乱暴な言葉の奥から、別の言葉が少しだけ出てくることも知っている。
「おまえ、虐待されたことあんの?」
私は、その問いに今でもうまく答えられないだろう。
その痛みを本当の意味でわかることはできないし、たぶん、これからもそうだろう。
それでも、あの子好みの薄さにりんごを切ることはできる。
気持ちが荒れている夜に、隣でただ話をきくことはできる。
あの子が一人では渡せなかった言葉を、必要な相手に届けることはできる。
支援と呼ぶには、小さすぎるかもしれない。
今のところ、私にはそれくらいしかできない。
でも、そのくらいなら、嘘をつかずに続けられる気がしている。
私は今日も、わからないまま、隣にいる。
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