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『橋姫』 #創作大賞2024

橋姫の心をくみて高瀬さす
棹のしづくに袖ぞぬれぬる
ながめたまふらんかし

『源氏物語』

一、@OFFICE 7/6 18:33

 ジャックポット博士の噂をエマが訊いたのは、数日前の晩であった。
 妹のキャメラが紅茶をいれながら、ジャックポットで無敗の男が一週間くらいまえから店に出没しているとエマに伝えてきたのだ。
「そんなの出鱈目よ」
「でも、博士は無敗なの」
「信じないわ」
「お姉ちゃんもやってみればいいじゃない。ここ数年、ジャックポットで誰も勝っていないんだから」
 キャメラのバアでは、ジャックポットなるゲームが夜な夜なバカみたいにくりかえされ、客の飲酒量を強引に増やしていった。その客のなかに、神がかっている東洋人がいるというのである。ふらりと時折現れては、大概は二週間程度店に顔を出し、また何処かにいってしまう。おそらく世界各地を旅しているのではないかということであった。
「ジャックポット博士か」
 キャメラは元から長い髪にさらにウィッグをつけて、髪先を巻いている。
 おとぎの国から亡命してきたばかりのペルシャ人形みたいであった。
 自分だけが結婚に失敗し、今はすぐ下の妹たちとここプノンペンで同棲。エマは姉妹にご飯も食べさせてもらっているこの現状から、いち早く脱したかった。
 木材の違法販売で夫が逮捕されたのは、つい先週のことである。
 週の五日以上は家を留守にし、ひたすら地方に木材を仕入れにいく日々を夫は送っていたため、新婚でありながら、エマはひどく孤独であった。電話しても繋がらぬことが増え、気がつけば1日に100件以上も夫の携帯電話に不在着信のマークをつける日もでてくる始末。あきらかに自分の異常さは理解していたものの、かといってどうしてよいかエマ自身にもわからなかった。
 朝から晩まで泣く日々がはじまり、目をいつも腫らしていた時期が半年続いた。
 離婚の決意をしたのは、地方に女がいると知ったときであった。
 薄々は勘づいていたものの、あえて見ぬふりをしていた日常に、突如、終止符が打たれたのである。朝一番に女が尋ねてきて、夫は自分のものだと主張してきたのだ。いかにも気の強そうな厚化粧の嫌な女であったが、それ以上に目だけを腫らした化粧っ気のない自分が惨めであった。
 そもそも他に女がいることは、結婚する前からわかっていたことではあった。しかし、この国では最初につきあった男と結婚せぬ女は蔑まされてしまう慣習が未だに根強く残っている。結婚すれば、夫は変わる。結局、そう信じてきた自分の世間知らずぶりが露呈しただけの年月を過ごしただけであった。
 女がやってきた晩、エマは夫を責め、離婚の意思を告げた。
 意外にも夫はサインを拒否し、
「ハニー、違うんだよ」
 とおろおろし、泣き始めた。
 泣きたいのはこっちであったのに。
 結局、夫はそのまま数日間、家を留守にした。
 こんな生活がいつまでも続くのだと絶望していた矢先、夫が逮捕されたという一報が届いたのだ。女のもとに逃げたとばかり思っていたが、夫はどうも仕事をしようとしていたらしい。
「あのクズ男が出所してきたら、問答無用で離婚してやる」
「は? 逮捕されたんでしょう。今すぐ離婚すればいいじゃん」
「したいけど、あいつ、絶対に離婚届にサインしないって散々言ったでしょう」
「バカね。伴侶が罪を犯した場合、一方のサインだけで離婚はたしか成立するんだよ」
「キャメラ、それ本当?」
「結構、有名な話だと思うけどな」
「そうなんだ。でも、お金が……」
 夫と別れるということは、収入がなくなるということも意味していた。
 結婚まえまではフットボールの試合を賭ける会社で接客をしており、客が勝ったときなどは気前よくチップをくれたものなのだが、法律が厳しくなり、その会社はとうに倒産している。ギャンブル好きな国民性のため、一試合に全財産をオーアダムンしてしまう者も珍しくなかった。当然、財を失う者が多くなり、結局は窃盗が増加してしまったというのが法律改正の理由であった。
「うちの店、紹介しようか。つなぎとしてはよい店だとおもうよ」
 キャメラの仕事先は118通りのリバーサイド近くにある@オフィスという外国人向けバアである。キャメラはそこでポールダンサーの仕事をしていた。天井から花びらのようにクルクルと肉体をくねらせて降りてくる姿は、女のエマから視ても妖艶だ。
「でも、キャメラみたいに踊れないし」
 あの長い脚とクメール人離れした曲線美を見せられては、とても同じ舞台にあがる気になれない。妹に栄養を全部とられたのか、エマの身長は155cmにも満たなかった。妹に勝てそうなのは、英語の発音くらいしかない。妹の舌はあまりに長過ぎてしまって、うまく歯茎を押せないのだ。
「あら、ダンサーじゃなくてもいいじゃない」
「接客なんて、もっと厭よ。西欧人は大き過ぎて怖いもの」
「じゃあ、お姉ちゃんはカウンターのなかで酒をつくっているというのはどう? そりゃあ、バーテンダーだから給料はそこまでじゃないけれど、その分、危険はないわ」
「でも……」
「一日だけ体験してみれば。博士にも会えるかもしれないわ。たまにしか来ない人だから、顔を見れるだけでも貴重なのよ。それにね」
「それに?」
「万が一、お姉ちゃんが博士にジャックポットで勝つようなことがあったら、博士のあの神がかった運気をごっそりいただけちゃうかも」
 キャメラは無邪気に笑っていた。
 夫の逮捕からはじまり、怒涛の一週間が過ぎた。
 そのあいだに、離婚と就職ができたそうなのは大きかった。

 雨季はプノンペンに限らず、客足が遠のく。
 日本のODAがはいり下水整備がかなり改善されたものの、未だプノンペンの排水環境はよいとは言い難い。21世紀に入り、もうすぐ四半世紀経つというのに、通りが膝下までの水たまりだらけになるのも、珍しいことではなかった。しかし今のエマにとっては、その客の少なさがなんともありがたかった。
 博士と初めて会ったときも、外は暮方の驟雨であった。
 のんびりとワイングラスの手入れをしていたところに、
「なあ、君。そこのゲームをとってくれないか」
 と声を突然かけられたものだから、エマはびっくりしてワイングラスを落としそうになった。いつの間に来店したのだろう。男は色の着物のようなもの姿であった。後から知ったが、作務衣というらしい。帽子は真っ白なパナマ帽である。
 キャメル曰く、博士はいつもその井出達なのだそうだ。
「え、私?」
「そうだよ、君がエマだろ」
 微笑する男の背後にキャメラの姿があり、こちらに目配せしている。
「あら、貴方が噂のジャックポット博士なのね」
「どうも、そうみたいだ。しまらない名前だから、あまり好きではないんだがね」
「じゃあ、本名はなんて言うの。私はそっちで呼んであげる」
 博士はゆっくりと微笑し、首を横にふった。
 カウンターの棚からエマはジャックポットをとりだすと、「グッドラック」と言い添えて、博士にそれを渡した。異様に長い指でそれを受けとると、博士は「オークン」と礼を言い、女たちの群れへと消えていった。
 なんて女性的な指をしているのだろうとエマはおもった。
 この豪雨だ。他の客はしばらく来ないであろう。
 エマは化粧室に寄り、自分の顔を鏡で見た。
 すっかり目の腫れもひき、一週間まえとは別人の別嬪ぶりだ。化粧室を出たら、博士の席に行ってみようと思った。仕事も暇だろうし、何よりその神がかり的な強さを拝んでみたい。
 化粧室の扉をあけると、すでに博士のまわりにはすでに二十名近くの女が群がっていた。いつもは軽蔑する景色ではあったが、今宵だけはその輪に加わりたい。
 背伸びして様子をみたが、ジャックポットはまだ始まっていなかった。
 女たちが博士のスマホを見ては、次々と口をおさえて爆笑している。
「な、本当だっただろ?」
 自慢げに話す博士のスマホには、巨大なペニスを神輿でかつぐ日本人の画像があった。
「なんでクドーが神なのよ」
「というより、クドーが人間より大きいなんて」
 あまりに女たちが「クドー」を連発するものだから、博士も気になったようで、
「工藤がどうしたって?」
 と訊ねる始末である。
「クドーはクメール語でペニスのことよ」
 キャメラがこう言って笑うと、
「それはよい話だね。日本は工藤さんだらけだよ」
 と博士は微笑した。
「クレイジー。そんな可哀想な名の人がいるわけない」
「本当だって。誰か調べてくれ。どこかのミスター工藤がすぐに見つかるさ」
 勤務中、スマホはママに預ける約束であったから、誰ひとり工藤を検索する者はいなかった。メッセージが届いているかチェックするだけで、一回五ドルを店に支払わなければならない。たしかに勤務中、客を無視してスマホをいじるのはよくないとは思うが、この店のスマホ管理システムもバカげている。
「まあ、しかしアレだな。君たち、クドーの元気がない男に金は貸さないことだ」
「どうして? クドーとお金が関係あるの?」
 とキャメラが楽しそうに聞いている。
「もちろん。どんなに落ちぶれても、クドーさえ元気なら男はどうにかなる」
「そんな話、聞いたことない」
 女たちが盛りあがる。
「あと抱くたびに射精してしまう男もやめときな。中国では有名な話なんだけれども、歴代の皇帝のなかで秦の始皇帝だけがこの教えを守らなかったから、奴は意外と短命だったみたいだね」
 クドーの話題で盛りあがる女たちを尻目に、エマは、
「品がないわね。プノンペンでは今夜はロマンチックキスデーなのよ」
 と話題を変えた。
 早く博士のジャックポットが見たかった。
 これ以上、クドーで盛りあがっても仕方がない。
 しかし、いつの間にか女たちの視点が一斉にこちらに集まっており、エマは自分の発言にハッとした。
「ほう。ロマンチックキスデーなんて、洒落ているじゃないか」
 博士も話に喰いついてきたことで、エマはさらに動揺した。
「あ、いえ」
 顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかる。
「よし、今晩の私にジャックポットで勝ったご褒美は、キスに決定だな」
「いらないし」
 次々に女たちはこう口をそろえて笑った。
 兎にも角にも、話題が変わったのでよしとしよう。
 エマはいよいよジャックポットが拝めると胸が高鳴なった。
 結局、エマが見た光景はキャメラから聞いていた以上のものであった。
 博士が賽を投げているというより、サイコロが博士の身体を道具として目を出しているとしか思えない景色である。
 ゾロ目で消せるものはほとんどゾロ目を出して消し、7や9のような数字に関してもサイコロに細工がしてあるかのような消え方をしていった。実際、「サイコロがあやしいわ」と言った女がいて、途中、店側がサイコロを変える場面があったが、それでも博士の勢いは変わらなかった。
「なんでそんなに強いの!」
 あっという間に負けた女が嘆くと、
「昔、勝利の女神とキッキルーをしてね」
 などとわけのわからないことを口走り、また賽をふりはじめた。
たった二杯のアンコールビールですでに、二十名以上の女が敗れている。負けた女たちのなかには、その神がかり的な強さに飽きはじめ、カウンターにもどってしまう者も少なからず出はじめていた。いつの間にか、キャメラもそのひとりに入っている。
 そしてもう10分経った頃、気がつけば博士のまわりから女は去り、エマしか残っていなかった。ゲームで1勝もできないのでは、チップにも飲み物にもありつけない。女たちの心情もエマにはよく理解できた。
「お、君もやるかい? アイリンだっけ」
「エマよ」
「それは失礼。クメール語は日本人には発音が難しくてね」
 後にこの晩の積極性をふりかえると、エマは自分自身でも不思議であった。
「見ていたからだいたいの流れはわかるけれど、ルールを教えてもらえるかしら?」
「ほう、初めてなのかい?」
「ええ」
「見ての通り、ふたつのサイコロを転がして1から9までの数字をランダムに消してゆく運だめしのゲームでね。各々のサイコロが出た目、あアダムは合計の数を消すことができ、最後の数を消した者が勝ちなわけさ」
「えっと、例イブ、

        ⚂ ⚃

 の目がでた場合、消せる数字は3と4、そして合計の7ってことかしら」
「そういうこと。エマは賢い子だね。いずれの数字もすでに消えていたのなら、サイコロをふるターンが相手に移るだけだよ。簡単だろう」
 こう言うと博士がエマにサイコロを渡してきた。
 よく考えたら、サイコロを持つのは生まれて初めてのことであった。
 ナガホテルのカジノでは、今宵もこのちいさな立方体が振られ、法外な額の金が動いているに違いない。先月はひと晩で40万ドルも大勝ちした中国人の女がいて、カジノ側のキャッシュが足りなくなったという噂話をエマはうつつとなく思い返していた。
 エマの生涯初めての目は、

        ⚀ ⚀

 であった。エマは1を消すと、サイコロを博士に渡した。
 博士は「初めてがゾロ目か」と微笑しながら、アンコールビールをひと口飲んだ。
「ゾロ目って?」
「ああ、同じ数の目がでることをゾロ目って言うんだよ」
 と言いつつふった博士の目もまた、

        ⚀ ⚀

 であった。エマが2を消した博士をにらみつけ、
「わざと?」
 と訊ねると、博士は、
「たまたまをわざとにするのが趣味でね」
と答えた。
「厭な人」
「そうかい」
「そうよ、だってこんなにも運がよいんですもの」
「でも、運と才能は反比例するからね。それだけ私には才がないということなのかもしれないよ」
「反比例?」
「そう。私の経験上、才能に恵まれている者は等しく運が悪い」
「そういうものかしら」
「だから才がなければないほど他力で生きられる。で、賭けるのかい?」
 博士がアンコールビールを指さして言った。
 エマが敗れたら、ビールをおごれということなのだろう。
「いいわよ。もし私が勝ったら?」
「そんなことはまずないとおもうけれど、エマは何が欲しいんだい?」
「やってみなくてはわからないでしょう。私はハサミかな」
「ハサミ?」
「うん。将来の夢なの、美容院をひらくことが」
 と言って、エマは2回目の賽を投じた。
 サイコロには若干、博士の手のぬくもりが残っている。

        ⚂ ⚀

 エマが3を消したあと、
「おっ、モイ・ピー・バイだね」
 と博士が下手くそなクメール語で、数をかぞえた。
「で、賭けるの?」
「初めてのジャックポットでハサミを賭ける女か」
「クレイジーかしら」
「いや、おもしろいよ」
 サイコロのぶつかる音がジャックポットの木枠のなかでした。

        ⚁ ⚁ 

 博士は再びゾロ目をだし、4を消す。噂通り、ゾロ目でできるだけ消す気らしい。余裕の現れなのか、それともそのようにしなければならない小細工を仕込んでいるのか、エマにはわからなかった。
「ねえ、プノンペンには何のお仕事で来ているの?」
 バアで働くようになってから、相手のことが気になるというのは初めてであった。
「仕事というよりは、旅かな。まあ、職業はと聞かれれば、茶人になるか」
「茶人?」
「そう。抹茶を点てて、人に美味しく喫んでもらうのが仕事だ」
「ふうん。それはお金になるの」
「さあ。考えたことないな。今日はロマンチックキスデーなんだろう。野暮な質問はなしだ。私が勝ったら、今宵はキスもつけ加えるというのがいいな」
「ロマンチックキスデーは私のただの創作。正しくはビキニデーだから、あなたが勝ったら、ビキニをはいていいわよ」
「あれ嘘だったの? それはやられたね」
 博士の驚きぶりに、エマはおもわず吹き出した。
「しかも私がビキニをはくのかね?」
「私はビキニをはかないわ。だって泳げないんだもの。一回だけホテルヒマワリのプールに行ったことがあるけれど、プールサイドにつかまって一往復しただけ」
 キャメラが日本人と付きあっているとき、一度だけ一緒にプールに連れていってもらった。日本にいる嫁と子どもを整理し、プノンペンに来た初老の男で、いつもハンカチを二枚持ち、一枚はバンダナのようにおでこに巻き、もう一枚は常に右手でおでこの汗をふいていた。数年こちらに住んでいるというのに、クメール語はもちろんのこと、英語もからきしだったので、妹がどうやって男とコミュニケーションをとっているのが謎であったものの、キャメラは無邪気にその日本人のことを「チンちゃん、チンちゃん」と慕っていた。男が何度も「シンちゃんだよ」と教えても、最後まで妹の発音は直らなかった。
 そんな妹も再来月にはスウェーデンに嫁に行く。プノンペンに遊びに来ていたスウェーデン人の富豪と偶然出会い、互いに恋に落ち、そのまま結婚するという文字通りのシンデレラストーリーを歩んでいた。
 エマがキャメラのことを考えていると、博士はおもむろにサイコロを渡してきた。
 人生にそう転機というものはないであろう。
 賭けにでるとしたら、今宵だ。
「ねえ、やっぱり私、ハサミだけじゃイヤよ」
 エマがこう言うと、博士は嬉しそうにこちらに目をやった。控えめな目であった。
「レートをあげるのかい」
 エマは博士の目を見すえて、ひとつうなずいた。
「それは結構」
「そう。もしあなたが勝ったなら、キスしてあげる」
「で、僕が負けたら?」
「私はこんな店を辞めて、自分の店をひらきたいの」
「他の店をひらくというのなら、僕はやらない。この店に失礼だ」
「バアなんかじゃないわ。さっきも言ったけど、私は小さな美容院をひらきたいだけよ」
「ほう」
 博士が急にするどい視線を向けてきたので、エマは思わず目をそらした。色々な目を持つ男なのねと思った。
「で、ジャックポット続けるの?」
 サイコロは博士が出した二のゾロ目のまま、こちらの様子を窺っているようであった。
「まず、今宵はロマンチックキスデーではなかったのだから、君のキスはいらない」
「失礼しちゃうわね」
 エマは苦笑した。
「次に万が一もし僕が敗れたら、その美容院とやらを出してやってもよい」
「本当ですか!」
 店の外の音が増した。
 おそらく雨嵐になっている。
 今宵の客は博士ひとりになる可能性が高かった。
 カウンターの女連中は、すでにだらけきった格好で他愛もない話に花を咲かせている。
「ああ、本当だとも。君が勝った場合は来月からエマは美容院のオーナーということになるね」
「で、私が負けた場合は?」
「10万ドルの借金を背負ってもらう」
「無理、そんな途方もない額」
「今すぐには回収しようとは思っていない。もしそうなったら、今宵から私の秘書でもやって返してもらおうか」
「でも、10万ドルなんて……」
「悪い話ではないと思うがね。君が一生ここで働いていたって、いつまでも店は持てない。それだけでも今宵に賭けてみる価値はある。加えて、勝とうが負けようがいずれにしても、君はここから出られるわけだ」
 このジャックポットが終わったら、いずれにしろここから羽ばたかなければならないのか。今になって鼓動が早まってきた。
 サイコロを勢いよくつかみ、
「約束よ」
 と言って博士をにらんだ。
「誓うよ。人生を賭けるジャックポットは嫌いじゃない」
 と博士が静かに返答した。

 この晩はエマも神がかっていた。
 無論、博士のサイコロも最短距離の目を出していく。

        ⚃ ⚃

 互いにゆずらぬまま、4巡目、博士の賽が4のゾロ目をだす。
 あっという間に人生がかかったゲームは終盤戦に入った。
「残りは9だけだね。君が出せればプノンペンのシンデレラになれる」
 博士は8の数を消しながら、こう言った。
 エマは左手でサイコロを握りながら、頭を右に傾げて、左側頭部を幾度か叩いた。
「なんだ、それは?」
「耳のなかに入った水がとれないだけ」
「可笑しな奴だな。トンレサップ川あたりで泳いだのか」
「ノー。そんなことするわけがないでしょう。水が怖いんだから」
「じゃあ、なんで耳に水が入るんだい」
 そんな理由は、エマが一番知りたかった。
 ストレスなのか、夫が逮捕されてから、ずっとこの有り様である。
 でも、ここで9をだせれば、この訳のわからない体調もよくなるに違いない。エマの気持ちをよそに、
「そういいブ今、彼氏は?」
 と博士が訊ねてきたので、
「先週、離婚したばかりだから、ノーマニー&ノーハニー」
 とエマは不愛想に答えた。
「人生を賭ける晩には、もってこいというわけだ」
 と博士は微笑し、アンコールビールを飲み干した。
 結局、そのひと晩でエマは博士の秘書をする羽目になった。
 想い返せば、エマが勝てるチャンスは、先ほどの一度限切りであった。エマが6のゾロ目をだしたあとに、博士はあっさりと5と4の目を出し、「ジャックポット」とつぶやきながら、9を消した。
「君のボスはどこだ? 君をヘッドハンティングすることを伝えなければ」
 博士が席をたったあと、エマはたまたま席に残っていたコーラをうつつとなく眺めていた。酒が弱い自分がすこし接客に入らなければならないときなどは、自分はこのコーラで誤魔化してきた。本当にこんな人生から抜けだせるのであろうか。離婚から10日足らずのこの急展開がエマはただただ怖かった。
 店の中央で天井から垂直に立っているポールが妙に他人行儀に映った。
 キャメラとも離ればなれになってしまうのだろうか。
 いや、もう2ヶ月もすれば、キャメラはスウェーデンに行ってしまうから、別れる時期が早まっただけなのだけれども。
「エマ」
「はい」
 すぐ背後から声がし、咄嗟に返事をした。
「お、いい返事だ。今すぐ出るぞ」
「えっ、今?」
「今度はすぐに返事しないんだな。ママと話してきて、君は今晩から私の秘書だ」
 きょとんとしているエマに構わず、博士は続けた。
「ぼーっとしている暇はない。さっさとこの店を出よう」
 ふりかえると、皆がエマを眺めていた。
 当然、事態が飲み込めていない様子だ。
 バアにくる客のほとんどが出張でくる外国人たちである。
 たとえその客のひとりにたまたま気にいられたとしても、本気で想ってくれる男なんているわけがなかった。しかも、そんな客のとりあいでの、女同士の喧嘩も珍しくない。10日足らず働いただけでこんなくだらない世界から救ってくれる人と出逢えたのかとおもうと、逆にそんな幸運が怪しかった。
 キャメラが駆け寄ってきて、エマの手を握って言った。
「ねえ、博士にジャックポットで勝ったの?」
「いや、負けちゃったけど……」
「そうだよね。じゃあ、なぜ博士はお姉ちゃんを連れて帰ろうとするのかしら」
「よくわからないけれど、秘書になれって」
「秘書?」
「うん。それよりもママは?」
「大金を握って、お姉ちゃんを見ているわよ」
 ママの方に目をやると、たしかに手には100ドル札の札束があった。
「キャメラ、日本人って優しいんだよね?」
 こう訊ねると、怖がりの自分の背中を押してくれるかのように、キャメラはギュッと抱きしめてくれた。エマは涙ぐみながら、力強くうなずき、裏の部屋に着替えにいった。

二、@LE MOON 7/6 21:00

 店を辞しても、外は未だに豪雨であった。
 しかしエマの目には見慣れた夜景がまったく違って映った。ついこの間まで、夫とすれ違い、ずっとこのような不幸な生活をしていくのだと己の人生を嘆いていた自分が嘘のようである。
 エマは雨のなか、道むこうに停車しているトゥクトゥクに向かおうとしたが、博士がそれを制し、傘をエマの上にかかげた。
「どうせ濡れちゃうのに、なんで」
 と訊ねると、博士が、
「濡れたとしても、今の身体を気遣ってやることは大事だよ」
 と答えてくれた。
 相合傘が意味をなさない大雨であったけれども、エマはふたりでびしょ濡れになっていくこの時間が嬉しかった。
 たしかに濡れても、ふたりで傘はさしてゆかなくては。
 トゥクトゥクにエマが乗りこもうとしたとき、博士専属のドライバーなのだろうか、不安なエマを察して「この人はたしかな人だから、心配することない」とクメール語でそっと耳打ちをしてくれた。顔に火傷のあとが大きくあるが、優しい目をしたクメール人であった。
 ドライバーの名はパンといった。若い頃、日本語学校の壁に寄りかかって、教室から漏れてくる授業の声で、ある程度、日本語が話せるようになったという。
「ここら辺にスカイバアはあるかね?」
「ある!」
 とパンはぶっきらぼうな日本語で博士に返事をしていた。
 座席の足元には、縦長の木箱が置いてあった。
「これは何ですか」
 エマがこう訊ねると、博士は微笑しながら箱をとり、前面の木をとり外した。中には棚があり、そこには茶道具が綺麗に収められている。
「店に行く前に、クメールタイムズのギリシア人記者に茶を点てていてね。茶道具を置いてくる暇がなかったんだよ」
「嘘。ずっとジャックポットしていたじゃないですか」
 エマは思わず笑ってしまった。
「たしかに」
 博士もつられて笑っている。
「さすがに茶碗はわかるか。これは何かわかるかい」
 博士は茶碗の中から、小さな箒のようなものを取り出すと、エマに訊ねた。
「わかりません」
「茶筅といって、茶を点てる道具だ。こちらは柄杓で、北斗七星みたいでしょう。水や湯を汲む。あとは茶杓も見ておきなさい」
 エマは次々と茶道具を見せてもらった。
 どれも古いもののようであったものの、大切に扱われてきたのがわかる。
 自分もこの茶道具のように、大切に扱われていくのだろうか。もしそんな未来であったなら、どんなに幸せだろうとエマは思った。
 数分ロイヤルパレス方向にトゥクトゥクを走らせると、ラ・ムーンというスカイバアがあった。一階がホテルのフロントになっており、三階まではエレベーターで上れた。エレベーターを降りて左に折れると、途中に巨大な鏡があり、そこにエマと博士の姿が映った。
 凸凹の身長差が恥ずかしかった。
 博士と会うときには毎回ハイヒールを履こう。
 エマはそのようなことをうつつとなく考えていた。
 屋上のバアは屋根もしっかりしており、スコール越しにトンレサップ川を眺められた。雨のせいであろう。こちらも客が少なかった。バアの壁には印をくんだような巨大な手が、橙色を背景に緑色で描かれてあった。
 たしかな幸せの予感はあるものの、実感が追いついてこない。
 しかし、それも徐々に噛みしめていけるように思えた。
「あの、なんで私だったのですか」
「なんでって?」
「いや、他にも綺麗な女の子はいたし」
 こうエマが訊ねると、
「お酒は飲むのかい?」
 と答えをはぐらかされた。
「私は赤ワイン」
「赤ワイン?」
「いつか飲んでみたかったの。こういう場所で」
「初めてか、それはいい。私はヤマザキのシングルオンザロックをいただこうか」
 リバーサイドには、様々な国旗が立てられてあった。
 夜の雨風のためか、今は旗が外され、無数のポールしか立っていなかったが、これから博士と諸外国に仕事へ向かうこともあるのかもしれないと妄想した。キャメラにもスウェーデンで会うのかしら。一緒にいて恥ずかしくないように、スーツも妹たちから地味なやつを借りなくては。
 無数に並ぶポールを手前から目で追うと、すこし向こうにロイヤルパレス宮殿のまえで光り輝くタワーが視えた。あのタワーの下には、どんなに辛い日でも祈りを奉げつづけてきたパゴダがある。暗澹たる気持ちで歩いていた先週でさえ、祈りを欠かさなかった小さなパゴダだ。
 ひょっとしたら仏様が自分を救ってくださったのかもしれない。
 今度は博士もつれて、また祈りを奉げにいこう。
 そう思った矢先、博士に耳をつままれた。
「ラビットイヤー。なかなか君を発見できる男はいないとおもうが、強いてわかりやすく言うならば、これだな」
 と言って博士は微笑している。
「ラビットイヤー?」
 エマが訊きかえすと、
「そう、エマの耳は兎みたいに上に伸びているだろう。そういう耳の女性は賢く、強運なんだ。もっとも神門をつまんで、もう少し上に引っぱるクセはつけたほうがよいがね」
 こう博士は答え、耳のツボのひとつをつまんで、さらに上に引っぱった。
「痛い」
 しかし厭な痛みではなかった。兎耳だから自分を選んだというのだろうか。
 見上げると、離陸直後の飛行機が雨の夜空を点滅させながら、横切っていアダムずれあれに乗らなければならないとおもうとゾッとする。鳥が飛べる理由はまだわかる。でも、鉄の塊が飛ぶ理屈はエマにはまったくわからなかった。
「実は私、飛行機も怖いの」
「君は水が怖い、飛行機が怖いと、怖いものだらけだね」
「あと幽霊も怖いかな」
「本当に怖いものだらけだな」
 博士は爆笑した。
「クメール人だったら、皆そうよ。お化けが怖いから、ひとり暮らししないの」
「すごいな」
「でも、博士のことはなぜか怖くない」
「それはありがとう。しかし、ありとあらゆるものが怖いなんて、赤ん坊みたいだ」
「博士のクメール語の発音の方が、よっぽど赤ん坊っぽいわ」
「え、そうなのかい」
 簡単なクメール語をいくつか必死に発音してみせる博士の真面目さが可笑しかった。日本人は耳が悪いのだろうか。読み書きをさせると素晴らしいが、話すと大概、音を外す。しかしその分、中国人やベトナム人と違ってうるさくなかった。
「ねえ、秘書の仕事って、具体的に何をすればよいのかしら。私、今、自分の身に起こっていることがあまりに幸せ過ぎて、よくわからない」
 胸を高鳴らせてエマが訊ねると、博士が微笑しながら答えてくれた。
「超絶だね」
「ちょうぜつ?」
「他の人が一生かかってやることを、一夜でやるということさ」
「おお。たしかに今、超絶なのかも」
 飛行機の光が、バースデーケーキの蝋燭のようにフッと消えた。
「もし君の耳がラビットイヤーでなかったなら、エマがこうして僕の傍らにいることはなかったよ。耳輪といって耳の上部が綺麗に発達している人は、統計学的にも強運だからね。あとは、ジャックポットをしているときの所作もよかった」
「そうなんですか」
「ああ。途中から私の真似をしていただろう?」
「はい。だって、博士はジャックポットで無敗なのでしょう」
「いや、誰にだって負けたことはあるさ。その話は尾びれが付き過ぎているな。でも、近いうちに茶の点前を見せる機会もあるだろうから、そのときは私の影法師をよく見ておいて欲しい」
「博士の影を見るのですか」
「そうだよ。先ほどのジャックポットも、私の影を真似していたならば、君は勝てたかもしれないね」
 ジャックポットで負けた自分がなぜ選ばれたのか。
 その理由の欠片が少しわかっただけでも、ホッとするところがあったが、あとには引き返せない借金をひと晩で背負ってしまった気がする。
「あの、先ほどの借金のことですが」
「お金は心配することはない。私の茶会を手伝ってくれれば、それこそひと晩で返せる額だよ」
 と博士が続けてくれた。
 気休めなのだろうか。
 伝統藝術の業界はまったくわからないけれども、たった1回の茶会にそれだけのお金が動くなんて、エマにはとても信じられなかった。
 激しいスコール越しにも、トンレサップ川の中洲にあるソカホテルには、相も変わらず客がいないのがわかる。ただ最上階のダンシングフロアだけ、妙に何色ものライトが回転しており、綺麗ににじんでいた。
 博士が注文していたヤマザキが運ばれてきたが、エマはそれを横どりし、味見をした。@オフィスで最初にウイスキーを飲まされた苦い思い出がよみがえった。
 やはり苦手な味であった。
 これのどこが美味しいのだろうか。
 しかしその@オフィスに明日から行かなくてよいのだとおもうと、さすがに心が踊る。
「赤ワインがきたら、乾杯だな」
「はい」
「あと仕事の話だったね」
「はい」
「よい返事だ。まず私は来月で五十一歳になる」
「えっ、五十一歳?!」
 エマはおもわず立ちあがった。
「そこは『はい』と返事してくれないのか。二十くらい若く見られることが多いからね」
 博士は苦笑しながら、話を続けた。
「最初に言っておくが、他の日本人連中がやっているような国際結婚はしてやれない」
 結婚という言葉に、耳のなかの水が反応した。
 なぜそのようなことを最初に博士は言うのだろうか。
 カンボジア人が日本国籍を取得するのは一筋縄ではいかないけれども、日本人が日本国籍を棄てずにカンボジア国籍も取得するという、いわゆる二重国籍モデルは可能であった。そのスキームを使って、多くの日本人がこちらに土着してきたのも事実である。
「次に勤務時間だが、こちらはなるようになるだろう」
「はあ」
「横着が私の経営方針でね。まあ、話がわからなくても『はい』と返事をすることだ」
「はい」
 エマが姿勢を正して返事をすると、博士は左腕をおもむろにとってきた。
「あと横着でありながらも、時間は厳守だ」
 博士がこう言い終えると、いつの間にかエマの左手首には紅い腕時計がついていた。秒針が鮮やかな色で時を刻んでいるデジタル時計である。
 何もかもが魔法のようであった。
「なんで時計が用意されているの」
「いつ人生の秒針が進むかわからないから、常に予備のひとつは持っておかないとね。ついでにこのサイコロも御守り代わりに持っておきなさい」
 と言って、博士は懐から白い長方形の紙束を出すと、その上にサイコロをふたつ置いた。
 たしかにジャックポットのサイコロだ。いつの間に、盗ってきたのだろうか。
「悪い人ね」
 と苦笑して、エマはサイコロだけを鞄のなかに入れた。
 すると博士は、「こちらも持っておきなさい」と言って、紙の束も渡してくれた。
「懐紙といって、何かと重宝するよ。男性用だから、本当はエマには少し大きいのだけれど、まあ、最初はよいでしょう」
 懐紙もしまうとすぐに、赤ワインがやってきて、ヤマザキと乾杯した。エマが飲む姿を見て、博士が「君と一緒で若いワインだね」とつぶやいた。赤ワインがグラスを流れる様を見るだけで、どうしてその若さがわかるのだろう。 
「お給料は最初800ドルでどうだい?」
 ウイスキーをもうひと口なめた博士が言った。
 今の給料の約5倍である。駄目な理由なんてなかった。
「まずは英語だけでなく、日本語も憶えてもらわなくてはいけないね」
「はい」
「あとは茶も」
「茶ですか」
 エマが理解に苦しんでいると、
「そこも間髪いれないで、『はい』と云えるようになるとよいね。茶道は立派な日本の古典芸能だよ。もっともペットボトルばかりの世の中になってしまったから、実に古くさい仕事になってしまったけれどね。こちらも手伝ってもらう予定だ」
 と博士が説明を添えてくれた。
「はい、何でもします」
 本心だった。
 この人のためなら、何だってしよう。
「そもそも茶道は悟るための方法でね」
「悟る?」
「そう、この夢の世界から目覚めることさ」
「この世は夢なのですか」
「そうだよ。一期は夢さ」
「はい」
 訳も分からず、ただ日本語で返事した。
「しかし、君みたいな女は日本に減ってしまったな」
 博士が小ぶりになった夜空を眺めながら言った。
「えっ、どういうことですか」
「明治あたりから日本という国は毀れていたのだろうけど、女がまだよかった。ところが今はその女が減ってしまったから、もう国はもたないだろうということだ」
「私にはよくわかりません。でも、何でもすると言ったのは本当です」
 本心であった。あの日本がもたないというのは想像もつかないが、エマの覚悟を伝えると、博士はこう答えた。
「では、まずは島が欲しいな。綺麗な月が見える島を丸々もとめたい」
 最初はワインで自分が酔っぱらってしまって、また聞き間違ええたのかしらと思った。しかし、そのあとの博士はたしかにこうもつけ加えたのである。
「明晩までだ」
 エマの耳の奥に潜む水がまた激しく揺らいだ。
 たしかに博士は経済的余裕を感じさせる雰囲気を纏っている。給与の話も本当であろう。しかし、島を明晩までに買おうとするのは冗談にしか聞こえなかった。今宵のジャックポットの目は、果たして本当に幸運の訪れなのか。エマは一抹の不安を抱き、赤ワインを一気に飲み干した。
 なんて不味い酒なのだろう。古い血の味がする。
「おいおい、ワインはビールのように飲むものではないよ」
 博士は苦笑し、
「もっと夜景を愛でられる席に移動しようか」
 と続けた。
 気がつけば、先ほどまでの驟雨が嘘のようにやんでいた。
 店のスタッフが濡れた椅子とテーブルをふいている。
 その先には宝石箱のような夜景があった。
「はい!」
 エマは勢いよく日本語で返事をすると、高い椅子から飛びおりた。
 もう自分の人生に思考を挟むのをやめよう。だって、つい十日まえまで夫のことでくよくよしていたのだから。今晩はきっと「ジャックポット!」と夜空に叫んでよい日なのだ。

三、@CLOUD 7/6 23:15

 スカイバアを辞すると、博士が「まだ食べられるかね?」と訊ねてきた。
 酒を飲むと、どうしてお腹が空くのだろう。少し恥ずかしかったが、エマは「はい」と小さくうなずいた。食いしん坊だと思われただろうか。
「それはいい。パンさん、遅くなってすまないが、最後にクラウドまで戻ってくれないかな。雨もあがったし、そこからはバイクで帰るから」
「大丈夫ね」
 パンは返事をすると、トゥクトゥクを再び走らせた。
「クラウド?」
 エマは傍らに座る博士に訊ねた。
「アダムというフランス人の友がやっているバアさ。いい加減な男で、ここ数年ずっとプレオープン状態を続けている店でね。妙にバイクもたくさんあるから、私のバイクもそこに置かせてもらっているわけだ。で、パンさん、クラウドはオープンしたのかね?」
「いいえ、まだね」
 とパンがバックミラー越しに答えた。
「出たよ。よくそれで店がもつよ」
「そのバアに美味しいものがあるのですか?」
「おそらく。さすがにバアだから、何かしらあるだろう」
 ほろ酔い気味の博士は上機嫌であった。
 クラウドに到着すると、博士が先に降りて、水色の門をくぐったので、エマはその後についていった。一階にはカウンターがあるだけで、誰もおらず、地元のビール会社のマークだけが怪しげに赤く光っていた。カウンターの右奥には、階段があった。二階へあがると、ジャズイベントの最中で、男女7人の西欧人が酒を片手に鑑賞していた。この西欧人のなかにアダムがいるのか否か、エマにはわからなかった。
 そのまま博士は二階のフロアを突っ切って、バルコニーへと出た。バルコニー沿いにもカウンターが数席並べられてあったので、博士とふたりでそこに腰かけた。
 更待月がプノンペンの高層マンションの合間から垣間見える。
 雨は完全にやみ、いつの間にか夜空には星も顔を出しはじめていた。
 あの高層マンションに、今度は何処の国の人が入るのだろう。おそらく諸外国が投資目的で次々と建設しているだけで、ほとんど住む人なんていないに違いない。少なくても、一般的な私たちクメール人の手が届く値段ではないことは火を見るより明らかだ。このようなことをエマはそこはかとなく考えていた。
「ドリンクはこれね」
 西欧人の男がひとりカウンターからでてきて、エマにメニューを渡してきた。『無』という漢字が中央に印刷されたTシャツを着ており、カールがかった金髪、碧色の瞳、相当な数の女と遊んできたであろうそのルックスから、エマは無意識に目をそむけた。すると、博士がその男に、
「ヘイ、アダム、調子はどうだい?」
 と訊ねた。男は目を輝かし、すぐに博士とハグをした。
 どうやら、この男がアダムらしい。
「博士、ニャンバイハウイ?」
 アダムが流暢なクメール語で挨拶をした。すると、博士が、
「オッニャムテイ。何か食べられるものはあるかい?」
 とクメール語で返している。直訳すれば、「ごはん食べた?」という言葉が「こんばんは」程度の挨拶に使われる母語がエマは嫌いではなかった。
「博士、ごめんなさい。うちはドリンクメニューだけ」
「嘘でしょう。去年から何も変わってないじゃん。まだフードがないわけ?」
「そんなこと言ったって、無理だよ。だって、俺、オーナーをクビになったばかりだし」
 博士は仕方がないなという顔をして、ドリンクメニューを見はじめた。
 いつの間にかジャズも一区切りつき、西欧人たちもバルコニーに出て、ブルーマルガリータなどをあおっていた。気がつけば、博士を中心に話が弾んだ夜となった。アジア人が来たというだけで、帰路につく西欧人も少なくないなか、ここの者たちは心地よかった。
「それで、この子は?」
 アダムが博士に訊ねた。
「ああ、そうだったね。名前はエマ。さっき雇ったばかりの美人秘書だよ。エマ、こちらがアダム。いい加減な男だが、茶道は日本人より知っている」
「エニウェイ。アイム、アダム」
 とアダムが握手を求めてきたので、慌ててエマも握手をした。
 大きな手の男だったが、西欧人で怖くないとおもったのは初めてのことであった。
「どうして、プノンペンに住んだの」
 ほろ酔い気分でエマがアダムに訊ねると、代わりにアダムの友人らしき男がこたえた。
「イージーだからだよ、エマ。この国はすべてがゆっくりしているし。この店だって、数年前からプレオープンしていて、未だにプレオープンなんだよ。信じられるかい」
 友人らが揶揄すると、アダムは、
「来週にはオープンだ」
 と真顔でこたえた。
「数年まえから、毎週耳にしている台詞さ」
 友人の男が両手をあげて降参の仕草をしている。
「だから、オーナーをおろされたのね」
 エマがこう言うと、バルコニーはたちまち笑いに包まれ、乾杯の音が夜空に響いた。
 結局、クラウドにはフードがまったくなく、場所を変えることになった。こうなったら、永遠にプレオープンを貫いて欲しいとエマはおもった。
「アダム、ドラム缶ピザはまだやっているかな?」
 博士がこう訊ねると、
「メイビー」
 とだけアダムはこたえた。
「それは、ジャパニーズメイビー? それとも、クメールメイビーかい」
「う~ん、クメールメイビーかな」
 ジャパニーズメイビーはクメールメイビーより確率が高いのだろうか。不名誉な話だが、同じクメール人として、たしかな表現だとおもう。
 ここから十五分ほどいったところに、昼間はバイク屋なのだが、二十二時以降は、そのバイク屋のまえでドラム缶を使ってピザを焼くところがあるという。しかもなかなかの味らしい。
 一階に降り、エマは博士のバイクの後ろに座った。意外にも博士のバイクはハーレーダビッドソンで、ひどく大きなバイクであった。エマは小さな自分に乗れるのかしらと不安になったが、いざまたがってみると、殊の外安定感がある。
 すぐにアダムも博士の隣にバイクでやってきた。彼のバイクの後ろにも黒髪の女が座っている。アダムの彼女かしらとエマは思った。
 しかし、こうしてニケツをするなんていつぶりなのだろう。逮捕された元夫からは時折、手紙が届くが、エマは一通も開封したことがなかった。
 いざバイクが動き出すと、胸も高まりはじめた。
 アダムのヘルメットの後ろには、ポリスの文字が書かれている。
 信号で止まった際、
「ええケイ、ニア?」
 とエマがヘルメットを指さして、訊ねると、
「警察対策さ」
 という回答が返ってきた。プノンペンでは警察こそがマフィアと言われている。何も違反をしていないのに、捕まることなんて日常茶飯事で、場合によっては法外な罰金か賄賂を要求される。たしかにここで暮らす者にとって、警察対策は切実な問題であることは理解できるものの、アダムの安直な対策には失笑を禁じえなかった。
 アダムのMP3から爆音のエピカが鳴り、二台のバイクが通りをノリノリで走っていった。エマは恥ずかしかったが、通行人は皆笑いかけてくれ、中には一緒になってエピカにのってくれる通行人もいた。
 ドラム缶ピザに到着すると、51ストリートはすでにバイクだらけであった。一丁前に店の名前まであるようで、メニューにはケティ・ぺリスと赤字で書かれてある。
 バイクを停め、四人はドラム缶の傍らにあるテーブルの席についた。
 半信半疑であったものの、たしかにドラム缶のうえでピザを焼いている。加えて、店員とおぼしき男が水道管を使って生地を大胆に伸ばしていた。 
「あなたの恋人なの?」
 アダムと一緒に来た女の方を見ながら、エマはアダムに訊ねた。
「イブのことか。いや、俺はノーマニー&ノーハニーさ。博士に会わせて欲しいというからつれてきた」
 気がつくと、イブがすでに博士に話しかけていた。
 エマは嫉妬を悟られまいとして、アダムと話を続けた。
「で、クメール人の恋人はつくらないの?」
「一度だけ付き合ったことがあるけれど、一年経たずに終わってしまったんだ。よい女だったのはたしかだが、西欧化されていて、何より俺との子どもを欲しがってね。今は別のアダムと付き合っている」
「えっ、どういうこと?」
「だから、そういうこと。新しい彼氏もアダムというんだよ」
「じゃあ、アダム対決で負けたわけ?」
「イエス! なぜまたアダムなんだ」
 とアダムは両手をあげて降参のポーズをした。
 厳密に言うと、アダムはフランス育ちのポーランド人ということである。西欧人が西欧化を厭がるのか。このような視点は、エマには新鮮であったが、厭ではなかった。かつて微笑みの国と言われた隣国のタイは、すっかりお金のためだけの営業スマイルに堕してしまったと聞く。カンボジアにも急激にそのような波が押し寄せていることは容易に想像できた。
「日本も異様な西欧化を遂げて、悲壮感を漂わせているよ。あの国は手遅れだね」
 博士が急に会話に入ってきてくれたので、エマは嬉しかった。
「フランスも似たようなものだよ」
 アダムが苦笑する。
「だから、カンボジアなの」
「そうだ」
 エマが訊ねると、アダムは力強くうなずいた。
 アダムによると、この街には日本やフランスだけでなく、例イブ、中国嫌いの中国人やアメリカ嫌いのアメリカ人が数多くいるということであった。去年はそのような者たちにアダムが声をかけて、プノンペンホテルで茶会を開催したのだそうだ。
「博士、今年も何処かのホテルで茶会をやるつもりですか」
 アダムがこう訊ねると、
「おまえ、去年のプノンペンホテルがどれだけ大変だったか知らないだろう。プールの上なんかで茶を点たせやがって。茶入れがこぼれそうなのを所作で誤魔化しながら、幾度防いだことか。もう二度とごめんだよ」
 と博士が一笑した。
「でも、あのときの点前、とても官能的だったわ」
 イブもプノンペンホテルの茶会に行ったのであろうか。
「イブ、あんなものは茶でも何でもない。ただのパフォーマンスだ。本当の茶道はもっと違うものだよ」
 と言いながら、その茶会を主催したであろうアダムを軽く小突いた。
「でも、五十名くらい来てくれて、大盛況だったじゃないか」
 アダムが言い返すと、博士が呆れた顔をして、また返事をした。
「だから、それでは茶にならないだろう」
「じゃあ、本来の茶って何?」
「和合だよ」
 博士はため息と共に答えた。
「平和のことか。例えば、今後、第三次世界大戦が起こったら、それを茶は止められるということなのか」
「少し違う。茶道は第三次世界大戦のあとに出番が来る。争いが生じたあとに、茶を通して互いが和することができるということだけだね」
 こう言うと、博士は作務衣の内側から一枚の布を取り出して続けた。
 一面濃い紫をした綺麗な布であった。
「これを袱紗という。茶道具を清めるために使う絹の布だ。ただ、これはこのまま使えないから、袱紗自身も和合体でないと具合が悪いわけだ。だから、袱紗をさばくのだけれども……」
 博士は袱紗を縦と横に向きを変えたあと、三角形に畳み、ポンと音を立てた。そして、右と左をややズラしながら、今度は四角く折り畳んでいったのである。
「縦のものを縦に扱おうが、横のものを横に扱おうが、やがて争いは生じる。今のポンが戦争を表しているのだけれども、その争いの音が出たならば、互いに斜めに折れて、重なっていきましょうということだね。これが和合だよ」
 説明が終わると、博士の右手には小さく折り畳まれた袱紗ができていた。あまりに綺麗だったので、エマは思わず、
「博士、その畳まれた袱紗をどうするのですか」
 と訊いてしまった。すると、博士は微笑し、
「これで茶入や茶筅を拭くんだよ。袱紗を清めたのだから、これで拭いてあげれば、今度は茶道具が清まるでしょうに」
 と静かに答えてくれた。
「日本人はそんなことしているのね。それは衛生的にという意味でなく、霊的に清いということなのでしょう」
 今度はイブが訊ねた。
「そう。昔の日本人はこのような妙なことをしてきたようだね。ただ、今の日本人は本来の茶に関心を寄せる者はいないよ。あっても、せいぜいSNS映えのためでしょう」
「どうして」
「私が訊きたいくらいだよ」
「私、博士の茶を受け継ぐわ」
 イブが真剣な眼差しで言った。
 そのような即答ができアダムブが、エマは羨ましかった。 
 そうこうしているうちに、焼きたてのオニオン&ベーコンピザがやってきた。ドラム缶で焼いたのがよいのか、はたまた水道管での伸ばし方がよかったのか、熱々なチーズがどこまでも伸び、味も絶品である。そして火傷直前の喉にぬアダムアンコールを流しこむ。これ以上、完璧なコラボレーションはあるまい。
「美味しい。ここがプノンペンで一番なの?」
 エマはアダムに訊ねた。ピザなんて食べたのは、初めてだ。
「まさか。ドラム缶で焼いているんだよ」
 アダムが答えると、エマは苦笑いした。アダムが続ける。
「エマ、最高なイタリアンピザをだす店がプノンペンにもあるけれど、この時間だと満席だよ。ナンバー2はアメリカンピザ。でも、こっちは異様に高いから。おっと、そうだ。プノンペンでしか食べられないピザもあったな。『ハッピー、ハッピー』と店員に言い続けると、ばんばんマリファナをかけてくれるところだ。知っているかい?」
「知らないわ。マリファナって、合法なの?」
「アクマでハッピーの粉ということらしい。そうか、クメール人なのに知らないか」
「美味しいの、それ?」
「今から行ってみるか」
「残念だけど、もうチュランチュラン」
 エマは自分の腹を叩きながら、こたえた。
「でも、ピザを食べたら、俺たちは先にずらかろう」
「えっ、どうして」
 アダムの突然の提案にエマは驚いた。
「だって、イブが博士とふたりの時間を持ちたがっているからね。邪魔しては悪いだろう」
 エマは咳こみ、ピザの粉がテーブルのうえに悲しげに舞った。耳の奥にある水がまた揺らいでいる。

四、@PLUMERIA 7/7 2:05

 イブが博士のハーレーダビッドソンでプノンペンタワーの屋上にあるエクリプスで飲み直しにいったら、あと三十分で閉店ということであった。しかし、イブはそれでも構わなかった。その旨を博士に伝え、すぐにふたりはラストオーダーをしたのである。
「この街もだいぶ発展してきたね」
 博士が眼下の夜景を眺めながら、つぶやいた。
 なぜ、この人は哀しげに物事を見つめるのだろうとイブは感じた。
「で、イブはなぜカンボジアだったんだい?」
 こう博士に訊ねられたので、いつの間にか見惚れていた自分が恥ずかしくなった。
「えっと、私は元カレとアンコールワットに旅をしたのがはじまり。一週間の予定だったんだけど、ふたりともパスポートの入った鞄ごと盗まれてしまって、結局、一ヶ月いる羽目になったの。元カレはパスポートが再発行されたらポーランドに帰国してしまったのよ。私はなんとなくプノンペンに流れついて、お店をはじめたの」
「へえ、君は結構なじゃじゃ馬だね」
 博士にこう言われると、イブは妙に嬉しかった。
「でも、運命だったんだと思う。私もそうだけれど、この街には祖国に疑問を抱いている人々が集まるでしょう。その人たちが私の店で時々集ってくれる景色を眺めていると、生きてきてよかったなと感じるわ」
「国だけでなく、星に疑問を抱いている人も集まるとよいのにね」
「博士、どういうこと?」
「いや、他の星に疑問を抱いている宇宙人が来てくれたらと思ってね。それで、店の名は?」
「可笑しな人。店の名は、プルメリアよ。満月の夜明けにプルメリアでレイを作り、それを好きな人に渡せれば結ばれるという言い伝えがハワイにあって、そこからとったの」
「よい名前だ。パゴダによくあるよね」
「そうなの。花言葉はたしか陽だまりだった気がする」
 イブは博士のまえだけは終始、笑顔でいようと努めた。
 アンコールビールがふた瓶運ばれてくると、球体のライトのまえで博士と乾杯をした。おそらく店名のエクリプスをイメージしてデザインされたのであろう。各テーブルには、月食のようなライトが置かれている。
「で、博士は?」
「何が?」
「なぜ、この街に?」
「そういうことか。なぜかと問われれば、この街に古き佳き日本を視たからと答えておくかな」
「古き佳き日本か。私も旧き佳きポーランドが好き」
 イブはだいぶ上がってきた更待月を眺めながら言った。
「まず子どもが、まだ子どもらしいじゃないか。贔屓目で見ても、今の日本の子どもたちには軍配をあげにくい。大人も子どもも元気のない老人の国になってしまった。その老人もかつての栄光にすがって、近代的な消費に現をぬかして人生を終えているようにしか私には見えないけどね。もうやめよう。せっかくの夜が台無しになってしまう。去年の茶会に参加してくれていたみたいだね」
「もちろん! アダムに誘われて、私も見にいったのよ。たった一杯の茶を点てるのに、あそこまでするなんて」
「そうだったのか、ありがとう。あんなイベント的なものは勘弁してもらいたいけれども、まあ、本来の茶道は慈悲ということだね」
「慈悲?」
「そう、先ほどの和合ということだ。茶室の軸も花も皆、慈悲を表しているんだよ」
「書道と花が一緒ってこと?」
「蝋燭の火だって、慈悲だよ」
「ということは、書道の一字も一輪の花も蝋燭の火も皆、慈悲ということかしら」
「うん、人もまた慈悲であり、花ということさ。花を眺めていると、時折、私もまた花であり、花もまた私であると感じるときがあるじゃないか」
「あなたが花に?」
「君もまた花だよ。人は花になれるからこそ、花も人も共に儚しという感覚を共有できるのだから」
「やっぱり私にはわからないわ」
 本音であった。
 東欧人の私にはわからないことなのだろうが、それでも博士の言っていることが真理なのだという直観がイブの裡に流れた。
「あの時、トゥクトゥクの屋根に畳一枚を乗せて、ホテルにやってきたじゃない? 下にはたくさんの茶道具を積んで」
「着物でトゥクトゥクに乗ると、子どもたちが「侍~!」って言っていつまでも追いかけてくるから、困っているんだけどね」
「あの畳は京都から持ってきたの?」
 こうイブが訊ねると、博士は優しい瞳で話を続けてくれた。
「いや、あれは田舎間といって、どちらかと言イブ、東京の畳だね。京間よりひと回り小さいんだ。もっとも、田舎間の方が先にできていたであろうに、「田舎」なんて名前つけられて、可哀想だが」
「畳にも色々とあるのね。でも、トゥクトゥクから着物姿で出てきたとき、博士とこうして一度、話してみたいと思っていたの。今宵は願いが叶ったわ」
「パナマ帽をかぶって、和装姿でいる奴なんて、大概はインチキだけどね」
 こう博士が苦笑するものだから、イブはそれを否定し、
「いいえ、とっても素敵よ」
 とだけ答えた。
「ありがとう。それで、先ほどの話の続きではないが、私はその茶道を何処かに移そうと思ってね」
「えっ? だって京都があるじゃない」
「イブは京都が好きなんだね。もうすっかり観光地に堕してしまって、とても道にならないよ。お茶も藝でなくなって久しい」
「でも、家元はまだいらっしゃるんでしょう」
「よく知っているね。例イブ、三千家と呼ばれる三つの有名な流派があるけれども、要は千利休の茶道を三等分したに過ぎない。この点前は表千家が正しいけれど、あの点前は裏千家に本来のものを譲ろうといった風にね。各流派の家元が集イブ、本来の茶道にもどるといった方法がとられているのかもしれないが、今やその家元の手前も怪しくなってきた」
「そうなの。古い流派なのに」
「イブ、本来は真理があって、流派なしだよ。その流派も古く見せているだけで、実際に三千家に分かれたのは明治に入ってからだ。そこまで古くはないさ」
「だったら、何処に移せばよいの?」
「おそらく場所ではなく、人に託すということなんだろうな」
「さっきも言ったけれど、私、博士の茶を引き継ぐわ」
「イヴ、ありがとう。でも……」
「もう遅いのね」
 こうイヴが言うと、博士はあどけない顔で笑った。
 もし自分に子どもができたなら、そのときは博士の茶に触れさせたいとイヴは思った。宴もたけなわであったが、閉店の時間を店員が知らせにきた。
「さすがにそろそろ帰るかい? 送っていくよ」
 プノンペンタワーの下でハーレーにまたがりながら、博士が訊ねた。
「ええ。私の店にお願いできない? ここからだったら、五分もかからないわ」
 こうして博士にプルメリアまで足を伸ばしてもらったのである。プルメリアはビーガンを中心とした健康的なパイが売りの店にしており、小規模ながらも繁盛していた。どちらかというと現地のクメール人より海外からの客に贔屓されている。
 イブはハーレーから降りると、足早にプルメリアのまえを通り、店のシャッターを開け、部屋の奥にある明かりをひとつ灯した。
 橙色の光が店内をやさしく照らしはじめた。
「ちょっとくつろいでて」
「小綺麗で、君の人柄がよく表れている店だね」
「ありがとう」
 イブは礼を言って、奥の厨房に入っていった。先週、レジの傍らに本棚を置き、「WIFIはないけれど、代わりに本はいかが?」という紙を貼ったのを思い出した。今どきWIFIもない店なんてと博士に思われるのではないかと、ふと心配になった。
 冷蔵庫の中には、ズブロッカがちょうどあった。
「英語でなんと伝えてよいか、わからないのだけれども」
「ポーランドの酒かな」
「そうなの。ポーランドの日本酒ということにしておくわ。結構アルコール度数が高いけれど、どう?」
「それはお猪口かね?」
「ええ、そのつもりよ。変?」
「いや、今の日本人よりよっぽど日本人らしいよ」
 博士がお猪口をとったので、酒を注いだ。博士が右の掌をすっとお猪口の傍らに上がってきたので、イブはなんとなく注ぐのをやめた。今度はイブがお猪口をとり、そこに博士が酒を注いでくれた。イブも博士の真似をして、右手をすっと出した。
「うん、やはり君の方がよほど日本人らしい」
 ふたつのお猪口が乾杯の音を静かに奏でて間もなく、ふたりの男女も重なりはじめた。深夜ではあるが、通りからは時折、バイクが通る音が聞こえる。
「場所を変えるかい?」
 永い接吻がひと区切りつくと、眼の前で博士がそっと訊ねてきてくれた。異様に澄んだ瞳の男であった。イブは「ニエ」と小さく首をふり、キスを続けたが、しばらくすると少し乱れた服を直し、再び店のシャッターを閉めた。
「二階があるの」
 こう言って、イブは博士の手をとり、店の奥にある螺旋階段をゆっくりとあがった。部屋に入ってすぐに、キャンドルを灯す。先月、従業員から土産でもらったものである。部屋はさほど大きくないが、中央には仮眠用にあつらえたベッドがある。華奢な竹細工でできたベッドで、激しくなってしまったら壊れてしまうかしらとイブは思った。
 竹がきしむごとに、イブの山は深まっては高まり、おもわず声が漏れてしまう。ただベッドが壊れてしまう心配は杞憂であることがすぐわかった。それほど博士はやさしく扱ってくれたのである。イブはいけないと思いながらも、東洋人は皆こうなのかしらとふと考えては、また肉の歓びへと堕ちていった。
「なんでそんなに強いの」
「痛いかい?」
「そうではないの。なんでこんなにも……」
 博士の指先に仙骨を触れられると、脳の奥にある骨が奏でられていくのがわかった。ヨガをしていたとき、頭蓋骨の中心には蝶のような形をした骨があるという話がふと思い出された。あたかもその胡蝶が脳内を舞っているようである。
 抱かれながらも、あらぬところから指が這う度、身が焦げる想いがし、脳が溶けていく。
 イブは女の歓びを初めて知ったと思った。結局、その晩、三度ほど大きな山がきて、ついに果てた。

五、@PHNOM CHISO 7/7 10:55

 明け方、エマが眠りから醒めると、メコン川のほとりにいた。
 なんだか厭な夢を見ていた気がする。しかも二日酔いで頭が痛い。博士とジャックポットをしたところまでは鮮明に憶えているが、その後のことが定かではなかった。
 傍らでは、アダムがエマを守るように眠っていた。後ろにはバイクがあり、ポリスと書かれたヘルメットがハンドルにかけられてあった。あれは警察対策だと言い張っていたアダムの姿が思い出され、徐々に記憶ももどってきている。また、バイクの荷台には大きな鞄が積まれてあった。あの鞄のまえで必死にアダムにしがみついていた気がする。
 川のほとりでは、牛に水浴びをさせている男がおり、エマたちの様子をそこはかとなく窺っているようであった。
「おはよう、エマ」
 アダムの碧い目がうっすらと開いている。
「おはようございます。あの、私……」
「相当に酔って泣いていたからね、君は」
 おそらくアダムも二日酔いなのであろう。顔が疲れ気味であったが、無理に微笑して、こちらを気遣ってくれているようであった。
「博士のことが好きだったのかい」
 こうアダムに訊ねられると、エマは涙をこらえながら、やっとうなずいた。昨晩はあまりに多くのことがあった夜で、消化しきれなかっただけなのだ。博士のジャックポットをそっと見ているだけでよしとしておけばよかったのかもしれない。魔法のようにつけてもらった左手の腕時計が朝陽に照らされ、無機質に輝いている。
「それは知らずに悪いことをした。でも、イブも決して遊びで博士に近づいたりはしていないんだ」
「いいの、私はただ雇われたのだから。言われたことを一生懸命するだけ」
 こう言いながらも、エマの脳裏にはイブの横顔が浮かんだ。
 とびきりの美人というわけではないが、いかにも教養がありそうな静かな女であった。その静かな女が昨晩、動いたのだ。アダムの言っていることに嘘があるはずがなかった。
「あの博士が君を秘書として選んだんなら、間違いないよ。最後の博士の力になってくれればいい」
 アダムが言い終わると、またもや耳の奥の水が揺れた。
「最後?」
「聞いていないのかい?」
 耳の揺れの激しさが増していくのがわかる。
 次にどのようなことを言われるのか、まったくわからなかったが、エマには厭な予感しかしなかった。
「そうか。ならいい」
 しかし、アダムはそれ以上は語らず、エマも同様にそれ以上は訊ねることはできなかった。
「ねえ、アダム。私、博士から島を探すように頼まれたの。丸々ひとつの島を買いたいそうなのだけれど、付き合ってもらえない?」
 エマは咄嗟に話題を変えた。
「博士がそう言ったのか」
「ええ、できれば月が綺麗な島がいいって」
「で、付き合うというのは?」
「今から私をシハヌークビルまで送ってくれないかしら」
 シハヌークビルというのは、カンボジア唯一の海に面した街である。もし博士の目に適う島があるとするならば、シハヌークビル沖の可能性が最も高かった。
「バイクでか?」
「ええ」
「今から?」
「ええ」
「エマは俺が今日、これから仕事があるとか思わないわけ?」
「仕事してないんでしょ。ノーマニー&ノーハニーって言っていたし、バアも永遠のプレオープンみたいだし」
 少し言い過ぎたかしら。アダムは黙ってしまった。
 川のはるか上流には、橋が微かに見えた。通称、日本橋と言われる大きな橋で、文字通り、日本の支援で建てられた橋になる。500リエルの裏側にはこの日本橋が日の丸の国旗と共に刷られている。内戦終結後の復興会議で当時のシハヌーク国王が、壊れてしまった日本橋の修復を望まれたという話も有名である。
「わかったわ、アダム。私と賭けをして」
 突然の提案にアダムの眉が動いた。
「私が勝ったら、あなたは私をシハヌークビルまで私を連れていく。あなたが勝ったら、私があなたが望むことを叶えてあげる。これでどう?」
「どうやって賭けをする気なんだい」
 アダムの表情がみるみる明るくなってきたのがわかった。
「うんと、ジャックポットはどう?」
 エマは鞄からサイコロをふたつ出した。昨晩、博士からもらった御守りだ。
「いや、面倒くさい。ふたつのサイコロの合計が多い方を勝ちとしよう」
 こうアダムが言うものだから、エマは思わず大声で言った。
「じゃあ、賭けをしてくれるのね」
「ああ、いいよ。で、僕が勝ったら、何でも言うことをきくということでよかったんだよな?」
 アダムの問いに、エマは少しだけ怖くなり、「メイビー」とだけ言って、舌を出した。それを見て、アダムが苦笑しながら、サイコロをふった。
        ⚂ ⚅

 合計7。まずまずの数だ。
 一瞬、エマの脳裏にアダムと付き合っている未来の姿がよぎった。
「はい、エマの番だよ」
 アダムは勝利を確信したのか、余裕の表情である。
 なぜか昨晩、賽を投げていた博士の一挙手一投足が鮮明に思い出された。エマはサイコロを受け取り、賽を投げた。
        ⚅ ⚅
 6のゾロ目。
 アダムよりも当の本人であるエマの方が驚いていた。
「嘘だろ、博士みたいな運だな。やれやれ、海まで送っていくよ。いずれにしろ、博士の茶会には出ようと思っていたし。エマを雇ったんだから、カンボジア領できっと探しているんだよな。だったら、カンポット経由でシハヌークビルに行ってみるか」
「経路は任せるわ。だって私、プノンペンから出たことがないんだもの」
 こうエマが答えると、アダムは微笑しながら、
「それはマジで今すぐ旅に出た方がいい」
 とつぶやいた。
「ありがとう! アダム」
「オッ アイテ―」
 エマが礼を言うと、綺麗なクメール語が返ってきた。
 やはり日本人よりフランス人の方が、耳が良いのか。博士の下手糞なクメール語が急に思い出されて、ふき出してしまいそうになった。

 屋台でバイサッチルーを食べて朝食を済ませ、バイクを1時間半ほど走らせると、タケオに入った。
 まだ古き佳きカンボジアが幾分か残っている地域で、シュムリアップのように観光地化していない場所であった。たしかこの近くに動物園があるとキャメラが言っていたのをエマはふと思い出した。おそらく日本人のチンちゃんと行ってきたのであろう。
「ねえ、アダム。この近くに動物園ってある?」
 アダムにしがみつきながら、エマが訊ねると、アダムがMP3から流れるエピカを止めてくれた。あんな爆音を流しながら走るなんて、夜だけのことかと思っていたが、朝も同じなんて、これが文化の違いなのだろうか。
「何だって?」
「いや、この近くに動物園があるって聞いたことがあって」
「それはきっとタマウ動物園のことだな。俺も行ったことがないから、寄り道しよう。アンコールワット1本でどうだい?」
「いいわ!」
 エマの気持ちを察してか、ただ自分が行きたかっただけなのかわからなかったが、アダムはすぐにタマウ動物園の方へと進んでいってくれた。
 動物園も生涯初のことであったが、ここの動物園がクメール流であることは、歩いていて比較的すぐに気が付いた。最初の檻には猿がおり、次の檻にも同じ種類の猿がおり、また次の檻にも猿がいて、挙句の果てに、動物園の周辺にも猿がいたのである。
「カンボジアの動物園には猿しかいないのか」
 アダムは爆笑しながら、先ほど入口付近の売店でエマが奢ったアンコールワットを片手に歩いている。エマは同じ売店で仕入れたバナナをどの猿に与えようか、ドキドキしていた。
「エマ、見てごらん。あそこの猿なんて、檻の中に入りたがっているぜ」
 アダムが指さした方に目をやると、たしかに檻の外から必死に檻の中にいる猿の群れにアピールしている一匹がいた。檻を昇っては降り、あたかも檻の中にいた自分に戻りたそうである。
「あの猿にバナナをあげようかしら」
 とエマが言うと、アダムはそれを制し、
「あんな猿にあげるなんて無駄だから、やめておきな。エマ、覚えておくとよいよ。生涯、檻から出られぬ猿を憐れむ必要はない。そんなのは数え切れないくらいいるからな。でも、一度檻から出られたのなら、それはもう後ろを決してふり返ってはいけないんだ」
 と話してくれた。
「えっ、どういうこと」
 思わずエマはこう答えてしまったが、おそらく自分のことを言ってくれているというのは、明らかであった。
「だから、檻から出て、かつ堂々としている猿にバナナをやろう」
「うん」
 こうしてアダムと檻から離れ、周辺の森を散策していると、すぐに別の猿の群れに遭遇した。人に慣れているのであろう。猿もこちらを警戒することなく、近付いてくる。アダムに目をやると、すぐにうなずいてくれた。
「はい、バナナよ」
 エマが猿にバナナを近付けると、猿はケッていう顔をし、アダムの方に逃げた。
「ホワット? おまえらバナナよりビールの方がいいのか」
 今度はアダムが猿にアンコールを近付けると、猿はすぐに瓶を受け取って、木の上に逃げ、ゆっくりビールを飲んだ。さすがに少しアカ抜け過ぎではないだろうか。
 アダムはその様子を眺めて、
「この猿が見られただけで満足だ。もうこの先の飼いならされた象や虎なんて見る必要がない気がするが、エマはどうだい?」
「同感。だったら空いた時間で、この近くのプノンチソールに行かない? アンコールワットよりマイナーだけど、たしかその歴史は古いはずよ」
「OK。そっちに行こう」
 まさかアダムと古代遺跡を見ることになるとは思わなかったが、今見ておかなければ、後悔する気がした。そう、後ろをふり返っていても仕方がないんだ。たったひと晩で、博士が檻から出してくれたのは間違いない。その恩に応えることだけに集注しようとエマはうつつとなく考えていた。
 プノンチソールはプレアンコール期の遺跡で小高い山の上にある。入口には朽ちた白い門があり、山頂まではダラダラとした階段が1㎞弱続いている。
「山頂までバイクで行けるみたいだけど、どうする?」
 エマが訊ねると、アダムは愚問をという顔をして、
「階段で上るに決まっているだろ」
 と言って、バイクを停めた。アダムのこの即答は意外であった。一般的な西欧人なら、迷わず車で山頂に行くに違いない。そこにアダムの美学を見た気がした。
 参道を上っていくのが辛かったのは、実際はエマであった。足がピクピクしてきた。なぜ、いつも不摂生な生活ばかりをしていそうなアダムの方が、平気そうなのか、エマには理解できなかった。
「アダム、ちょっと待ってよ」
「いや、山頂で待っているよ。ゆっくり来な」
 こう言い残し、アダムはスピードを早めてそそくさと行ってしまった。
 文句のひとつも言いたかったが、息が苦しい。エマは階段の脇にズレて、そこで休憩をとった。ふり返ると、無数の階段が下まで繋がっていた。道半ばとはいえ、もうだいぶ上ってきたのがわかった。今まで見たことがない広大な自然が広がっている。
「それはもう決して後ろをふり返ってはいけないんだ」
 タマウ動物園で言ったアダムの台詞が思い起こされた。
「はいはい、進めばいいんでしょう」
 エマはひとりつぶやいて、階段を再び上りはじめた。
 プノンチソールの山頂は思ったよりも広大で、古代遺跡の他に飲食店もあり、アダムを探すのはなかなか至難の技であった。朽ちた遺跡にクメール流の雑な補修工事。いつ事故が起こってもおかしくない石の遺跡の中を進むと、中に小さなパゴダがあり、年老いた僧が寝そべっていた。
「こちらで、ご祈祷ができるのですか」
 エマが訊ねると、僧は身を起こして静かにうなずいた。
 アダムはどうせ何処かでまたビールでも飲んでいるのだろう。少しくらい遅れても大丈夫なはずだ。エマは8000リエルを僧に手渡し、僧と共に祈りを奉げた。祈祷が終わると、僧が赤い紐を左手首に結ってくれた。この紐は博士にあげようとエマはそこはかとなく思った。
 パゴダを出てしばらく歩くと、地平線が一気に広がった。
 エマが思わずかけ寄ると、アダムが傷んだ遺跡の上に座って、同じ地平線を眺めていた。やはり手には新しいアンコールビールがある。山頂の売店でもとめたのであろう。
「お待たせ」
「いや、よい眺めだったから、問題ないよ」
 アダムは地平線から視線を外さずに答えた。
「私、地平線を見るのは初めて。本当に遠くまで見えるのね。古い一直線に続く道が彼方まで続いているわ。あの先にはプノンペンがあるのかしら」
「たぶん、ここから見えるのは西の方角だから、プノンペンは見えないかも。でも、水平線ではなく、地平線を見たのは、俺も初めてだ」
「水平線も、あるのね」
「ああ、水平線は比較的どの海からでも見えるけどな」
「じゃあ、この旅で地平線と水平線の両方を見られるかも」
「博士は島を探せと言ったんだろう」
「ええ」
「じゃあ、地平線には用はない。本命のシハヌークビルの水平線を拝みにいくとしますか」
 どこか哀しげにアダムがこう言うから、エマは妙に気になった。後日、ふり返っても、自分がなぜあのような行動をしたのかわからなかったが、おもむろにエマは今しがた僧にいただいた赤い紐をアダムの左腕に結い直してやったのである。これにはアダムも意外であったようで、
「オ、オークン……」
 となんとも歯切れの悪い御礼が返ってきた。
 いつの間にか雲が出ていて、陽が少し陰り、ゴッドレイが地平線の手前でところどころさし始めている。この神秘的な景色は生涯、忘れないようにしよう。照れ臭さもあり、エマが地平線の方を向いていると、急にアダムに抱き寄せられ、口付けをされた。
 嗚呼、あの碧色の瞳がこんなに近くにある。
 そんな意味ではなかったのにと思いながら、エマはゆっくりと目を閉じた。きっと博士からであろう。メールを受信したようで、左手の腕時計が小刻みに震えていた。

六、@KEP 7/7 12:15

 あくる朝、ベッドで目覚めると、博士にもう一度抱かれた。
 そんな「おはよう」代わりに抱かれてしまったら、もう元に戻れなくなってしまう。
「だいぶ乱れていたね」
 とシャワーあがりの博士が言うから、イブは、
「厭だわ。東洋人は朝からそんなこと言うのね」
 と言い返して、顔を赤らめた。
「何処か、島に行きたいのだが」
「それは観光? それともビジネス?」
「ええっと、どちらかというと文化かな。静かに茶会ができる島を探していてね」
 当初、イブはロン島を提案したが、シハヌークビルはもはや中国領土と言っても過言でないと博士が厭がった。
「じゃあ、ケップかしら。ケップ沖ならまだ古き佳きクメールが残っているかも」
「なるほどね。では、ケップまでハーレーを飛ばそうか。できれば一緒に来て欲しいが、店の方は大丈夫かな」
 昨晩からの時間が、イブにどれほどの色彩をもたらしてくれたか。断る理由はなかった。
「うん、大丈夫。今は店を任せられるクメール人スタッフがいてくれるから。ところで、今更だけれど、ハーレーは博士のなの?」
「ああ、あれか。もちろん私のだよ。それこそプノンペンホテルで茶会を開いたときに、ハーレーダビッドソンの副社長がお忍びで来ていてね。私はまったくそんなことは知らなかったのだけれど、茶会後に『神旬』と書いてくれというから、普通に筆で書いてあげたんだ。そしたら、その御礼にハーレーがきたというわけだ。長髪を結った男で、あれはさすがの貫禄だったが」
「たった二文字がハーレーに化けたということ?」
「まあ、そうだね。だから、『神』が前輪で、『旬』が後輪かもしれない」
 博士はただ笑って、パナマ帽をとりながら、着替え始めたイブを眺めながら続けた。
「どうせなら下着なんてつけずに、ドレスアップして出かけてようか」
 どうしてあんな悪戯少年のような表情ができるのだろう。イブが反論するまえに、博士は足早に螺旋階段を降りていった。まさかドレスでハーレーに乗れるわけもなく、ジーンズを履き、友人の結婚式以来、着ていなかった藍色のワンピースを鞄に入れた。
 ケップに到着したのは昼過ぎであった。
 海岸沿いにホテルがあったので、そこでブランチをとることにした。正直、昨晩のピザと酒が残っているから、パンと苦い珈琲だけで今はまだ充分である。店内には客が誰もおらず、オーシャンビューのカウンターで博士と並んで座った。
「ケップ沖の島はなんて言ったっけ?」
「クメール語は忘れたけれど、通称はラビットアイランド。兎島ね」
「ベタでよい名前だ。兎のような形をしている島ではなさそうだし、島に兎でもいるのかな」
 博士はホテルにあった地図を見ながら言った。
「さあ。カンボジアで兎はまだ見たことがないけれど」
「悪いが、今夕、昨晩のエマもその島に呼んでもよいかな」
「それは従業員としてでしょうね」
 イブは自分の厭な裡を見た気がしたが、同時に仕方のないことだとも思った。抑えきれぬ嫉妬が微かに漏れているような情態になっている。
「無論だ」
「だったらいいけれど、今から彼女がひとりで来るのは、なかなか大変じゃないかしら」
「いや、おそらくアダムが連れてくるさ」
「いくらお人よしのアダムでも、それはないわ」
「賭けるかい?」
「いいわよ。何を賭けるの」
 すると博士は頬に軽くキスをしてきて、黙って微笑した。
 ズアダム男だ。博士が飲んだ珈琲のよい香りがほのかにすアダムブも博士の傍らでしばらく海を眺めることにした。
 ケップ自体はそこまで海が綺麗なビーチではない。さらに蟹の銅像やらが乱立しており、お世辞にも街のセンスがよいとも言えなかった。逆に、このようなクメール独特の感性が、諸外国人を遠ざけているのかしら。イブはこのようなことを考えつつ、博士に訊ねた。
「じゃあ、私が賭けに勝ったら、博士が島で何をしようとしているのか教えて」
 ひと晩とはいえ、歓を交わし、こうして次の日も一緒に旅をしているのだ。私にも知る権利はあるだろうとイブは思う。ところが、博士からは意外な回答が返ってきた。
「無人島で最後の茶会ができないかなと思ってね」
 イブの思考は一瞬、停止した。無人島と茶会の折合がイブの裡でつかなかったのである。しかも、耳が正しければ、最後の茶会と言っていた。
「それは、賭けるまえに私に教えてくれたってこと」
「そうとってもらって構わないよ。できれば、本当に人が踏み入れたことのない島がいい。そこで茶を閉じたいんだ」
「茶を閉じるって、博士が点てる最後の茶ってこと?」
「そう」
「どうして」
 こうしてまた会えたのに、博士の藝をもう見られないのは辛い。
「茶に人生を賭してきた者としての意地というか、我というべきか。屁の突っ張りにもならない仕事を今宵、したいなと思ってね」
「今晩? いくらなんでも急よ。客だって、誰もいないだろうし……」
 と言ったところで、イブは言葉をつぐんでしまった。いや、そもそも人に見せるための茶会ではないのだと気がついたのである。でも、茶道具はどうするのだろう。昨晩からずっと一緒なのだ。いくらなんでも準備できるわけがない。
「うん、君はやはり日本人より察しがいい」
「でも、いくら何でも、今夕というのは無茶よ。せめて明日にはならないの」
「それはできないな。今宵が七夕だから」
「七夕?」
「そう。東洋では七月七日という陽数が並んだ日を愛でるんだよ。子孫繁栄を願ってね。まあ、こんなことを言っても、子どもたちにはわからないだろうから、織姫と彦星といって、天の川に住む夫婦が一年で唯一会える日という物語で伝承されているけれど」
「どうして今日だけなの」
「もともと織姫は神々の着物を織っており、彦星は神々の牛を世話していたんだな。二人とも働き者だったから、織姫の父親である天帝が彦星を引き合わせ、夫婦にしたわけだが、真面目な者が一旦、恋に落ちると盲目になるだろう? 織姫も彦星も愛し合うばかりで仕事をしなくなり、神の逆鱗に触れたわけだ。夫婦は天の川を境に離され、以前のように働くならば、年に一度だけは逢瀬してよいということになっている」
「なんとも可哀想なお話ね」
「そうだろう。だから、今夕でないと駄目なんだ」
 幾分かはぐらかされた印象をイブは受けたが、こう言い終わると、博士は眼下の通りを指さした。いつの間にか、屋根に畳を一枚乗せたトゥクトゥクが停まっていたのである。運転手はたしかパンという男で、アダムとも仲が良かった。
「さて、その準備とやらを始めようか」
「えっ、でも、何処の島でやるかも決めてないんでしょう」
「そんなものは偶然が切り拓いてくれるさ」
「兎島では駄目なの」
「あそこでは茶道にならないよ。無人島ではないし、既に島に名がついてしまっているからね。やはり無名の島が好ましい。ホテルを一室とったから、そこで着替えよう」
「敵わないわね」
 イブはお手上げのポーズをして、博士のあとについていった。
 一階に降りると、茶道具がところ狭しと積まれたトゥクトゥクが停められてあった。上からではわからなかったが、トゥクトゥクの屋根に畳を乗せれば、たしかに茶会が開けるくらいの道具は運べるのかもしれない。
「博士、遅くなったね」
 パンが博士に頭を下げた。
「いや、遅くはないさ。こちらこそ、遠くまで悪かった」
 博士は200ドルをパンに渡しながら言った。
「もう少ししたら、港から舟に乗るから、そちらの手配をしておいてくれないか」
「わかった。ケップ郵便局のまえあたりね」
「了解。高くついてもいいから、舟を今夕でも出してくれるところを探しておいておくれ」
「はい。何処まで行くつもり?」
「まだ決まってはない。何処か、人がいない島がよいんだが。それも調べておいてもらえるかな?」
「わかった」
「この前、ベトナムとの国境を守る警備隊が買収されて、2㎞ほどカンボジアの領土が減っていたということがあったじゃないか」
「うん、もともとあそこに住んでいた人、怒ってたね」
「だから、逆に、島がベトナムとの領海付近にあれば、そこで茶会をするというのも手だね」
「いやいや、博士。さすがにそれは国際問題になるね。海は陸と違って、多くの国々が絡んでいるから」
「ひと晩だけなら、オッパニャハーでしょう」
 パンは半ば諦めた顔で、トゥクトゥクを走らせようとしていた。
「おっと、着物だけはここでもらっておこう」
 博士はトゥクトゥクの荷物から風呂敷だけを取り出した。
「ねえ、ベトナムとの国境の話って、本当?」
 ホテルの部屋に向かおうとする博士にイブは訊ねた。
「本当さ。トゥリー・ピープルというんだよ。賄賂をもらっているから、木の上のハンモックで寝て暮らしているわけだ」
「そっちの方が国際問題じゃないかしら」
「たしかに。タイの国境付近の地雷も除去すると、カンボジア政府が苦い顔をするし、境というのは時にやっかいだな」
「あら、それまたどうして」
「地雷がなくなれば、支援が受けられなくなってしまうじゃないか」
 呆れた顔のイブに微笑しながら、博士はホテルの三階へ上がっていった。ふたりで部屋に入ったあとは、パンからの情報をゆっくりと待つことにした。まだ場所すら決まっていないのに、本当にあと数時間で茶会が開かれるのだろうか。見当もつかないと思っていたら、博士の手がまたイブのシャツの中にやさしく入ってきた。

 カンポット川に架かる鉄橋は、20世紀初頭のフランス植民地時代に建設されたものになる。さすがに古さを感じるが、此方と彼方を未だに繋いでいるのかと思いながら、エマはエンタヌー橋を眺めていた。橋の高さがそれほどでもないのだろうか。橋の下を舟が通るが、かなり際どいところを通っているように見えた。
「ケップ沖で茶会を今夕開くから、メーリングリストに英語でその旨を伝えておいて欲しい。尚、茶会には君にも参加してもらうから、急いで来るように」
 プノンチソールで受信した博士からのメールはこのような内容であった。ようやく博士の流儀がわかってきた。要は、出鱈目なのだ。時間的な制約も、空間的な制約も考えず、ただ一直線に物事を貫いていくといった印象を受ける。
 博士から添付されてきたファイルを開くと、実に多様な国籍のメーリングリストがあった。アダムにも手伝ってもらい、茶会の開催を一斉送信したが、問題は海である。ケップ沖と書いてある以上、舟は必須であろう。しかし、水が怖い。その話をアダムにしたら、ケップから程近いカンポットの街に連れてきてくれたのである。まずは穏やかな川で、舟に慣れればよいということであった。
 川岸には思ったよりも大きい船が停められていた。
 初めての乗船はアダムが傍らにいてくれたためか、殊の外、楽しめた。
 船が橋の下をくぐるときは、案の定、高さがギリギリだったので、船員も含めて、全員が伏せないと、橋に激突してしまうという。このような特殊ルールもエマには面白かった。
「ねえ、アダム。さっきのメーリングリスト、海外の人ばかりだったでしょう。さすがに今晩の茶会は間に合わないわよね。どうして、あんなことを博士は私にさせたんだろう」
 エマは伏せながら、同じく隣でうつ伏せになっているアダムに訊ねた。
「常識的にはそうだけれど、博士の場合はそういった物差しで測れないからな。博士の周辺にいる人物も同じで、狂った奴らばかりだよ」
「そうなの?」
「ああ。博士がハンガリーのラダイ博物館で茶を点てたときは、ニュージーランドからわざわざおばちゃんが足を運んで、「無と空はどう違うのか」と訊ねにきたみたいだよ」
「それを訊くためだけに、ハンガリーまで行ったというの」
「そう。クレイジーだろ」
「それで、博士はなんて答えたのかしら」
「そんなものを言葉にしたら、その時点で無も空も消えてしまうと言って誤魔化したらしい」
 アダムは嬉しそうに話し、上半身を持ち上げた。船が橋をくぐり抜けたのだ。アダムはエマの手をとり、持ち上げた。博士以上の体格差で、まるで大人と子供だ。
「夕方まで時間があるから、カンポットの街でひと休みしていこう」
 このままではよくないと思いながらも、静かに流れるカンポット川をエマはただ眺めていた。博士に頼まれた島もまだ見つかっていないというのに。
 西欧人に抱かれたのは初めてのことであった。
 独身の時、ドイツ人の旅行客にワットプノンの前で言い寄られたことがあったが、あんなに大きな人と結ばれることを想像しただけで怖かった。おそらくアダムはあのときのドイツ人よりも背丈がある。
 しかし、実際に歓を交わしてみると、前の夫がいかに軟弱であったかが浮き彫りになった。それほどまでにアダムのは猛々しく、次第にエマも野生に近い声が出るようになっていった。
「西欧人は皆、こうなのかしら」
 気が遠くなりながら、エマはふとこのようなことを考えた。もっと男を識っておけばよかった。これまで歩んできた人生が少し勿体なく感じたのである。もうすぐスウええデン人に嫁いでいくキャメラの顔もふと浮かんだが、また快楽の波が打ち寄せてくる。続いて脳裏に浮かんだのは、博士の横顔であった。エマは目を閉じ、博士に抱かれている自分を想像した。しかし、博士の賽を投げる指先を想うと、きっとアダムとは異なる世界を見せてくれるのではないかと思った。
 幾度目かの山がきて、声にならぬ声が漏れていく。
 しばらくすると、今度は元夫のことが想い出された。よく考えれば、何ひとつ幸せを感じることがない夫婦生活であった。不倫に走ったのは自分のくせして、いざ別れるとなったら、復縁をよく迫ってきた。それは警察に捕まってからも、手紙という形で今もなお続けられていることであった。エマが返事をしないでいると、今度はキャメラ宛に手紙をよこす始末である。妹まで巻き込む無神経さに、なお腹が立った。
 しかし、そのような怒りの感情を包み込むように、また肉が歓び始めた。その間隔は、徐々に狭まってきているようにも感じた。さすがにこのままでは還れなくなってしまうという頃、博士から二通目のメールが届いた。今度はただ数字が二つ送られてきただけで、これもメーリングリストに流すようにということであった。汗にまみれたエマが怪訝な顔をしていると、アダムが手をとり、腕時計に表示された博士のメールを確認してくれた。
「エマ、これは緯度経度だ」
「どういうこと?」
「茶会の場所が決まったんだよ。俺たちも急いで支度しよう」
 こう言ってアダムは飛び起きて、鞄を開けている。どこにそのような体力が残っているのだろうか。エマは敏感になった身体をゆっくりと起こし、洗面所に向かった。そこには艶やかな肌をした見たことのない自分が鏡に映っていた。夫の不倫に泣き崩れていた日々が随分とまえに感じた。
 洗面所から出ると、タキシード姿のアダムがいた。
 見違えた姿にエマが言葉を失っていると、
「少し遅くなってしまうが、この街で君のドレスをもとめていこう。散々、ビールをご馳走になったから、今度は俺が贈るよ」
 とアダムが言った。
「いや、その。ありがとう。嬉しいのだけれど、そのタキシード、いつ用意したの?」
 エマはこう返答するので精一杯であった。
「一週間くらいまえからかな。毎年、七月七日は博士が世界の何処かで七夕茶会を開くという噂を昔から耳にしていてね。すると、聞けば博士がプノンペンにいるというじゃないか。もし機会があればと思って、ずっと鞄に入れていたんだよ」
「七夕茶会?」
「東洋では七月七日のことを七夕というんじゃないのか。俺はまだ七夕茶会は見たことがないけれど、去年はチベットのタクラマカン砂漠、しかもかなり辺境の地で開催されたらしい。無論、砂漠の僻地でも、ドレスコードはありだ」
「今年もだと思うけど、そんなんじゃ、お客さんが来られないでしょうに」
「それが集まるんだって。さっきのメーリングリストの顧客は、おそらくそういう人物ばかりだよ。金持ちというよりは、辺境を愛するマレビトというか。スターピープルというか。七夕のまえに博士が何処にいるのかを追って、その周辺に各々が泊まっているんだろうな」
「博士の茶会はそれほどまでにすごいの?」
「さあ。普段の茶会は俺も幾度か出たことがあるけれど、たしかに美しいが、いわゆる日本文化という感じだったよ。いわゆる表向きの顔なんだろうね。でも、噂では年に一度の七夕茶会だけは別格らしい」
 アダム自身の高揚感がよく伝わってきた。これからドレスアップして、未知の島へと船出なのだと思うとエマの心もまた躍るところがあった。

七、@AN ISLAND 7/7 19:30

 エマたちがカンポット港から舟をチャーターして、博士からメールがあった場所へと向かうと、たしかに小さな島があった。夕焼けに照らされた島のシルエットが凄艶な女性に映ってしまい、こんなことではいけないとエマは静かに苦笑した。つい数時間前の自分であったなら、舟すら怖くて乗れなかったであろうが、アダムに抱かれたからか。水に対する憂いがなくなっている自分がひどく可笑しかった。アダムと共に来たことを知ったら、博士はどう思うだろうか。
 電波が入らなかったのかしら。博士にメールを返信したが、緯度経度のメール以降、次の指示はなかった。
 島に上陸して、まず目に入ったのがトゥクトゥクの傍らで茶道具を運んでいたスーツ姿のパンであった。トゥクトゥクごと舟で運んできたのであろうか。その屋根にはもう畳はなかった。
 この島で茶会が始まるのは19時半からということであった。
 未だ無名の島々のひとつで、エマにわかっているのは、アジア海の何処かという点のみである。それなのに、島には続々と人が集まった。中にはクメール人も幾人かいたが、そのほとんどが海外からの者であった。皆、正装で、逆にその土地の文化が見えてくる部分があった。キッパーを被っている男もいるし、サリーを纏っている女もいた。年齢もまばらで、老若男女といった雰囲気もあるが、それ以上に森羅万象といった趣があった。つまり、人外の者がいても、まったくおかしくはない場であったのである。ただ集まった者たちに共通して言えるのは、等しく己のなかの静かさを聴いているというのは言えそうであった。
 陽が完全に沈みはじめると、空はあたかも墨が燃えているように深紅に染まった。いよいよ本格的に暗くなり、夜の静けさが増していくのだろう。耳に届くのは、絶え間ない波音と風に揺れる木々の微かな揺ればかりだ。
 19時を過ぎると、島の奥から行燈を持った女性が姿を現した。いよいよ陽も落ち、辺りは行燈の火が際立つと共に、とうとう一帯は闇になった。今現れた女がイブだとエマが気付くまで時を若干要したのは、詮方なきことであった。それほどまでに辺りの闇が深まり、イブの藍のドレスもその闇に溶け切っていたのである。その溶け方は、アダムのタキシードの黒とはまったく異なるものであった。闇とは黒ではなく、藍なのだと知ると共に、イブはやはり博士と一緒にいたのだわと己の嫉妬を内側に見た。
 もはや人影らしきものが粛々と動くばかりで、結局、どれほどの人がこの場にいるかは誰にもわからなかった。一行はイブを先頭に、会場へと向かいはじめている。アダムが手を繋いでくれたが、イブを目にしてから、急にその関係によそよそしさをエマは覚えた。無論、アダムのせいではなく、自分の内面の移ろいが原因なのはよくわかっていた。
 行燈は遥かまえを歩いており、眼前の人影らしき足音だけが行くべき方向を示した。途中、海の浅瀬を歩く音がしたので、そちらに目をやると、波のなかで青い星々がその人影を追っては消え、また青白く光る景色が広がっていた。海ホタルだろうか。やがて人影の数が増え、それに呼応するかのように、海にも海ホタルの川が流れているようになった。
 茶会の会場はやや島の奥で行われた。
 小さな古代遺跡があり、その中央に半月の広場があったのである。朽ちた壁の中から、巨大な木の根が幾本も隆起しており、そのまえの石畳に畳が一枚置かれてあった。客は畳を囲むように順に石に座って、博士の登場を待った。最後に座ったのはアダムである。
 畳の端には、宇宙船のような茶釜があり、すでに炭が燃えているのであろう。茶釜の隙間から火の色が漏れている。その茶釜の隣には、暗くてよくわからないが、おそらくタイのベンジャロン焼きの器があり、その色彩豊かな蓋は器の奥に寄り添うように置かれていた。中に水がたっぷりと入っているのだろうか。水面に更待月が天の川を渡っている景色が映し出されているように、こちら側から見えた。
 所々に行燈が置かれてはいるものの、その明るさは儚く、行燈から数歩離れれば、そこにはまた暗闇が鎮座している。
 鳥の鳴き声がした。
 おそらく杜の方からであった。
 耳にしたことがない小さな囀りであった。
 その杜の方から、イブが菓子器を運んできて、アダムのまえに静かに置いた。アダムもイブも目を合わせることがなく、ただ一礼しただけである。そのときのアダムの表情が、プノンチソールのときの哀しげな顔とエマの中で妙に重なった。
 イブの髪にはプルメリアの花が三輪ささっており、それを見たときエマの耳奥でまた水が揺れた。惚れた相手を失ったのは、自分だけではなかったのだとエマはふと思ったのである。しかし、それはかなり確信めいた感覚であった。
 菓子器の中には、青い琥珀が綺麗に並べられており、見ているだけでこちらも涼しくなってくる。まだ食べてはいけないのであろう。アダムは菓子器を横にズラし、再び釜の方に目をやった。

 気が付けば、畳のまえに博士が立っていた。闇夜に溶けそうな地味な着物に袴を履いているようである。否、影に溶けそうなのは着物ではなく、博士自身であった。それほどまでに博士は場に馴染み、存在感が希薄であったのだ。
 博士が石畳に正座し、一礼をすると、客も総礼したのが雰囲気でわかった。エマも慌てて頭を垂れる。エマはやはり客だけでなく、あたかも場全体がお時宜をしたかのような錯覚に陥っていた。霊的なものが間違いなく居る。そう感じると、途端に恐ろしくなり、隣のアダムの顔を見たが、その表情もまた能面のようで、エマは思わず唾を飲み込んだ。
 博士は草履を脱ぐと、向こう側の足から畳に入った。足袋の白が澄み切っている。右手で茶入を、左手で茶碗を水のまえに同時に置くと、博士は再び立ち上がり、こちら向きに回転をしながら、踵を返し、また杜へと消えていった。
 茶碗の奥には、あの箒のような先端を上にして、茶筅が置かれている。
 トゥクトゥクで博士が茶筅を見せてくれたから、まだ一日しか経っていないのが信じられなかった。一日が一期そのもののようにエマには感じた。
 再び現れた博士の左手には、小ぶりの金物の器があり、その縁に柄杓が縦に伏せられてあった。平らに器を運ばねば、途端に柄杓が落ちそうであったが、博士はそこに一瞥もくれず、そっと身体の脇に添わせて歩いた。
 相変わらず、静かで衒いなき動きであった。あたかも博士の身が虚で、茶道具の影が実のように映る。
 畳の真ん中に博士が座ると、左手で柄杓を構えつつ、器の中から蓋置を取り出し、釜の傍らに置いた。暗くて細部はわからないが、おそらくは蟹の形をした蓋置であった。博士はその蓋置に柄杓を置いて、柄の部分を自身の中心へと向けると、
「どうぞお楽に」
 とお時宜をし、アダムたちもほぼ同時にまた総礼をした。
 そして、茶碗を右左右と持ち直しては、畳の飾り処から点て処へと移し、続いて右手で茶入を持つと、身体を起き上がらせてから、茶碗のまえにそれを置いた。茶入には模様が描かれているようであったものの、暗くて何かはわからなかった。
 博士は袴から袱紗をとると、それを折り畳み、茶入の蓋を「こ」の字型に拭いたかと思うと、すっと茶入の奥を袱紗が越えていった。
 エマはドラム缶ピザで見た袱紗さばきだと思った。やさしく綺麗に折り畳まれていく過程を眺めているだけで、自分自身もまた折り目正しい身体になっていくかのようだ。
 博士は連続して茶杓も清め、それを茶入の上に置いた。
 湯が沸いたのであろうか。雷鳴のように釜が鳴り、少しそれが収まったとき、博士は柄杓を構えながら、素手で釜の蓋をとったのである。火傷しないのかしらとエマは心配になり、博士の表情を確認しようとするも、暗くて顔がわからない。蓋があいた釜からは、勢いよく湯気が立ち上っていた。
 博士は釜の底から柄杓で湯を汲むと、茶碗にそれをすべて入れ、柄杓をあけた。先端は微動だにせず、また柄杓は釜の上にもどされた。
 そのまま博士は茶筅を持ち、茶碗の中であたかも字を書くように動かすと、茶碗の端にやさしく茶筅を落とした。
 コン……。
 小さな音が杜の中へと響いていく。
 アダムはその音が合図であったかのように、菓子器に渡されていた箸を右手でとり、左手で受け、また右手で持ち直し、菓子器の中にあった琥珀を懐紙の上に置いた。そして、箸の先端を懐紙の端で拭き、また菓子器にそれを戻したのである。やけに薬指が長く感じる箸さばきで、東洋人の自分よりはるかに綺麗だとエマは恥ずかしくなった。
 懐紙はそのままお皿として使ってよいのかしらと思っていると、アダムが黙って、懐紙の輪をエマ側に向け、いちばん上にあった一枚を半分に折って、置いてくれた。エマも静かに一礼をした。
 エマもアダムの真似をして琥珀をとると、菓子器を隣に回した。
 菓子はこのように正客から次客、次客から次へと順に回っていくのか。
 コン……。
 また、茶筅と茶碗が出逢う音がした。
 その音は、計三回、静寂な空に鳴り響いた。
 なぜかエマはそこに己の生死を裡に見た気がした。
 琥珀は碧く透き通っており、食べるのが正直もったいなかった。
 口に運ぶと、控えめな甘さが裡に広がり、舌の上で儚く溶けていく。
 その後、茶碗の中から川のせせらぎのような音がした。あっという間の出来事であったが、あれはたしかに川であった。博士が茶筅をひくと、遠くの波音がまた耳に届いた。
 茶筅がとおった茶碗は、こちらに傾けられ、続いて奥に傾けられ、最後に向こうに傾けられ、二周した。湯が傾けられるごとに、そこに映る天の川もまた揺れる。茶碗の中で、天が動いている。エマはそのように感じた。
 茶碗は博士の膝上を奥へと通過し、結局、すべての湯が金物の器に左手であけられた。逆に、そのときの博士の何気ない右手が指先まで揃えて、脚の上に添えられていたのが綺麗であった。
 博士は茶碗をやや傾けて茶巾で拭くと、下に置き、茶巾を蓋置の上にもどした。続いて、右手で茶杓を組み込みながら、茶入をとり、身体の中央で蓋をとった。暗闇に目が慣れてきたのか。その際に、エマは茶入の模様が見えた気がした。蒔絵で流水が描かれている黒い茶入で、その途中には橋が架けられているようであった。
 茶碗の左端に茶入を持ってきてから、博士は茶杓で二杯、茶を入れた。
 左手で茶入をひきながら、右手に持たせてある茶杓で横線をふたつ書いたかと思うと、博士はその茶杓でコン…、コン……と二回茶碗の五時近き位置を叩いた。おそらく竹の茶杓で、節が真ん中にひとつあり、先端は垂直からやや緩やかな角度で曲げられてある。
 そして、いよいよ茶碗に湯が注がれるようであった。
 再び博士は柄杓で釜から湯をいっぱいにすくうと、茶碗の少し上空にピタリと止め、肘でもって柄杓をあけた。
 湯気が茶碗からも幽玄に出はじめる。
 その瞬間、抹茶の香りに辺りが包まれた。
 はじめ茶筅がゆっくり動いたかと思うと、それが一瞬立ち、またすぐゆっくりと寝ていった。もっと念入りに茶は点てるものだとエマは思っていたが、あっという間の出来事であった。あれで茶が点つのだろうか。
 最後は茶碗の中で時計回りに円を描き、博士は茶筅をひいて、水のまえにもどした。
 いつの間にか、アダムが博士の方へと歩いており、茶が石畳に置かれると共に、タキシードで正座した。アダムの脚は曲がってというより、鋭角に折れた形になっており、たしかな正座に映った。博士のそれにも目をやると、もはやどこまでが脚で、どこまでが畳なのかがわからぬほど、脚が畳そのものになっている。
「江戸初期の平茶碗だよ」
 アダムが茶碗に手をかけると同時に、博士はこう静かに言った。
 膝先を少しズラしてから、アダムは立ち上がると、エマの方に回転して、再びエマの右隣へと還ってきた。
 アダムは石畳の上で座り直すと、茶碗を左手で受け、右手で支えながら一礼し、
「いただきます」
 とだけ言った。博士もそれに合わせて会釈をしている。
 茶碗を時計回りに二回まわし、四分の一ほど茶碗の正面を外すと、アダムは茶を喫みはじめた。ふた口、三口で喫み切っていたように思う。
 アダムは飲み口を指先で拭くと、今度は時計と反対まわりに二回まわし、茶碗の正面を元にもどした。
「次はエマの番だよ」
 アダムがそっとこう言ったので、エマは再び博士の方に目をやった。
 いつの間にか、博士は別の茶碗で既に茶を点てはじめていた。早い印象を抱かせない無駄のない点前である。
「うん、今とりにいってごらん」
 アダムの合図と共に、エマは博士の方へと向かった。
 昨晩初めて会ったばかりなのに、もう随分と離れてしまった気がする。視界が涙でにじんではいたが、エマはゆっくりと歩を進めた。
 エマは先ほどのアダムの真似をしながら、博士の傍で正座をした。やはりそれと呼吸を合わせて、茶が石畳に出てくる。アダムのとは異なり、女性らしい小ぶりの茶碗であった。
「君のは古代クメール文明末期の茶碗だよ。どうぞ」
 博士はエマと目を合わせることなく、静かに話した。
 ずっと聞きたかった声が、やっと耳に届いた。エマは右手で茶碗をとり、左手でそれを受けると、
「博士、私……」
 と声にならない言葉が出てきた。
「うん、やはり君は一度見ただけで、完全に憶えるようだね。私の影は見てくれたかい? さあ、席にもどって、お茶を喫みなさい」
 エマは「はい」と微笑し、席にもどった。
 改めて茶を上から眺めると、適度な塩梅で泡立っており、深緑色の半月が茶の表面に浮かんでいるようである。
 エマはアダムの所作を思い出しながら、茶を喫した。
 喫み終えた茶碗には、一輪の白い花が咲いていた。
 ポルポトよりはるか以前のご先祖様が描いたものかしら。美味しさと共に、どこか安堵が裡に広がっていくお茶であった。正面は茶碗そのものが教えてくれるようであった。

 それから幾度、博士は茶を点てたのだろうか。
 ひとりひとり丁寧に茶を点てては、取りに来てくれる客にひと言話す。
 客はその時間を待ち望んでいたかのようであった。最後の茶を点て終えると、博士は、
「しまい!」
 とだけ言った。
 その声は静かながらも、杜中に響くひと声であった。
 博士がお辞儀をすると、アダムたちもまた総礼をした。
 すると、次の瞬間、これまでいた客の気配が一斉に消えたのである。
 或る者は海へと還り、また或る者は天へと還っていくようであった。そして、博士もまた茶入と茶碗を持って、杜へと還ろうとしていた。
 気が付けば、エマは博士を本能的に追っていた。どこに居たのであろうか。同様に、イブもまた博士を追っているようであった。しかし、あれほどゆっくり歩を進めているように見えるのに、ふたりは一向に博士には追いつけなかった。
「追っては駄目だ!」
 アダムの叫びが背後からする。
 追いかけてきてくれているアダムには申し訳ないが、やはり博士の傍らにとエマは思い、走る速度をあげた。今にも博士は杜の中に消えそうなのだ。見渡せば、杜には川も遺跡もなかった。あるのはただ、暗闇に浮遊する橋が一架あるだけであった。
「待てって。そっちは崖だ」
 またアダムが叫ぶと、なんと一緒に博士を追っていたイブが止まった。
 アダムがイブの腕をつかんだのである。失恋と安堵が混ざった気持ちがエマの内側を瞬時にえぐった。ふり返ってはいけないと言ってくれたくせに、結局ふり返させたのは、アダムだった。勝手にふたりでこの島から出ていけばいい。
 エマは橋に一歩踏み出した。
 博士は既に橋の終わりにいる。
 橋を渡ると、急に涙が出てきた。しかし、この涙はアダムへのものではなく、博士の涙そのものなのだと、エマは思った。そう、博士は微笑で隠していただけで、ずっと慟哭してきたのだ。そのような共感覚が橋からエマの足裏へと流れてきたのである。
「なんであの子は、空を駆けているの」
 橋の真ん中まで来ると、後ろでイブの声がした。
 彼らには、この橋が見えていないのだろうか。
 そして、橋を渡り終えた博士があの微笑でこう言ったのだ。
「エマ、また賭けようか」
 博士が去ったあと、エマは立ち止まり、このまま行くべきか、それとも還るべきなのかを悩んだ。さすがに息苦しく、胸も詰まる。
 眼下には天の川が流れ、月の橋が架かっていたが、それが天空の景色なのか、水面に映った景色なのかは、エマにはわからなかった。ふと博士の点前が想い出された。それはつい先ほどのもので、柄杓で水を汲む一場であった。水から柄杓が斜めに出てくると、水面は何事もなかったように静かで、一切を黙々と夢幻のように流していったのである。

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