【小説】タイムマシン

 徹が夜明けの崖下のホテルでぐずぐずしていると、始発列車は岬の根元をよこぎって東へと去ってしまった。その光の筋が、窓のカーテン越しにたしかに見えた気がした。あれに乗ればいろいろなことに間に合い、心を煩わす様々なことから逃れられたのに。そう思うとがっかりして徹はあるはずの眠気さえ感じなくなった。カーテンを全開にしてまだ暗い海と岬の区別のない影に目を凝らす。こんなホテルに泊まるのは、冷たくなったピザを放置しているオーブンのような気持ちだ。頭が痒いので髪の中に指を入れ、掻く前に(このまま戻ってこれなくなるのでは)と怖くなり、あわてて引き抜いた。相変わらず頭は痒い。ベッドに虱でもいたのだろうか。右手の指先は木の皮のように固くてざらついている。ガラスを撫でると、こすれあっていやな音がするほどだ。岬のどこかに小さな神社があり、その階段を夜じゅう上り下りしている野良猫がいた。だんだん人間の顔に近づいたり、また遠ざかって猫らしい表情に戻ったりしていた。その階段を徹は何日か前に、居合わせた酒場の客から写真で見せられた。何の変哲もない石づくりの階段だが、地元の人間だというその女にはたいそう自慢の場所らしく、何度もバッグから写真を取り出して徹の鼻先に押し付けるようにした。徹は嫌がって顔をそむけたり、どうにか話題を変えようとしたものだった。しまいには腹を立てて彼は写真を乱暴にテーブルに叩きつけたが、女はそしらぬ顔で写真をバッグに仕舞い、数分後にまた取り出して自慢を始めた。
「この神社では何年も前から神隠しや強盗事件が起きたり、痴漢や自殺者も頻出しているの。真夜中に賽銭泥棒だって来たわ! そんな場所はほかにないし、きっと近いうちに計り知れないような無残な事件の舞台になるはず。テレビ局や新聞社が押しかけて、それはそれは忘れられないような騒ぎになるでしょうね」
 女の言葉を信じるなら、夜じゅうその石段を上り下りしている猫はかつて彼女の飼い猫だったのだという。ある日を境に餌も寝床も拒絶して、みずから孤独な野良猫に戻ってしまったのだ。神社に居つくなど、動物のくせにまるで信心深いかのようだが、他にも神社には野生の猿や狸なども出入りしているようだ。だからそういう場所なのだとしか言いようがない。裏山にはいくつもの正体不明の横穴もあり、そのいくつかは地元の有志が正式に探査に入ったもののすぐに行き止まりになったとして引き返してきた。女に言わせればそのような報告はまったくの期待はずれで、馬鹿げたものだった。
「まったく、どいつもこいつも役立たずの腰抜けばかりだった」女は歯ぎしりしてそう言った。
「わたしの祖父は独自にあれらの横穴を調査して、自分でも新しい穴を掘って一種の〈答え合わせ〉までしてのけた人なの。その孫がわたしなのだから、どういうことかわかるでしょう?  想像しただけでわたしの意識は横穴の未知の奥行きに達するし、むしろ穴の深奥からこちらに向かって走り出てこようとさえしている。ちょっと待って、今報告があるから」
 制するように手を顔のあたりに上げ、目を閉じて口の中でぶつぶつ何かを唱えた。
「祖父のつくったタイムマシンが、あの穴の一つにまだ残されているみたい。祖父は科学者であると同時に、わが町を代表する墓掘り人夫だった。だから正確にいえばその穴がタイムマシンそのもので、穴の中を歩いていると時間の流れが〈その横穴を歩いているという時間〉よりも遅くなったり、早くなったりするの。そういうことをシャベル一本でやり遂げた後、祖父は心身ともボロボロになって穴の中で急逝したわ。まだ六十一歳の若さだった。人は執念で仕事を成し遂げると電源が切れたように死んでしまうものよ。そんな魂を地獄から呼び戻すことはできないし、おまけに倒れた衝撃で横穴がくずれて、土砂が祖父と彼の発明を埋めてしまった。だから今ある穴の行き止まりは、本当の底ではなくて秘密のはるか手前に設けられた柵のようなもの。その先に真の穴の終わり、つまり祖父の創造したある種の神殿の、御神体にあたるものが埋没しているの。祖父の骨! シャベル! 地下足袋! わたしにはこの床の下にある地面もまた祖父の死体の一部のように感じられる。さっきから足が震えてるのはそのせい。耳の穴がじんじん痛んでたくさんの耳鳴りを響かせているわ。それはある時は祖父の雄たけびに、べつの瞬間にはただの野良犬の遠吠えに聞こえる。あなたにも聞こえるでしょう? ほらもっとわたしの耳に近づいて、しっかり耳を澄ませて頂戴。これほど巨大な耳鳴りは滅多にないのだから」
 目の前に乗り出された女の顔からは、日陰の地面のような臭いがした。徹は辟易して椅子から立ち上がると、逃げるように勘定を済ませて店を出た。すると女も酒場のドアから転げ出して、そのまま徹の後をついてきた。街灯の間遠な夜道を必死で駆け抜け、引き離したかと思ってふりかえると女は一つ手前の角からこちらを覗いていた。ぞっとしてさらに駆け出し、道を複雑に折れたり林に飛び込んでがむしゃらに斜面を駆け下りていくと、自分はいったいどこへ向かっているのかと心細くなる。ただでさえ地理に明るくない土地で、こんなでたらめな進み方をすればどうなるかは想像がつく。徹は祈るような気持ちで立ち止まり、背丈ほどもある切り株の陰から背後をうかがった。そこには街灯も明かりを漏らす窓もなく、すべてはただ黒い濃淡としてひろがっているだけだった。迫り来る足音などは聞こえない。気が抜けたようにふらふらと山を下り、三十分後に徹はまっすぐのびる舗装道路に出た。それは町のメインストリートで、シャッターの下りた呉服屋や時計店が軒をつらねている。まだ宵の口と言っていい時間だが、歩いている人はおろか車も一台も通らなかった。ただどこかの家の浴槽に湯を溜める音や、テレビの歌謡ショーらしいかすかな声が聞こえてくる。徹はそれを目印のようにして歩いた。やがて右手にお盆のようにへこんだ広場が現れ、そこに無言で輪をなしている人たちの姿を見た。マネキン人形のように不動の姿勢だが、足元がふらついていたから人間だろう。声をかけるといっせいに振り向きそうな気がして、横目でちらちら見ながら通り過ぎる。どの人の頭にもいろんな形をした帽子がのっていた。ここは帽子屋があった土地じゃないか? と徹は思った。こんな寂れた町では帽子屋がつぶれて更地になっても無理はない気がしたのだ。
 その夜は宿泊先のホテルをさがして朝までさまよい歩いた。メインストリートを何度も往復して、横丁を丹念に覗き込んだけれどそれらしい建物の影がない。徹には不眠症の弟がいて、未明に廊下を行ったり来たりする足音を夜毎布団の中で聞いたものだった。通り沿いの真っ暗な窓を見ていると、枕の上でそばだてられている無数の耳を感じずにはいられない。たとえ夢の中にまどろんでいても、細い耳の穴は夢の入口まで続いているのだ。徹はかつてどんな夢を見ている晩にも、弟がその景色の片隅をよこぎっていくのを目撃した。弟は鼻歌を歌ったりひょっとこの面を被ったり、時には窓ガラスの曇りに指で禿げ山の絵を描いたりして徹の夢を攪乱した。朝になるとひどく顔色の悪い弟が吐き捨てるように「兄ちゃんの頭の中には飛行場がある」とつぶやいたものだった。二人きりの兄弟なのに、こんな思い出しかないのはつらいものだ。おまけに弟はもう何年も前から行方不明で、その顔つきは霞がかかったように読み取れなくなっている。たまにかかってくる無言電話からも鈴の音しか聞こえなかった。鈴の音くらいなら徹だって時おり響かせることがある。現にその晩も鞄の中で身におぼえのない鈴が震えて何度も冷たい音をたてていた。通りの両側にならぶ窓から、今にも咳払いの音が聞こえてきそうだ。目抜き通りといっても田舎町ゆえちょっとした屋敷の廊下程度だった。覗き込んだ路地でゴリラの置物が睨み返してきた。徹は驚いて地面から飛び上がり、鈴がひときわ大きく通りに鳴り渡った。
 岬と空が接しているあたりがうす明るくなった。どうやら夜が明けかけているらしい。徹は鞄の口を開けて中身をひっくりかえした。あんなに騒がしかった鈴がどこにもみあたらず、着替えの靴下がばさばさと地面にこぼれ落ちた。拾い集めつつふと前を見ると、タイル張りの褐色の壁が歩道に沿ってひろがり、かつ天を突くようにそびえ立っている。捜していたホテルの外壁だと、徹はすぐにピンと来た。さっきから何度も前を通り過ぎた場所だ。このあたりは夜じゅうひどく視界が悪く、煙がたちこめていると勘違いした彼は激しく咳き込んだものだった。今や朝焼けに照らされたホテルは堂々と玄関を見せつけ、ロビーに飾られた花がガラス越しにきどったポーズを決めている。闇と光ではこうも違うものなのか。徹は感心して階段を駆けのぼった。ドアは押しても引いてもびくともしなかったが、あわてずポーチに腰をおろすと、背中を貝のように丸めた。夜はまだ明けきったとは言えない、どのみちあと数分で守衛が鍵を開けに来るだろう。さしあたり背後の気配に耳を澄ませておけばいい。徹は広場で輪になっていた人たちの、無気力に左右にぶらさがっていた腕のことを思い出した。わずかに揺れて見えたのは風のせいで、風の中には白い紙切れやポリ袋が無数に飛ばされている。いっときも場所を同じくしていることはない。そう思うと徹の口から大きなあくびが一つ出て、瞼が水を含んだように重くなった。とはいえ、べつに眠たくはないのである。

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