百舌鳥古墳群は外交使節に見せる為に築造されたのか?~石津と壱師の花~
百舌鳥古墳群は古代の海岸線に近い上町台地に続く台地上に築かれているのですが、船から見て権威を誇示する為に築造された説で問題になるのは、難波や住吉の南に築造されているということになります。果たして外交使節がこの海域を通ることがあったのか?
多分、あったのでしょう。石津がまさに神功皇后・応神天皇の港だった可能性があります。
上流に式内・美多弥神社があって民直氏(みたみのあたいし)が土師氏・中臣氏でした。民直氏には渡来系氏族も多く、外交貿易をやっていた出雲系在来氏族だと思われます(後に土師氏/神門氏の傘下か)。
履中天皇陵に治定されている上石津ミサンザイ古墳が応神天皇陵として大鷦鷯尊(仁徳天皇)が築いた古墳ではないかと見ています。
寿陵の中国、子が親の古墳を築く日本①(応神天皇陵から雄略天皇陵まで)|古墳時代史解題
①陶邑窯跡群が和泉の丘陵に築かれた背景に石津あたりで外交使節が上陸していた可能性があると思います。
②外交氏族と言える大伴氏の拠点(高師の浜)が近くにあります。
③茅渟(和泉)県主は上毛野氏で、荒田別が応神天皇の後継者の王仁(わに)を引っ張ってきました。
④乗降客の関係で大阪湾の港を飛ばさずに全て経由して使節は石津あたりで上陸したかもしれません。
⑤タイミング的には神功朝以降の早いタイミングを考えています。後継者が宇治(や難波)にいたので、タイミングが遅れると機会を逸します。
⑥大鳥郡は鳳凰郡で中国風(海外風)のように見えます。
⑦秦氏の祖が仲哀朝に来たとされることとも関係あるかもしれません。秦氏は恐らく辰韓で「新羅征伐」との関係で日本に来たのでしょう。秦氏はまず大和に来たとも言われ、葛城襲津彦とも関係が深いです。
⑧馬の利用との関係を考えています。古墳時代前期は小型船に乗り換え、河内国大県郡に上陸していた(その後は徒歩か)のではないか?それが石津から馬で大和に向かうようになったのではないか?
→雄略朝に外交使節の為に磯歯津路を築造する記事が見えます。神功朝に特に(直線)道路が整備されていなくとも、馬が通れる道はあったんだろうと思っています(中世に古代のような整備された道路や駅はなかったですよね)。日本で馬が普及するのは馬具の副葬から5世紀頃と言われますが、ここでは外交使節が馬を船で連れてくることを想定しているので、特に日本での馬の普及は必要ないという考えです。
阿倍引田臣比羅夫の北海道遠征と石港遺跡、伊夜比古神社(弥彦神社)は尾張氏の神社か?|古墳時代史解題
石港=一志(君)港(和珥氏の港)説です。百舌鳥古墳群と関係の深い石津も恐らくそうでしょう。神功皇后の血統と和珥氏は関係が深く、応神天皇の後継者の母が和珥氏でした。
一志はイチシと現在は読まれていますが(古くはイシと言い)、万葉仮名で壱はイなので、イシと呼んでいた可能性がやはり高いと思います。イチシでは日本語で何のことやら分かりませんから。市磯長尾市も市・磯長・小市の方が意味は通る。いずれにせよ、今の訓読が当時の訓読である保証はありません。
壱師の花は彼岸花説が有力視されていますが、(現在では)意味が分からない(日本語では何のことやらわからない)ことは否定できないんじゃないかと思います。
彼岸花とは石蒜とも言い、石(壱師)の花をイチシの花と訓んで、いちしろくとかけて言葉遊びした一首(路邊壹師花灼然人皆知我戀孋)に過ぎないんじゃないでしょうか?万葉集にはこの一首しか見えません。なお、彼岸の方向は西で、大和から見た石津のようにも見えます。
揖夜神社と伊夜比古神社(弥彦神社)の解析と伊弉諾尊・伊弉冉尊、そして磐余|古墳時代史解題
神功皇后の宮が磐余。古墳時代中期に伝説化した日本武尊は神武天皇(磐余彦)のモデル。磐余とは謂れ(由緒)の可能性が高く、伊弉諾尊・伊弉冉尊絡みの伝承が出雲にあります。
見出し画像は大仙公園(堺市)。
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