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百済を復興させた雄略天皇

なぜ古代日本の「前方後円墳」が朝鮮半島に築かれたのか?倭国と百済・伽耶の関係(Yahoo 草の実堂 7/19(日))

「百済を復興させた」雄略天皇の事績の評価が甘い気がします。雄略天皇紀には雄略天皇が百済東城王を擁立したと書かれており、それが事実だった(日本からのテコ入れはあった)ことを朝鮮半島西南部の前方後円墳や武寧王の棺(コウヤマキ)は示すはずです。

万葉集の冒頭歌が雄略天皇なのも、神功皇后以来の朝鮮半島での成功を評価してのことだと考えます。斉明天皇が雄略天皇の泊瀬朝倉宮(や神功皇后と天日槍/橘守)にあやかって朝倉橘広庭宮を立てたのもこれですね。

まぁ日本書紀の編者自身が(豪族の合議の重視で)専制君主の雄略天皇を評価していなかったというのはあるでしょうが、今の我々は冷静に歴史を評価することは出来ます。

雄略天皇紀には武寧王の記述もありますが、雄略天皇の擁立ではなく、日本で生まれて(墓誌によれば462年生まれで)送り返しただけ(東城王の死後に自分で502年に即位)ですね。勿論、475年の蓋鹵王の敗死後に東城王の即位(479年)を雄略天皇が支援したのは間違いないと思います。いずれにせよ、武寧王も日本書紀の紀年では雄略天皇(456年~479年)とは縁があったのですが(古事記の年代では、雄略天皇の崩年が489年で允恭朝の生れ)、(通説的に比定に異論がほぼない)倭王武の上表文は478年で、古事記の崩年干支からの推測の方が外国史料との整合性があるとは思います(つまり武寧王と雄略天皇は無関係か)。武寧王を送り返した事績を雄略天皇紀に挿入した事情は確証はありませんが、雄略天皇が百済支援を成功させた天皇として著名だったというのはあるかもしれません。

百済は蓋鹵王の戦死以降のゴタゴタで滅亡してもおかしくなかったですね。(年齢的なもので消極性もあったかもしれませんが)長寿王が本気出したら、百済は滅びていたんじゃないですかね。羅済同盟や地勢上の攻めにくさもあったでしょうが、日本との緩衝国はあってもいいというような感じだったのかもしれません。

元々高句麗の南下は不意打ちだった(百済が高句麗の大規模攻撃があると考えていなかったという意味です。蓋鹵王の言動は矛盾しており難しいところではありますが、スパイが百済は要害の地と褒めたのを信じて(攻撃はないと)贅沢をしてしまったようにも見えます)ので、大和朝廷が高句麗を警戒したのは当然かなという気はします。慈善事業ではありませんから、支援ついでに馬韓の西南部を取っちゃったかもしれませんよね(前方後円墳まで築いていますからね)。日本書紀によれば、大伴金村が百済に割譲したらしいですが。

東城王を擁立する為に日本から護衛して百済に向かった(その後、朝貢されたので、高句麗を攻撃した)、朝鮮半島の西南部(馬韓南部)はそもそも百済ではなく(百済や大和朝廷に友好的な)独立勢力の領域で、大和朝廷の領土とした(後で百済に割譲した)という感じかと思います、私は。

倭王武の上表文で百済は(栄山江流域を含む)馬韓を統一していなかった=独立勢力があったと判断している感じですね。特に先進的な技術は無かったし、大伴金村的には(大和からは遠く統治困難でそれならいっそ)百済が強力な盾になることを期待した判断かと思います。

見出し画像はウィキペディア「朝鮮半島南部の前方後円形墳」光州月桂洞1号墳(韓国光州広域市)朝鮮半島の前方後円形墳(長鼓墳)の1つ。左に前方部、右奥に後円部と石室。日本列島の前方後円墳同様に周堀を有する。(Saigen Jiro)


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