巨大な飛鳥の大官大寺とその後
5月13日ポスト)大官大寺跡。世界遺産構成資産候補。国の史跡。明日香村小山及び橿原市南浦町の史跡ですが、伽藍のほとんどは明日香村にあります。築造年代は文武朝頃と考えられ(文武天皇妃に紀竈門娘)、扶桑略記の記述と一致するようです。天武天皇紀には美濃王と紀臣訶多麻呂が造った(明日香村小山紀寺の小山廃寺に比定できる)高市大寺を今は大官大寺と云うとあり、藤原京の完成で移転改称した可能性が考えられます。扶桑略記には平城京遷都後の和銅4年に火災にあったことが記され、その跡も残るようです。続日本紀には大安寺とあり、日本書紀完成(養老4年/720年)以後に改称したと見られます。
小旅行記)大官大寺跡。その名の通り、大きな寺跡ですが、前身は大安寺伽藍縁起并流記資財帳によれば、高市大寺(小山廃寺(紀寺跡)か?)、舒明天皇の百済大寺(吉備池廃寺)、熊凝精舎(額安寺説あり)とされます。
この内百済大寺に関して言えば、蘇我氏に擁立された舒明天皇が蘇我氏の本拠と言える飛鳥から離れて百済宮を営んでおり、その経緯が問題になると思います。私が思うに、百済寺とは豊浦寺の前身の最初の寺=桜井寺の地ではなかったでしょうか?そのぐらいの理由がないと蘇我蝦夷・入鹿父子が遷都を許さないと思う訳です。崇峻天皇紀には高句麗僧が師だった善信尼らが「自百済還、住櫻井寺」とあり(百済への留学※高句麗と百済は扶余族で同族)、百済との関係も十分で、吉備姫王(吉備島皇祖母命)の父が蘇我系の桜井皇子です。宝皇后(皇極天皇)の母が吉備姫王で、吉備姫王は後に蘇我氏の人質になって嶋の邸宅に住んだとも考えられます。
ならば、熊凝精舎の方は舒明天皇の母の糠手姫皇女(嶋皇祖母命)と関係ありそうです。或いは額田姫皇女の誤りの可能性もあります。糠手姫皇女の父系の祖母が皇別息長氏の広姫で、私は神別息長=天津彦根命系氏族と考えており、額田部湯坐連と関係ありそうです。推古天皇(額田部皇女)や額田王との関係が問題にはなりますが。
こうなってくると高市大寺の位置づけが引っ掛かりますが、考古学的遺物から大宅氏(和珥氏)や中臣氏と関係が深いらしく、日本書紀の記述からすると壬申の乱と関係があって、中臣大嶋と額田王の関係が引っ掛かってきます(栗原寺跡ポスト参照)。
大官大寺に戻ると、小山廃寺の紀寺の地名と関連して(高市大寺を紀臣訶多麻呂が築造した)、文武天皇嬪の紀竈門娘と関係ありそうです。藤原氏や蘇我氏・物部氏等の陰に隠れがちですが、紀氏は光仁天皇の外祖父を出す等、(武内宿禰一族でもあり)案外有力なことに注意が必要です。
追記)大官大寺跡の巨大な礎石は明治の橿原神宮造営の際に割られて持ち去られ、本殿を囲む石垣等に使われたと言います(大安寺伽藍縁起幷流記資材帳を読む 東方出版)。残念ですね。
地名としては凡そ奈良県高市郡明日香村小山ですが、小山連(高御魂命子櫛玉命之後也)(大伴氏系か)の土地だった可能性があります。これは奈良県高市郡明日香村真弓の式内大社の櫛玉命神社(四座)と関係する可能性も高く、近隣にマルコ塚古墳があり、やはり大伴氏の一派の丸子氏と関係が深い可能性が高いです。大伴氏は壬申の乱で大海人皇子側に立って活躍が見えます。平安京移転後の平城京の大安寺(大官大寺の後身)の別当に空海(佐伯氏/恐らく大伴氏)がついていることにも注意が必要です。ただ前身の百済大寺(吉備池廃寺)は蘇我氏系でしょう(ゆえに紀伊に関わるとは言えますが)。高市大寺は紀寺の廃寺の可能性も高いです。文武天皇妃に紀臣氏・石川臣(蘇我臣)氏があり、大伴氏は紀伊国にもあって、空海は言わずと知れた紀伊国の金剛峯寺を開いています。恐らく(弥生時代の)四分遺跡の頃から紀伊と関係の深い土地なのでしょう。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!