伊弉冉尊が死なない展開に出来ませんか?
日本書紀正文では、伊弉冉尊は神産みで死んだ記述がなく、三貴子が生れています。それにもかかわらず、スサノオが(古事記同様に)泣き喚いており、それを理由に根国(出雲)に追放されます。
何故正文が伊弉冉尊が火神を産んで死んだ展開にしないのでしょうか?
その答えですが、根国(出雲)に行った理由が母に会う為だったら、一書に見える「葬於紀伊國熊野之有馬村」という伝承と矛盾するからだとも考えられます(古事記では「葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也」なので矛盾しない)。ただ、その一書では「伊弉冉尊、生火神時、被灼而神退去矣。」のみで、三貴子を産んだ話になりませんが。
本来、(元明天皇が危惧したように)古事記が正文で、日本書紀が採用したい伝承(紀伊国に伊弉冉尊の墓)があって(恐らく紀氏への配慮)、それでは(単純に伊弉冉尊が死ぬ話を削ると)三貴子が生まれないことになってしまう(或いは素戔嗚尊が根国(出雲)に追放されない展開になる)ので、苦肉の策で伊弉冉尊が死なないパターンを捻りだして正文にしたのではないかと思います。つまり、軻遇突智等の出生話(や素戔嗚尊が泣く理由)は相対的にどうでも良かったと。
こう考えると、日本書紀編纂時点での伊弉冉尊の公式の墓は紀伊国だということになりますが。出雲と伯耆の境の墓も古事記以来の公式と考えられなくもないですが、風土記には記載されません。広島県(安芸国・備後国境付近)の比婆山は良く分かりません。
また、日本書紀は出雲神話をガッツリ削っていることにも注意が必要です。伊弉諾尊が根国を訪れる話も相対的に重要ではなかったということです。
なお、梅原猛著『黄泉の王』では万葉集を根拠に紀皇女を文武天皇の正妃だったとするようです(未読)(文武天皇の嬪には紀竈門娘(紀朝臣の娘)も)。いずれにせよ、天武天皇紀には美濃王と紀臣訶多麻呂が造った(明日香村小山紀寺の小山廃寺に比定できる)高市大寺を今は大官大寺と云うとあり、当時紀氏が重要視されていたことは間違いなさそうです。
見出し画像はウィキペディア「花窟神社」参道入口の鳥居 Tawashi2006とone more author - Tawashi2006
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