天照大神(モモソ姫)の下、大和朝廷/倭国は形成され、素戔嗚尊(孝元天皇)の子孫が統治するという記紀神話
3月7日ポスト)伊弉諾尊(孝霊天皇)~モモソ姫(天照大神)と素戔嗚尊(孝元天皇)の誓約~天忍穂耳尊(開化天皇)~ニニギ/天孫(崇神天皇)~山幸彦(垂仁天皇)と海幸彦(豊城入彦命)~ウガヤフキアエズ(景行天皇)~神武天皇(日本武尊)のエミシ征伐~綏靖天皇(仲哀天皇)と手研耳命(足鏡別王)という風に応神天皇より前の実在が伝わっていたっぽい天皇の代数と事績が神統譜と神と名の付く天皇に一致することは偶然と思い難いです。応神天皇の出生が怪しく、神功皇后も明らかな傍系なので(隠してないので)、孝霊天皇から仲哀天皇までの系譜を祖神の系譜に投影して取り込んだように見えますね。+景行天皇皇子の五百城入彦皇子の孫の皇后三姉妹の子が本来は応神天皇の後を継ぐ予定だったのでは?血統継承が確立していたら、その存立の基盤が怪しくなった時、それぐらいはするのではないでしょうか?
また考古学的遺物と史書をどう考察しても、孝霊天皇ぐらいがギリギリでそれより前の欠史八代の卓越性を検出するのは至難だと思います。磐余を討った偉い人(神武天皇)がいた、祖先は日向(九州)から来た、大伴・久米・忌部あたりが譜代で橿原周辺が元の根拠地ぐらいのうっすらした情報を膨らまして、多氏や和珥氏といった親戚をくっつけたぐらいが神武天皇や孝霊天皇より前の伝承・系譜の核ではないかと今は考えています。後世ですが、織田・豊臣・徳川あたりもまさか自分達が日本に覇を唱えるとは思ってなかったはずですよね、最初は。私は記紀の伝承を勿論尊重しているつもりですが(偉くなってからの記録は一定程度信用していますが)、偉くなる前の祖先の立派な伝説は後からついてくる側面も歴史にはあるはずです。
追記)伊弉諾尊と伊弉冉尊の国生みは日本書紀一書に諸説ありますが、ほぼ淡路島から始まります。これがモモソ姫の母の父系が淡路であることと符合します。伊弉諾尊は淡路に引退したことになっています(淡路に名神大社の淡路伊佐奈伎神社があります)。崇神天皇紀に見える倭国造(ヤマトコクゾウ)の名神大社(大和大国魂神社)が淡路にあります。葛下郡の式内社に伊射奈岐神社がありますが、葛下郡は孝霊天皇陵のある片岡を含みます。
モモソ姫は大物主神(大国主神の幸魂奇魂)(蛇神)の妻ですが、素戔嗚尊とクシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)の子(紀)ないし子孫(記)が大国主神です。天照大神と素戔嗚尊は姉弟ですが、誓約で子を生しています。素戔嗚尊は八岐大蛇を「斬蛇剣」(漢の高祖のレガリア)で倒して、蛇剣(草薙剣)を手に入れ、三種の神器としています(孝元天皇陵を剣池嶋上陵という)。天照大神の形代たる八咫鏡を含め、三種の神器は皇室のレガリアですが、孝元天皇は初代神武天皇の畝傍橿原宮に程近い軽境原宮を皇居としています。崇神天皇紀にモモソ姫は箸墓の主とされ、考古学的に纏向の最初の大陵の箸墓は卑弥呼の墓とも考えられています。卑弥呼は日巫女ないし日御子だと思われ、天照大神が太陽神であることに符号します。三穂津姫は(皇祖神の一角の)高皇産霊尊の娘で、大物主神の妻ですが、モモソ姫が大物主神の妻であることと符号します(城下郡の式内大社に村屋坐弥富都比売神社があります)。出雲国風土記に素戔嗚尊・大国主神の国の出雲の美保は大国主神が高志国の奴奈宣波比売命と妻問婚して産んだ御穂須須美命が鎮座していますが、崇神天皇紀に大彦命の北陸道(越)遠征の際に反乱を予知したのがモモソ姫です。大彦命の子に武渟川別があり、阿倍氏は出雲国造を監督していた可能性があります(国史跡の安部谷横穴墓群)。越には出雲の墓制の四隅突出型墳丘墓が広がります。魏志倭人伝に卑弥呼は魏のシンボルカラーの黃幢を貰っていますが、城下郡の式内大社に池坐朝霧黄幡比売神社があります。魏志倭人伝に卑弥呼は銅鏡百枚を貰っていますが、卑弥呼の時代の紀年銘鏡等、大量の鏡がこの時代から大和中心に分布し始めます(それ以前は北部九州中心でした/イザナギは筑紫で潔斎して、天照大神と素戔嗚尊を生みます)(城下郡に式内大社の鏡作坐天照御魂神社があります)。城下郡は孝霊天皇の宮が置かれたとされる黒田の地名があり、纏向以前の大和の中心地の唐古鍵遺跡があったところです。素戔嗚尊は出雲や紀伊と関係が深いですが、孝元天皇の宮がある軽は高市郡で高市郡は出雲や紀伊と関係が深いです(出雲国造神賀詞、紀寺や城殿の地名)。卑弥呼は台与に継承しましたが、モモソ姫の孫世代で孝元天皇の孫の崇神天皇の娘(母は紀伊系)を豊鍬入姫命と言い、天照大神の祭祀を行っています。崇神天皇は記紀で神武天皇と並んで初代天皇の扱いですが、天照大神と素戔嗚尊の誓約で正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊が生まれ、その子のニニギが天孫降臨しています。孝元天皇の系統はモモソ姫の一族を差し置き(地方に飛ばし)、正統な天皇の地位を確保しています。天照大神が「天帝」であるにも関わらずです。これは箸墓が最初の「天皇陵」と見られることに符号します。前方後円墳は出雲の(四隅突出型墳丘墓を築いた)土師氏の技術で築いたと見られ、これ以降の古墳は四隅突出型墳丘墓と同じく整形です。箸墓は土師墓説があります。天照大神と素戔嗚尊は伊弉諾尊が潔斎で生んだ姉弟ですが、母を伊弉冉尊とするのは素戔嗚尊だけです。つまり異母姉弟の可能性があり、そのことが(天照大神の後裔を称した)素戔嗚尊の後裔が倭国を統治する正統な王としたと解釈できます。伊弉冉尊が眠る紀伊の熊野(紀)は物部氏/穂積氏の領域で、孝元天皇の皇后の血筋です。もう一つ伊弉冉尊が眠るのは出雲と伯耆の堺の比婆の山ですが(記)、出雲国意宇郡屋代郷に残る母塚山だと思われ、近隣の意宇郡楯縫郷に物部氏がいた可能性があります。
開化天皇(稚日本根子彦大日日天皇)を祀る神社は豊前国の香春神社の一角の(素戔嗚尊が生んだ正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を祀る)忍骨命神社だと思いますが、豊国は天照大神祭祀の台与/豊鍬入姫命の国だと思われ、近い時期の豊前石塚山古墳を擁し、モモソ姫の同母姉弟の日子刺肩別命(高志之利波臣・豊国之国前臣(豊後国風土記に(景行天皇紀の国前臣の祖である)菟名手が豊国直)・五百原君・角鹿海直の祖(記))が統治していたと思われ、同じく香春神社の一角の辛国息長大姫大目命神社が神功皇后紀に卑弥呼に比定された神功皇后の神社で、先祖が開化天皇になり、同じく香春神社の一角が豊比咩神社です。開化天皇の宮は春日率川宮、開化天皇陵は春日率川坂上陵。開化天皇を祀る神社と思われるのが河内国大県郡の若倭彦命神社で、香春神社の社家の(公孫氏後裔を称する)赤染氏の神社が河内国大県郡の常世岐姫神社です。香春神社のもう一つの社家は鶴賀氏で、(佐紀古墳群に眠るとされる)垂仁朝に渡来したとされ、新羅VS任那の口火を切り、(佐紀古墳群に眠る)神功朝に三韓征伐が起こります。佐紀古墳群は垂仁朝に(母が春日の)開化天皇系狭穂彦王の土地を接収して築造したと思われます。
崇神天皇陵は古事記においては、山邊道勾之岡陵ですが、これは延喜式の手白香皇女の衾田墓と陵戸が兼守で考古学的には、それぞれ西殿塚古墳(崇神天皇陵)、西山塚古墳(衾田墓)に比定できます。天孫降臨の際にニニギを包んだのが眞床追衾です。崇神天皇紀に崇神天皇は御肇国天皇ですが、一書に天照大神から三種の神器を授かり天孫降臨したのがニニギで、崇神天皇の娘の豊鍬入姫命が天照大神の祭祀を行います。
なお、垂仁天皇以降はここでは端折りますが、天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた神の名の分析からは、仁徳朝で記紀神話の編纂が完了したようです。
2025年9月22日追記)垂仁天皇は山幸彦(彦火火出見尊)のモデルとなったと考えていますが、その母が木花開耶姫で、その父が大山祇神(三島神)で伊豆はすぐ側。三島のコソベ氏が垂仁天皇の母の父の大彦命系氏族でアマと隣接しています。山幸彦の妻のトヨタマヒメは丹波系の垂仁天皇皇后と重なり、浦嶋太郎が丹波の話。
してみると、丹波系の在来氏族は阿曇氏(奴国)系ではないか?となってきます。だから新羅王家に食い込んだみたいな。勾玉交易は北部九州も抑えたかった訳で。石上神宮の創建にも阿曇氏は深く関わりそうで、トヨタマヒメ=和邇で、物部氏は企救に進出。神功皇后は阿曇氏の血を引いていたか。
問題は玉依姫で、播磨稲日大郎姫は吉備系ないし和珥氏系(播磨国風土記)です。吉備系在来氏族(吉備海部氏?)か和邇部氏が本来阿曇氏ではないかということになるのですが。だとしたら、皇室そのものも神武東征で本来は阿曇氏系の可能性もあると思います。弥生時代後期開始そのものが奴国ショックの可能性も高い。
九州の信仰は古事記によれば太陽信仰っぽいです。これは皇室が本来九州出身だとすれば、大和の銅鐸信仰を受け継がなかったことと辻褄が合います。ただ、纏向の大和朝廷が九州の征服ではなく、九州の分家の橿原が大和を糾合して、倭国に君臨したということでしょう。新開地=アメリカみたいなもの?
多氏と九州(阿曇氏)の繋がりの深さの謎もこの辺で解けます。ナカの地名の広がりも葦原中国(あしはらのなかつくに)が地上世界であるのも同様に理解できます。ただそもそも北部九州が大和を征服して大和朝廷が成立したとは人の移動の観点から首肯できません。やはりそこは逆(大和→全国)でしょう。
2025年9月22日追記②)柳本古墳群を代表する箸墓を越える大きさの古墳が渋谷向山古墳(景行天皇陵)。景行天皇は鸕鶿草葺不合尊のモデルと考えていますが、皇大神宮儀式帳から、これは鳥居=於上不葦御門(うへふかずのみかど)を表すとも考えられます。景行天皇の母が丹波だからでしょう。
丹波国造は尾張氏(恐らく凡海氏)ですが(海部氏系図)、応神朝以降、海部は阿曇氏で、凡海氏に尾張氏と阿曇氏の二流あるのは恐らく丹波絡みです。本来、凡海氏は尾張氏であったのが、阿曇氏が台頭して、阿曇氏に代表されるようになったと考えられます。忍熊王の乱に与して難波根子傘下になったか。
吾平津媛のモデルの山代之玖々麻毛理比売は隼人の居住地であった(神功皇后と同じ)筒木の可能性が高い。
媛蹈鞴五十鈴媛命が多氏の祖の母であるのは志紀県主が一派にあることと関係しよう。同じく茨田氏の祖が(日本武尊がモデルの)神武天皇の兄弟であるのは、尾張部氏が同族だからでしょう。
2025年9月27日追記)ニニギの母の栲幡千千姫命の父が高皇産霊尊であることは歴史の反映ではありません。崇神天皇の母は物部氏であり、どう考えても高皇産霊尊には繋がらないからです。ニニギの天孫降臨以降が歴史の反映であり、それ以前は天上界の話であって、天上界の主催神の1人が高皇産霊尊というストーリーであって、ニニギの母の父に位置づけられたのでしょう。応神天皇が橿原付近の軽宮で、橿原の神=高木神(高皇産霊尊)を称揚する意図もあったかもしれません。また、物部氏は神武東征以降に従ったというストーリーなので、天孫降臨以前にニニギの母の父になるのは難しいです。こう考えると、記紀は正直に系譜を残しているのであって、崇神天皇の母の父はやはり物部氏なのだろうなと考えざるを得ません。
そう考えると、孝元天皇の母の父は十市県主(記)なのか?となってきますが、日本書紀が異論を載せます。ハッキリ言って、孝元天皇の母以前の系譜は最初の歴史編纂時点で良く分からなかったのでしょう。墓記を持っているような有力氏族の出ではなかったと考えていいと思います。モモソ姫の母はどうやら倭国造(淡路分家)系だと系譜に残っているにも関わらずです。色々考えたのですが、結局孝元天皇(素戔嗚尊)の母は近江だろうということになりました。
それでは開化天皇とは何者なのか?関連情報は既に書きましたが、それを元に解釈すると、若倭彦命神社に関連して、河内国大県郡が本拠だったのではないか?となります。若倭部がいて、出雲国風土記の出雲郡の郡司にも見え、大臣が出雲郡の少領で、どうも志紀県主(多臣)絡みなんですね。倭国造勢力の分家が河内の志紀で、そこを抑える役割を担っていたのが開化天皇で、武埴安彦の母の父の河内青玉繫や吾田媛に倒された可能性があり、その後多氏が志紀に入ったと。
参考記事:豊国の由来と香春神社
2025年12月9日)日本武尊は記紀で日本を統一した位置づけです。これは大和を制した神武天皇のモデルであると言えます。また日本武尊は古事記では景行天皇紀に系譜を乗せ、日本書紀では尊の称号で、天皇に準ずる扱いです。常陸国風土記では倭武天皇ですが、追尊天皇と見ていいでしょう。神武天皇は建国の英雄ですが、古事記では倭建命と表記されます。本当の名前は小碓命だったでしょうけどね。つまり歴史上存在したのは小碓命であって、神武天皇のモデルとなった建国の英雄の日本武尊は一種の諡号で、(吉備の血を引く)モデル(小碓命)は実在していましたが、伝説は多分に尾鰭はついています。しかし実際には怪しいとはいえ、応神天皇の祖父に位置づけられる「初代」ですから、実在はしていたんでしょうし、証言者もいたでしょうから、話の骨子(征西と東征)は創作ではないはずです。
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