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謎の4世紀の後半(古墳時代中期)の朝鮮半島に渡る神功朝の港(百舌鳥古墳群と陶邑窯跡群と民のかまどの謎解き)

恐らく石津(堺市西区/和泉国大鳥郡)だと思います。一番大きい理由は西新町遺跡で古墳時代前期に対外交易していたと思われる出雲在来系のミタミ氏(→民直氏=土師氏流or中臣氏流にどういう訳か交代か)が石津川の支流の和田川上流にいて、美多弥神社(大阪府堺市南区鴨谷台)を奉斎して、渡来系氏族(民首・民使首)を統括していたと考えられるからです(この辺の経緯はXにポストしていますが、いずれ纏めます)。元々難波が古墳時代前期の主要港だったはずですが、大彦命系の土地だったと思われ、神功朝では失脚していたと思われるんですね(恐らく難波根子武振熊が統括)。そして何らかの理由で石津川河口付近を港にしたんだろうと思います。神功皇后に近い日下部氏や大伴氏(高志連・高志壬生連)、中臣氏(大鳥連)、三輪氏、和珥氏(壬生臣)、西文氏(高志連)らもこの辺を根拠地としたようです。

仁徳天皇が百舌鳥を墓域にしたのも祖母の時代の港がここにあり、広い土地があったからでしょう。陶邑窯跡群が営まれたのも同じ理由で、欽明朝に大伴氏がこの辺を根拠地としていたのも、日本武尊伝承の大鳥神社が栄えたのも、ここが外港だったからでしょう。石津神社(×2)は日本最古の戎宮を名乗るようです。菟道稚郎子皇子の師の王仁(わに)後裔の西文氏(高志連)もこの辺にいたらしい(行基の父系)。馬を使うなら、この辺から上陸した方が速かった可能性もあると思います。神武天皇伝説が残るのも、(新羅)関係氏族が外港に関連して来たからかもしれません。

ただ、このことが分かり難くなったのは、応神天皇紀の外港が難波だからです。移転の理由ですが、宇治の菟道稚郎子皇子を後継者に定めたことに拠ると思います。これで得したのが難波の仁徳天皇です。仁徳天皇は菟道稚郎子皇子に皇位を譲り合いの末に譲られたことになっており、後の皇后に皇子の妹を迎えています。民のかまどの話もこの辺を抑えていた仁徳天皇っぽいとも言えます。

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