橿原市の世界遺産構成資産候補の菖蒲池古墳は蘇我入鹿の今来の小陵(双墓の片割れ)か
3月22日ポスト)菖蒲池古墳。世界遺産構成資産候補。国史跡。奈良県橿原市菖蒲町の一辺30mの方墳。石棺内部に漆が塗られた精巧なつくりの家形石棺が2基縦一列に並べられており、他に類例がありません。被葬者ですが、私は皇極天皇/斉明天皇の孫の建皇子と斉明天皇(の初葬地)の古墳ではないかと考えていますが、隣接する埋没古墳だった小山田古墳(高市郡明日香村川原)(72m×80m超の方墳)を蘇我蝦夷の双墓の大陵と見て、菖蒲池古墳を蘇我入鹿の双墓の小陵とする説もあります。また近隣に推古天皇の初葬地(竹田皇子との合葬陵)説のある植山古墳(橿原市五条野町)や五条野宮ヶ原1・2号墳や野口王墓古墳(天武天皇・持統天皇合葬陵)もあり、五条野丸山古墳(欽明天皇・堅塩媛の合葬陵の檜隈大内陵か)も遠くありません。
菖蒲池古墳近辺を古墳築造当時に何と呼んでいたかですが、橿原市によれば、菖蒲町の付近に菖蒲も池も見当たりませんが、古墳が小さな谷に挟まれて存在することから、古代には菖蒲の群落する湿地があった可能性を指摘されているものの、ウィキペディアによれば、菖蒲は万葉集にも登場するアヤメの古名で、聖武天皇の頃から端午の節句で使われたと言い(日本書紀に菖蒲は登場せず)、古墳築造当時に菖蒲の地名があったかは疑問が残ります。五条野は藤原京(新益京)由来でしょうから、残るは川原の地名ですが、斉明天皇が川原宮を営んだことは間違いないにしても、この辺一帯が全部川原と呼ばれていたかは留保せざるを得ません。
それでは他の候補とは何なのか?蘇我蝦夷の双墓がこの辺にあったとすれば今来です。また今城谷は建皇子の殯があった地でもあります。更に欽明天皇紀に倭国今来郡の言として、檜隈邑の川原民直宮が大内丘を渡る良駒を見つけた記事があって、これらは全て近い地名と考えられ、孝徳天皇紀に今来大槻の地名があって、欽明天皇紀の葛城円大臣らの葬地の新漢𣝅本南丘(いまきのあやのつきもとのみなみのおか)と同じと思われ、蘇我蝦夷はそれを意識して双墓を今来に造った可能性が高いです。
孝徳天皇紀の今来大槻は山田寺の西で畝傍山の南方説もあるようですが、軍馬が通れる直線の軍用道路が存在していた確証はなく、甘樫丘から南に迂回していた可能性も高いです。履中天皇即位前紀の逃亡ルート途中の攪食の栗林(かきはみのくるす)=葛城市薑が石上に向かって真っすぐではなく、南に迂回していたことを思い出してもいいでしょう。このあたりが交通の要衝だから、蝦夷は自分の古墳を築造したまであります。なお奈良県吉野郡大淀町今木はこのような条件に当て嵌らないことは明白です。
ここで斉明天皇は何故建皇子の殯を蘇我蝦夷の墓の側でやったかですが、基本的に皇位継承する予定の無かった自分を皇位につけ、夫の舒明天皇を擁立した蘇我蝦夷にポジティブな感情があったと思われます。息子と比べられないにせよ、蝦夷との関係が良好だったから、蝦夷は皇極天皇を擁立したし、中大兄皇子はだから叔父を擁立したし、叔父は言うことを聞かなかったので、言うことを聞く母を再び擁立しましたが、斉明天皇の行動は内心快く思ってなかったと思われ、それが八角墳の牽牛子塚古墳への改葬に繋がっていくのでしょう。
推古天皇と竹田皇子の合葬陵も同様の事情で磯長谷山田に改葬された可能性がありますし、石川麻呂(山田臣)の古墳も磯長谷山田に造られた可能性もあります。
また建皇子の殯を今城谷でやっただけでなく、古墳も付近に築造して合葬陵を自分の陵とした可能性が高いです。比較的小規模の古墳ということを気にするタイプでもなかったのでしょう。
逆に菖蒲山古墳が蘇我入鹿の小陵でないかに関して言えば、その可能性は否定できませんが、埋没古墳だった小山田古墳の近くにまだ小陵が眠っている可能性もあると思いますし、小山田古墳自体が双墓として相応しい古墳である可能性も発掘調査が不十分な現在では否定できないと思います。いずれにせよ、小山田古墳自体は舒明天皇の初葬地の滑谷岡説もありますが、こんな巨大な初葬地は考え難いと思われ、特に根拠のあるもののように思われません。
小旅行記)菖蒲池古墳。世界遺産構成資産候補ですが、未整備な感じです。当地は今来(谷)にあたると考えられ、隣接する(埋没古墳の)小山田古墳を蘇我蝦夷の大陵、菖蒲池古墳を蘇我入鹿の小陵とする説が知られます。もう一つ今城谷には斉明天皇の孫の(天智天皇の子で持統天皇の弟の)建皇子の殯を行った地です。だとしたら、菖蒲池古墳が建皇子の墓の可能性も考えなくてはなりません。小山田古墳が埋没(?)して(姿を消して)、菖蒲池古墳が残っているのは不審もあるからです。だとしたら、皇極天皇が牽牛子塚古墳に葬られる前に仮に埋葬された可能性も無いとは言えません。いずれにせよ、菖蒲池古墳は類例のない精巧な造りの家形石棺2基で知られ、斉明天皇は建皇子を自分の墓に合葬するように言い残しています。
追記)菖蒲池古墳が蘇我入鹿の小陵なのか、健皇子と斉明天皇の初葬地なのかは、蘇我蝦夷の大陵ないし双墓そのものであると思われる小山田古墳と併せて良く調べてみないと分かりませんが、いずれにせよ、この辺が今城谷であることはほぼ確と見ています。時代が一致しており、これだけ格が高い墓はそうないからです。
追記2)(巨勢山古墳群で允恭天皇紀から武内宿禰墓であると見られる室宮山古墳を管轄していたとも考えられる)巨勢氏の本拠地と見られる御所市古瀬の水泥南古墳は(水泥北古墳と併せて)江戸時代の大和志では蘇我蝦夷と入鹿の双墓とされていたようですが、そう大きな古墳ではなく、時代も合わず、妥当ではないと思いますが、仏教と関係の深い豪族と言えば、まず蘇我氏が意識されたのかもしれません。注目すべきは、吉野郡大淀町今木が近いことですが、(皇極天皇/斉明天皇に巨勢臣德太が近かったので)巨勢氏が乙巳の変後に今木の漢人を統括した可能性もあると思います。いずれにせよ、今城谷は蘇我蝦夷/入鹿の双墓が築かれた地であると共に「皇孫建王、年八歲薨。今城谷上、起殯而收。」で斉明天皇(蝦夷と入鹿に擁立された皇極天皇)とかなり関係が深い地です。巨勢臣徳太が(巨勢古墳群で武内宿禰の魂を守ったように)斉明天皇の魂を守る役割を果たしたのであれば、今木の漢人を引き継いだとして自然なように思えます。
追記3)この古墳、行ってみると整備のされなさ感がとても世界遺産構成資産候補とは思えません(見出し写真参照)。手を加えないことが良い信仰があるような気もしますが(それも一理あるんでしょうが)、これでは見に来てほしいんだか、見に来て欲しくないんだが、整備するお金がなくてただ何となくの現状なのか分かりません。ただ橿原市もようやく条例を制定して、世界遺産への指定に備えるようです。
追記4)菖蒲池古墳は建皇子の墓の可能性も十分だと考えます。(今来の)二つの石棺が斉明天皇の遺言を想起するからです(菖蒲池古墳は(巨大方墳の)小山田古墳/双墓を破壊して築造された可能性も考えられ、少なくとも小山田古墳は早くに埋没したようです。菖蒲池古墳が入鹿の小陵なら、何故こちらは残ったかです。石舞台古墳が破壊されていると見られることにも注意です)。にも関わらず、中大兄皇子は遺言を無視して、牽牛子塚古墳を築造したのかもしれません。少なくとも皇極天皇陵に建皇子が合葬されたとの記録がありません。
2026年1月15日追記)菖蒲池古墳は蘇我入鹿の墓・蘇我入鹿と蝦夷が埋葬された墓に比定する人が多いのですが、石舞台古墳や小山田古墳が何故壊されたのかを考えた方がいいと思います。小規模とは言え、丁寧に埋葬するぐらいだったら、最初から墓を壊したりはしないと思いませんか?そして建王の殯を蘇我入鹿蝦夷の墓の同所で行い、一緒に眠る墓は造らなくていいと言った斉明天皇の心理を考えるべきです。
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