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語らう新母~失敗しない面会交流~あえて評価しないチャレンジ

来月セミナーやろう~

って企画もあって、語らう

年明けて、改めて夢膨らむのである

そんな中で、ひらめいたことがあって、けっこう、子育て全般に通用するかもしれないけど

あえて、評価しない

無理やりでも、意識することが継続しより質のよい親子の関係性を開拓する鍵なのではないか、という境地にたどりつく

弁護士として、事件に対応して開拓しているのは、条件面

面会交流をするしない論のする、にまず一歩進め、それから、どのように”する”?のフェーズに移行する

頻度・1回あたりの時間・宿泊付の有無・場所の選択肢・立ち合いの有無…

条件面においても考慮すべき点も多い上、この条件を決定させるのが、親子が別居している住環境、子の年齢、親同士の関係性、親子の関係性…これもまた関係してくる事項は多々あるが、どうやっても条件自体がある程度固定化してしまうことも起こる

条件面を拡充するには、住環境の変容を要し、そのためには働き方を変える必要があるといった諸々の制約を伴ったりもする

いつまでも決まらない状態も問題なので、現時点で可能な条件でいったんは決めるということもあるし、その後に条件を見直すためには、いろいろな周辺状況の変更を必要として、子どもの年齢・発達や成長段階は時間とともに自ずと変わる(良くも悪くもなりうるが)というようなものもあれば、転職転居等自分の努力でできるものできないもの様々ある

理想に向かって可能な限り取り組むのも理想だし、地道に実現することもある一方、なかなか変えにくい状況の場合もあり、決して満足していない条件がしばらく固定してしまうということも起こってしまう

条件が固定した先に

乏しい条件での面会交流しかなく、親子関係が制限的になってしまうことも現実には多々発生していたりする

さらなる条件の改変に向けて努力をし続けてもいいのだけど、しばらくは、その条件下での交流を重ねざるを得ないこともあるだろう

そういう中で、満足していない条件だからといって、ネガティブな評価を下し、親にとっても楽しくない面会交流を続けた先に、親子関係は果たして良質に発展しうるのだろうか

専門外だから慎重にしようとは思うけど、予言の自己成就なる概念を学んだこともあって

こんなんじゃ、いつか親子断絶になるかもしれない、と感じてしまうことが、実際そういう未来を呼び寄せてしまいかねないのではないか、との仮説を抱いてしまう

交代監護が常に理想的であるというわけではない

やっぱりそれなりに制約や負担もある中で、条件が許す場合には、子の最善の利益に沿う選択肢として交代監護体制が位置づくことがある、というものであって、共同監護の体制は、固定的ではなく幅広く多様なものと考える

そういう中で、単に、交流時間が多ければよいといいたいわけではない一方で、まあ多くできることが可能なら多くあるといいとは思いつつ、仮に、月に1回などの機会であったとしても、じゃあそれがダメな親子交流なのか、と決め付けてよいとも限らない

身近なところで、想像するしかないけども、月に1回の日帰りだって、気合をいれて、その子のために専念して愛情を注ぐ時間を作ることで、質的には十分良好といえる交流が実現することができることもあるし、そういう積み重ねによって、一生ものになる強い親子の関係を築くことも不可能ではない

理想的な親子関係なるものがイメージとしてあるのかもしれないが、実際、離婚もせず同居親であり続け、比較的一緒にいる時間の多い方の親だったとしても、けっこう冷めた親子関係(たとえば、会話がない、など)になることもある

まあそれでも十分甘えがあり愛情のある環境ではあるけども、常にキラキラあったかくほほえましいとも言えないわけだ

3児の母的な眼差しがあるかもしれない私だって、意外に趣味や仕事にで子どもたちと離れて過ごすこともある分、これがかえって、愛情いっぱいの関係性になってくれている気もする

ママ大好きと言ってくれる関係性が維持されるのも、常に一緒にいて、ガミガミいう存在になっていないからこそ、なところがある

つまり、希望する交流時間と比較したときの不満足があっても、現にその条件で交流するしかない状況で、より良好な交流を実現するための工夫次第で、単に不十分な交流時間であってもその後に展開する意義も変わってくるのではないか、という仮説である

やっとこさようやくの交流だからこそ、1000%理想的な時間であって欲しいという期待もあるのかもしれないが、子ども相手にそうはいかない

再会して駆け寄ってギューッと抱き合う、ばっかりでもなく、もう限られた時間しかないというのに、まずはほぐす時間を要したり(つまり、親子関係が安定して確立すると、どんなに離れた時間があってもすぐに自然に打ち解けられるともいえる)

結局、交流を重ねていくこと自体が大切で、頻度や時間も重要ではあるけども、その条件拡充自体が制度上難解であるという課題があるとして、制限された土俵内で最大限のパフォーマンスを発揮するのは、別のミッションということになる

限られた中で何にフォーカスするのか

諸々の制約はあり、それ自体への不満とか課題とか制度の欠陥なんか実際あって、正しい評価なのかもしれない

でも、限られた中で、正しく評価することが、実は正解とは限らないわけだ

全力でおやこの時間を楽しむ

子どものおかれた環境自体複雑で、不憫といえば不憫である

両親の離婚や別居をした子全般に共通していいうるだろう

離れてくれてほっとしたよ、と肯定的に語るようなケースでさえ、やっぱり不憫である

そんな不憫な状況で、けなげに親の理想的なふるまいだけをする、なんてことは奇跡に近い

だいたいは悪態とか人見知りとか、試し行動とか、反抗期なのか思春期なのか、発達障害なのか、名前をつけるのは自由だけど、こんなはずじゃなかったのに、といったような時間になってしまうことだって起こりうる

そんな状況を嘆いて解決するならばそれはまた理想的だが、現実はそうはいかない

人生という長い長い時間をかけて向き合うべき宿題をつきつけられるだけで、瞬時には解決しえない重い課題として突きつけられるようなことだって起こるわけである

それでいて、親の方も常に正しいリアクションができるとも限らない

悲しいときは悲しいし、つらいこともある

戸惑ってとっさのリアクションがまた、親子関係にとってプラスにならないこともある

でも、そうやって揉まれていくのも、それこそ親子なのかもしれないけど…

せっかくの宿泊交流が実現して、長時間の交流を経験したはいいが、それまでの日帰りのような短い交流時間中には見たことのなかった悪態に直面して、親の方がショックを受けてしまうことだってある

一緒にいて楽しい、その分お互いに疲れることもある、というのも、誰しもありうることである(仲のよいいとこ同士のハイテンションもすぎると、ちょっと休憩を必要としたことなんかを思い出す)

ずーーーっと同居し続ける親子にだっていろいろなことが起こる

ウソをつかれた、ごまかされた、だんまりをされた・・・

いちいち感情が荒れていたこともあるけども、あるとき、人並みに親らしい経験をさせてもらったのだと気付けたときもあった

まだまだやらかすこともあるけども、だいたいは直に成長しているところを横目に確認できてよかったり

親子の向き合い方は真正面ばかりに限らず、何か別のものに夢中になっている横顔を横目に見たり、同じ方向を一緒に見て感じるだけということもあったり

悲しく辛い気持ちになってもいい

親だって人間だもの、感情をもっているのだから、我慢をするものでもない

とはいえ、不満足ながら獲得した条件内の交流を悲しみに染めていいのか。。。

子どもは未熟だし素直だし、ありのままの感情に流されていくことも起こる

大人だからこそ、ちょっと無理してコントロールすることも不可能ではない

子どもに甘えない

やっぱり、まきコーチから教わってきたことも多々あり、推しである

父母同士といっても、別れた相手、自分フィルター超しになると、どうやったって美化しようがない・・・もはや、そこは無理できない

でも、まさに、子ども目線で、子どもの中にある相手親像を見つめる努力をしてみると、意外に憎めなかったりする

子どもは直だから、つい、親のフィルターに影響を受けたリアクションをすることもあるかもしれないことは、私も反省だらけの子育ての中で思い返す

パパに会わなくていい、と言ったのは、
私が言わせてたね


今は忘れたというので救われている

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弁護士古賀礼子 親子に優しい世界に向かって,日々発信しています☆ サポートいただけると励みになります!!いただいたサポートは,恩送りとして,さらに強化した知恵と工夫のお届けに役立たせていただきます!