伝わらなくていい、あなたのおかげだよ
1年前。
書きこまれたメモを前にして私は唸っていた。
「過去のストーリーは削れない。でもなぁ……」
電子書籍の構成を作っていた。
「がんばるママが自己否定せずにラクに過ごせる方法」
そんなテーマで書こうとしていた。
だからこそ、自己否定のはじまりを避けては通れない。
私が思い浮かべたのは遠ざかる母の手だったから。
とはいえ、私が書いた作品を読み母が傷つくのは望んでいなかった。
母がわからないように過去のエピソードを入れる方法はないか、ChatGPTに相談した。
「フィクションにするのはどう?」
何それ、すごくいい。
フィクションに舵をきると、書きたいことがどんどん形になっていく。
これなら母に堂々と「読んでね」と言える。
葛藤から抜け出した高揚感でキーボードを打つ手も軽やか。
そんなときだった。
――本当は母に知ってほしかったんじゃないの?
声。若い時の私のようだ。
今より長い茶髪がキラキラ光った気がした。
「分かってもらえたらいいだろうね。母の状況を理解してまで自分を納得させようとしたこともあるし。でも、今は……」
茶髪さんの目がくもっていく。
――なんで傷ついた側が気を遣うの? くやしくない?
キーボードを打つ手が止まる。
「……くやしいよ」
――それならぶつけたらいいじゃない……!
張りつめた空気を感じながら、私はデスク脇のトトロのぬいぐるみを見つめた。
「私が望むような和解はできない。母に罪の意識ははないからさ。分かり合うことにもう執着したくないんだ」
茶髪さんは怪訝そうに言った。
――理解してほしかったんじゃないの?
初代トトロをくれた日の母の手はやさしかった。
この子はもう何代目だろう。
「母と気持ちが行き違うたびに一喜一憂したくない。私と母はうまくいかなかったけど、母を否定しなくてもいいんじゃないかと思って」
――ふーん……
ぶっきらぼうに言い放ち昔の私は消えた。
まったく納得していない素振り。
けれど彼女がいた場所には確かな温かさがあった。
私はフッと顔を緩め、再びキーボードに手を伸ばした。

1年後、一稿目がようやく完成。
チェックをしてくれた校正さんから感想をもらった。
「仕事に理解がないあかりの母親の言葉がリアルで……」
フィクションにしたおかげで、登場人物のワーママあかりも、繊細ママの麻衣も自分の経験にしばられずに書けた。母親も振り切って表現できた気がする。
とくにあの言葉。
「仕事ばっかりして可哀想、もっと子どものこと考えたら?」
書きながら胸がギュッと痛んだ。
――母親ってどうして子どもも悩んでいるとは思わないのかな。「可哀想」って言葉で追いつめることもあるのに。
久しぶりの茶髪さん。タイムラグなどなかったように怒っている。
なだめるように、私は顔を上げた。
「この母親なら『なんで私が気にしなきゃいけないの? 可哀想なのは事実!』って言いそうだね」
茶髪さんは顔をしかめた。怒りよりも悲しみが強いようだ。
「わかるよ。どうしようもない感情を誰かに、できれば母に理解してもらいたいんだよね。理屈抜きで。だから可哀想って言われると苦しいよね」
母に育ててもらって感謝している。
だけど母に「抱っこして」と手を広げられなかった私がいたのも事実だった。
――私はまだ許せない。
湿った声につられそうになった。
「それでいいんだよ。あなたが苦しんだおかげで、私はがんばらなくてもいいって思えたんだから。私はあなたに一番感謝してる」
茶髪さんは照れと戸惑いで慌ただしく姿を消してしまった。
母と私の線は今や遠く離れてしまった。
でも、ゆるやかに伸びた線がどこかで交わる日が来るかもしれない。
それを「あい」だと思う日も、もしかしたら……。
「でも、その日を待ちはしないよ」
茶髪さんに話しかけるようにぽつりとつぶやき、私は再びパソコンに向かった。
しーなさんがこの記事を朗読してくれました!
命が宿りますので、ぜひお聞きください!
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