長崎原爆の日――終わることのない「長い一日」
八月九日、長崎原爆の日を迎えた。
原子爆弾によって命を奪われた方々に、心より哀悼の意を表したい。
広島への原爆投下から三日後、終戦の六日前――長崎について語るとき、私たちはつい、このような言い方をしてしまう。
もちろん、歴史の流れを確認するうえでは間違いではない。しかし、その言い方だけでは、長崎が広島と終戦の間に置かれた一つの出来事になってしまう。八月九日は、広島の「三日後」でも、終戦の「六日前」でもない。長崎で暮らしていた人々の日常と人生が、一発の原子爆弾によって奪われた日である。
長崎には、長崎固有の被害と記憶がある。それを一つの独立した歴史として、私たちは見つめなければならない。
国家にとっての長い一日、人々にとっての長い一日
『日本のいちばん長い日』でも原爆投下されたってことを語られる部分があるにはあるが描かれるのは、主として国家中枢にいた人々の一日である。
降伏を受け入れるのか、戦争を継続するのか。御前会議、ご聖断、玉音放送をめぐる混乱には、確かに歴史的な重みと劇的な緊張がある。
しかし、落ち着いて考えてみれば、そこに描かれる「長い一日」は、政治や軍の意思決定に関わった者たちの一日である。その物語の外側には、何の決定にも加わることなく、何が起きるのかさえ知らされないまま命を奪われた人々がいる。
昭和二十年八月九日の長崎にも、いつもと変わらない日常があった。働く人がいた。学校へ行く子どもがいた。家族の食事を用意する人がいた。教会で祈る人もいた。その日常の上に、何の筋書きもなく原子爆弾が投下された。
閃光を見た次の瞬間、自分の身に何が起きたのかも、なぜ命を奪われなければならないのかも分からないまま、人生を断ち切られた人がいる。
その人々にとってこそ、八月九日は「日本のいちばん長い日」だったのではないだろうか。
しかも、生き残った人々にとって、その日は八月九日のうちに終わらなかった。火傷や負傷、放射線障害、家族を失った悲しみ、自分だけが生き残ったことへの苦悩。その後も原爆症への不安を抱え、結婚や就職をめぐる偏見や差別に苦しめられた人々がいた。
暦の上では一日が終わっても、被爆者にとって原爆は終わらなかった。
命を奪われた方々には、なぜ自分が死ななければならなかったのかを問う時間すら与えられなかった。残された私たちは、その答えのない理不尽を引き受け、考え続けなければならない。
爆心地公園で感じた重さ
私は以前、長崎の爆心地公園を訪れたことがある。
霊能力があるわけではない。それでも、あの場所に立ったとき、思わず「うっ」と声が出るほどの重たい空気を感じたことを、今も覚えている。
広島の平和記念公園は、多くの人が行き交い、市民の憩いの場でもあるように感じた。一方、長崎には平和公園と爆心地公園が別々に存在する。空間の構造や人の往来、平時にどのように使われているかという違いが、私の感覚に影響しただけなのかもしれない。
だから、長崎と広島を比較して、どちらの悲しみが重いなどと言いたいのではない。感じ方の理由を理屈で説明し切ることもできない。
ただ、爆心地に立った私の身体が受け取った重さだけは、否定することができない。あの場所には、今なお日常へ完全には回収されていない何かがある。そのように感じた。
浦上天主堂が語るはずだったもの
長崎への原爆投下を考えるとき、浦上天主堂のことを避けては通れない。
アメリカが浦上天主堂を標的として原爆を投下したわけではない。当日の第一目標は小倉であり、長崎は第二目標だった。それでも、結果として、キリスト教国を自認するアメリカが投下した原爆は、長い迫害に耐えて信仰を守ってきた浦上のカトリック共同体を壊滅させ、その中心であった浦上天主堂を廃墟にした。
これは動かし難い歴史的事実である。
欧米のキリスト教社会は、この事実をどれほど知っているのだろうか。
占領期には、広島・長崎の原爆被害そのものに報道統制が敷かれた。被爆者の身体に何が起き、どのような苦しみが続いたのかが、十分に伝えられなかった。その統制の中で、キリスト教国によって投下された原爆が、カトリック信徒の共同体と大聖堂を破壊したという事実もまた、世界へ広く伝わる機会を失ったのではないだろうか。
キリスト教社会からの非難を避けるため、アメリカが浦上天主堂の被害を意図的に隠したと断定できる史料を、私は確認できていない。だから、そこまでを事実として書くつもりはない。
しかし、原爆被害全般に対する報道統制があり、その結果として浦上で何が破壊され、どのような人々が命を奪われたのかも伝わりにくくなったのではないか。この疑問まで封じる必要はないと思う。
国際社会へ訴えるのであれば、長崎はもっと明確に語ってよい。
長い迫害を耐え抜いたキリスト教徒が築いた教会のすぐそばで、原爆は炸裂した。その原爆を投下したのは、キリスト教国を自認するアメリカだった、と。
これは教会を狙ったという主張でも、宗教を利用した宣伝でもない。原爆が実際に何を破壊し、誰の命を奪ったのかを示すことである。
戦後にも失われた証言者
さらに重いのは、浦上天主堂の廃墟が戦後も守られなかったことである。
廃墟の保存を求める声があり、長崎市議会も保存を決議していた。市長自身も当初は保存に前向きだったとされる。それにもかかわらず、市長が姉妹都市となったアメリカのセントポール市を訪問した後、姿勢は撤去へと変わり、昭和三十三年、廃墟の大部分は取り壊された。
アメリカ政府が撤去を命じたと断定できる史料は、少なくとも私は確認できていない。市長の方針転換には、教会側の再建への思い、復興を急ぐ当時の社会、姉妹都市との関係など、複数の事情があったのだろう。
それでも、保存を求める意思が示されていたにもかかわらず、訪米後に方針が変わり、廃墟が撤去されたという経過を前に、アメリカとの関係が何の影響も与えなかったと考えることも、私には難しい。
原爆によって浦上天主堂を破壊したのはアメリカである。戦後、その廃墟の撤去を決めたのは長崎市である。しかし、その決定に至る過程には、アメリカとの関係を抜きにしては理解し難い空白が残っている。
もし浦上天主堂の廃墟が残されていたなら、広島の原爆ドームとは異なる形で、世界へ極めて強い問いを発し続けただろう。
十字架を掲げた大聖堂の廃墟は、この兵器が軍事施設だけを破壊したのではなく、市民を殺し、祈る人々を殺し、信仰の象徴までも破壊したことを、言葉を超えて示したはずである。とりわけ欧米のキリスト教社会に対し、原爆投下を本当に正当化できるのかと問い続ける証言者になったはずだ。
原爆は建物を破壊した。そして戦後、政治的なものを感じさせる力の中で、その破壊された姿までも風景から消えた。
長崎は、原爆投下によって一度踏みにじられ、その後、被害を無言で語るはずだった証言者まで失った。これは、単なる文化財保存の失敗ではない。長崎が被った「二重の喪失」として捉えるべきではないだろうか。
慰霊とともに、守れなかったことを詫びる日
長崎は、広島より小さく扱ってよい場所ではない。
参加国の数を競いたいわけではない。報道時間の長さだけで追悼の深さを測れるとも思わない。それでも、広島から三日が過ぎると、全国的な関心まで一段落したように見えることがある。長崎が「二発目の原爆」「終戦直前の出来事」として、国家の終戦物語の中へ回収されているのではないかと思うことがある。
しかし、長崎では、原爆によって人々の命と暮らしが奪われただけではない。戦後も被害の実相を伝える機会が抑えられ、さらに浦上天主堂という決定的な証言者まで失われた。
だからこそ、長崎原爆の日には、犠牲になられた方々を慰霊するとともに、戦後の私たちが何を守れなかったのかも語るべきではないか。
私たちは、原爆によって命を奪われた方々を守ることができなかった。
そして戦後も、その被害を伝える浦上天主堂の廃墟を守ることができなかった。
保存を求める声がありながら、なぜ失われたのか。その経緯を十分に明らかにし、後世へ伝える責任を果たしてきたのか。私たちは、その問いに今なお十分な答えを出せていない。
浦上天主堂の廃墟は、慰霊のためにも必要不可欠なものだったのではないか。原爆が何を破壊し、そこで誰が生き、誰が命を奪われたのかを、言葉を超えて後世へ伝える証言者だったからである。それを守れなかったという事実は、長崎にとってあまりにも重い。忘れてはならず、後世へ語らなければならないことである。
これは、現在を生きる私たちが過去のすべての責任を形式的に背負うという話ではない。慰霊のために守るべきだったものを守れなかった事実を認め、その失敗から目を背けず、記憶を継承する責任を引き受けるということである。
占領期には原爆被害への報道統制が敷かれ、戦後には浦上天主堂の廃墟が失われた。そこには、原爆が人間に何をしたのかを直視させまいとする何らかの力が、時代や形を変えながら働いてきたのではないかという疑いが残る。その正体や意図のすべてを断定することはできない。しかし、被害の実相が伝わりにくくされ、決定的な証言者が失われたという結果まで否定することはできない。
だからこそ私たちは、慰霊を行い、記憶を継承し、語り継がなければならない。単に過去を記録するためではない。命を奪われた方々を忘却の中でもう一度失わないためである。守れなかった廃墟に代わり、残された者の記憶と言葉によって、そこに生きていた人々の存在と原爆被害の実相を伝え続ける。それもまた、慰霊の一つの形なのだと思う。
毎年の慰霊とともに、守るべき記憶を守れなかったことを詫びる。そして、二度と同じように証言を失わせないと誓う。そのような日であってよいと思う。
八月九日を通過点にしない
追悼式典の主役は、政治家ではない。参加国数でも、式辞の言葉選びをめぐる駆け引きでもない。
主役は、その日まで長崎で生き、何の理由も知らされないまま命を奪われた方々であり、その後も長く苦しみを背負わされた被爆者の方々である。
この日、政治を主役にしてはならない。政治家の言葉や現在の政策を論じることによって、犠牲者を再び背景へ追いやってはならない。ただし、浦上天主堂の廃墟を守れなかった経緯だけは、慰霊と切り離すことができない。それは政治批評の材料ではなく、守るべき記憶を守れなかったという、長崎の慰霊そのものに関わる戦後の事実だからである。
八月九日は、広島から終戦へ向かう途中の日ではない。
この日に終わったことは、何もなかった。
日常を奪われた人々にとっては、理不尽な苦しみが始まった日である。そして私たちにとっては、その苦しみと、戦後にも失われた記憶を引き受け、考え続ける責任が始まった日である。
長崎を小さく扱うことは、二度目の原爆投下地を軽く扱うだけではない。戦後にも失われたものを、さらに忘却の中へ追いやることである。
八月九日午前十一時二分。
今年も黙祷を捧げたい。
原爆によって命を奪われたすべての方々に。
その後も苦しみを背負い続けたすべての方々に。
そして、守るべき記憶を守れなかったことを詫びながら、残された証言を二度と失わせないことを誓いたい。
