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「ピアノが苦手」は許されるのに、「勉強が苦手」はなぜ許されないのか

「ピアノが苦手」と言えば、「まぁ向き不向きあるよね」で済みます。
「運動が苦手」と言えば、「得意不得意あるからね」で終わります。
「絵を描くのが苦手」と言えば、「才能だよね」と納得してもらえます。

では、「勉強が苦手」と言ったらどうなるか。

「努力が足りない」「怠けているだけだ」「やればできるのにやらないだけ」。
なぜ、勉強だけがこう言われなければならないのでしょうか。

ピアノにも、運動にも、絵にも、努力だけでは片づけられない限界というものがあることは、多くの人が理解しています。

どれだけ練習しても、ショパンのバラードを弾きこなせない人はいます。どれだけ走り込んでも、100メートルを11秒台で走れない人はいます。どれだけデッサンを重ねても、写実的な人物画を描けない人はいます。

それを「努力不足だ」と責める人はほとんどいません。
「向いていないんだな」「得意な人は別の何かが違うんだな」と、自然に受け入れられています。

しかし、勉強になった途端「怠慢」だと言われるんですよね。
たまたま苦手なことの中に「勉強」があっただけなのに、なぜそれだけが「努力不足」「怠慢」として処理されてしまうのか。

私は昔塾講師をしていました。
少なくとも私の観測範囲ですが、勉強の得意不得意にも明確な個人差があります。

一生懸命ノートを取り、毎日復習し、テスト前には何時間も机に向かっているのに、平均点に届かない子がいます。
一方で、授業中にぼんやりしていて、家でもたいして勉強していないのに、テストではいつも上位にいる子もいます。

優秀な子は見えないところで常にやっているというのはその通りだと思いますが、ただ、勉強ができない子が「怠惰」だからできないと片付けてしまうのはさすがにかわいそうな気がするわけです。
だって、あの子頑張ってるか頑張ってないかで言うと、私が見る範囲では頑張ってますもん。

これは、ピアノや運動や絵と何が違うのでしょうか。何も違わないはずです。にもかかわらず、勉強ができない子だけが「努力が足りない」と言われるのはちょっと酷だと思ったりするわけです。

この非対称性はどこから来るのか。
おそらく、「勉強は努力すれば誰でもできる」という信仰が、日本の社会に深く根づいているからだと思います。

ピアノは才能の世界。スポーツは身体能力の世界。絵は感性の世界。これらは「特別な能力」として認識されているため、できなくても責められません。

しかし勉強は「基礎的な能力」として扱われています。
読み書きの延長であり、やればやった分だけ伸びるもの。つまり、できないのは「やっていない」からだ、と。

この前提が間違っているとは言い切れません。
確かに、勉強はピアノやスポーツに比べて、努力による伸びしろが大きい分野ではあるかもしれません。しかし「努力すれば誰でもできる」というのは、明らかに言い過ぎです。

ここで個人的に不思議、というか興味深いのは、「勉強は頑張ればできる」と主張する人の多くが、大して勉強ができなかったりすることです。

そもそも「頑張れば全員平均点が取れる」とすら理解して良そうです。実に勉強が出来なそうですよね。

「頑張れば平均点は取れる」と言う人に、では東大には行けたんですか?これから勉強すれば行けますかと聞いてみたいです。
「勉強は努力で何とかなる」と言う人に、では司法試験に受かりますかと聞いてみたいわけです。

おそらく、「それは別の話だ」と返ってくるでしょう。それかそれっぽい言い訳を並べるでしょう。

しかし、何が違うのでしょうか。

「頑張ればできる」のであれば、どこまでも頑張ればどこまでもできるはずです。平均点が取れるなら、もっと頑張れば上位に入れるはずだし、もっともっと頑張れば東大にも受かるはずです。

「いや、東大はさすがに才能がないと無理だ」と思うのであれば、それはつまり、勉強にも才能の壁があることを認めているということですよね。
その壁がどこにあるかは人によって違うという話じゃないですか。ある人にとっては東大が壁であり、ある人にとっては平均点が壁なのです。

壁の位置が違うだけで、「努力では超えられない限界がある」という構造は同じです。

そもそも、「頑張れば平均点が取れる」という主張自体が、よく考えると意味不明です。

平均点とは何か。
全員の点数を足して、人数で割った数字です。つまり、平均点とは「全員の成績によって決まる値」であり、必ず半数近くの人間がその下に位置する仕組みになっています。

全員が頑張って成績が上がったら、平均点も上がります。平均点が上がれば、また半数近くの人間が平均点以下になります。全員が平均点を超えることは、数学的に不可能なのです。

「頑張れば平均点が取れる」と言う人は、おそらくこの構造を理解していません。全員が頑張った世界でも、必ず誰かが平均以下になる。頑張ったかどうかに関係なく、相対的に下位になる人間は必ず存在する。これは努力や怠慢の問題ではなく、算数の問題です。

では、勉強すれば「できる」の「できる」とは何を指しているのか。
平均点を取ること? しかし全員は取れません。赤点を回避すること? テストの内容を理解すること? 言っている本人もたぶん定義できていないでしょう。定義できないものを「できる」と言い切っている時点で、その主張は何の根拠もないのです。

凄い嫌な言い方をするのですが、「勉強は頑張ればできる」と言う人たちは「頑張って勉強したのにその程度しか勉強できないの?」と思ったりもします。

努力は報われるべきだし、頑張っている人を応援したい。勉強ができないと将来の選択肢が狭まるから、なんとかさせてあげたい。そういう善意から出ている言葉であることも多いでしょう。

しかし、善意であっても、事実に反していれば害になります。

努力しているのに結果が出ない子に「努力が足りない」と言うことは、善意ではなく暴力です。その子は、自分なりに精一杯やっているのかもしれないわけです。その「精一杯」が平均点に届かないだけかもしれない。

ピアノが弾けない子に「練習が足りない」と言い続けたら、その子はピアノが嫌いになるでしょう。同じことが、勉強でも起きているわけですね。

勉強ができることはやっぱり一つの能力だと思います。
ピアノが弾けること、速く走れること、上手に絵が描けることと同じ、数ある能力の一つにすぎません。

たまたまそれが得意だった人は幸運だし、たまたまそれが苦手だった人は、別の得意なことを探せばいい。本来はそれだけの話のはずです。

なのに、勉強だけが特別扱いされて、できない人が「怠けている」と断じられるというこの社会の歪みに、もう少し自覚的であってもいいのではないかと思います。

そして、「勉強は頑張ればできる」と主張するのであれば、まずは自分が東大でもオックスフォード大学でもマサチューセッツ工科大学でも何でもいいですが、そういったところに受かるところを見せてからにしてほしい。それが無理だと思うなら、あなたにもちゃんと「限界」はあるのです。

「頑張ればできる」と言いたくなる気持ちはわかります。
ただ、それは「自分と同じくらいなら」できるとマウントを取りたいだけなのかなぁと思います。

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