くらげと、褐色オリーブグリーン〜ぬか床と私〜1/3話(創作短編)
ストーリー/
なんとなく生きる私の家に、ぬか床がきた。
合わない仕事へのストレス、怖い上司。彼氏とのお別れ。冴えない毎日を送る私。やることもなく、ぬか床を世話をするうちに、ぬか床と気持ちが通じ合う。
私の感覚が崩れ始め、再生して、ズレていた日常が噛み合っていきます。
本編/
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9時ジャスト。今日もコールセンターの電話が一斉に鳴り始める。
先日、部署異動をした。前の部署でしつこいお客に捕まり、モタモタと対応を長引かせる事態を度々起こしたからだ。私は仕事ができない。社会人10年目、残念だが、認めている。
新しい上司はマッチ箱のように四角いおじさんで、短く燃えるように怒る。目つきが怖い。しゃべっても怖い。
着信通知のサインが出るたびに、簡単なお問い合わせでありますようにと念じて、通話を開始する。そして、張り詰めたまま、17時を迎える。
身をすり減らし、重い足取りで家路に着き、
チェーン店の居酒屋でレモンサワーを一杯ひっかけた。
あーぁ…特に資格もないし、転職面倒だし、有給残ってないし。
うなだれて、カットレモンにまわりで遊んでいる炭酸の泡を数えた。
帰ると、丸く茶色いものが玄関のドアの前に鎮座していた。
一瞬、犬が丸まっているのかと思った。
こげ色の釉薬が光に反射し、ツヤツヤしている。
上部につまみが付いた蓋がある。
甕だ。繰り返し触られてきたつまみの色が、長年使い込まれてきた代物とわかった。置き忘れではなく、はっきりと“ここに置く“という意思が見えた。
心当たりがあった。
友達が、1ヶ月ほど海外旅行に行くから、何か預かってほしいと言っていた。そろそろだった気がする。
なんせ酔っていたので、記憶は曖昧だが、毎日できるか不安に思ったことは覚えている。
「これか…」
甕の緩やかにカーブした胴に手を回し、持ち上げてみた。バスケットボールを抱えた感覚とちょうど同じで、ふわりと発酵臭がした。
部屋に持ち込み、甕のフタを開けた。ぬか床だ。初めて本物を見た。酸味を帯びた土っぽい香りが、鼻を刺激する。
「うっ…確か、毎日混ぜないと腐っちゃうんだよね」
今日は混ぜたのだろうか?
電話をかけてみるが、応答がない。すでにベッドの中か、雲の中か。
「ぬか床の混ぜ方」を検索した。
“石けんで手をよく洗い、よく拭く。水分は雑菌の元。“
桃のハンドソープでいいのか?手をよく洗い、桃の香りがなくなるまで濯ぎ、タオルで入念に水分を拭き取った。
“全体をそこから持ち上げるように混ぜる“
甕の底に手を差し込んだ。
ざらりとした感触に手が沈んでいく。ぬか床の匂いが濃く、鼻腔を刺した。
“野菜のまわりも万遍なく混ぜる“
野菜を傷つけないように、指先を使いながら小さくぬかを混ぜた。
きゅうりが顔を出した。肌は褐色っぽい深緑色。スーパーのものとは別人で、しなびたというより、歳をとった感じだ。
“その日の手触りで、ぬかの機嫌を感じる“
いやいや、知らないよ。わからないよ。ぬか床だよ。
やめ時が分からず、全体が混ぜ終わったあたりで手を抜いた。水で洗い流しても独特な発酵臭がする。明日も臭うのではないかと不安になる。
1DKの1畳程のキッチンの隅に、甕を押し込んだ。もう!と、さらにもう一押しする。
疲れてるのに、これ以上どうしろって言うのと、腹が立った。安請け合いしたのは自分だったので、なおさら腹が立った。
私に、これを毎日続けられるのだろうか?
クラゲみたいなヤツだよな。
「ぷしゅ」
と、甕から息づかいが聞こえた。
続く
