渡邉雅子 『論理的思考とは何か』
まさに目からうろこの素晴らしい本でした。
この本は、私たち人類が「論理的」と考えるのには、4つの型があって、それらの型はそれぞれの社会・文化が、主にその人間形成において重視している4つの領域(経済・政治・法律・社会)に対応しているとするものです。
そしてそれら4つの例として、経済=アメリカ、政治=フランス、法律=イラン、社会=日本 をあげ、それぞれの国の初中等教育における作文指導や大学入学試験で教えられる型を分析して、それらの型がその国におけるどのような人材や思考の要請とつながっているかを説明しています。
より具体的に言うと、アメリカでは、(特にアメリカが大きな影響力をふるう分野で)論文を書く上でのグローバルスタンダードとなっている書き方が、子どもの頃からたたきこまれます。
それは、まず自分の主張を行い、次にその根拠が示される。そしてもう一度その主張を繰り返すというような構造です。もっとも効率よく、自分の伝えたいことを相手に伝える方式になっています。
一方フランスでは、主体性を持った個人が互いに議論を積み重ねて、より正しいものをみなで納得して見つけていくための議論につながるような作文が求められるため、ヘーゲルの弁証法に対応した「正反合」の流れが重視されます。そこでは、現在、世の中で一般的な考え方(正)に対して、それは必ずしも正しくないのではないかという反論(反)がぶつけられ、そこからしかるべく落としどころが見つけられる(合)というものです。
このように自分の中で議論を深めていくことで、いわゆる批判的精神を身につけた個人を社会に送り出していくことが求められます。
フランスでこのような教育が重視されているのは、フランスにおける民主主義の伝統が、しかるべき政治の方法論として、こうした教育につながっているのです。
三番目に彼女がとりあげるのは、イランの作文指導です。宗教国家イランでは、正しさの源泉は第一に宗教的指導者の教えにあり、またそれを補うものとして、語り継がれてきた詩や故事成語などがあります。イランの作文では、人々が日常の中で経験する様々な事柄が、こうした正しい真実にいかにつながっていくかを、文学的な表現で「暗示する」ことが求められることになります。
大学入試においては論述が求められることは原則ありませんが、その代わり、こうした知的世界を覆う比喩の体系をしっかり頭に入れて、反射神経のように正しい選択肢を選び出す訓練が必要とされます。その前提にあるのは、口承で伝えられる知識を即興で正しく応用する技術の伝統です。このような知的伝統を担うことができているかが、大学入試では試されるわけです。
彼女はこういったイランの知識人の在り方を、法が司る世界において、人がそれを解釈し当てはめるやり方として捉えています。
最後が日本の感想文です。いろいろな感想文がありますが、典型的なのは読書感想文でしょう。読書感想文の基本的なかたちは、まず本の概要を説明した上で、次にその本に関連する自分の経験を語り、最後にこの本を読んだことでいかに自分が成長したかを語るというのが一般的です。
国語の授業においても、登場人物の心情を、クラスの参加者がそれぞれに読み解いた上で、それを「どう感じたか」を互いに発表し合うという形がとられます。日本の社会はこうした他者への共感を育てていくことで成り立っており、その一つのかたちが読書感想文を書いて、読むことだということです。
さて、これが主な渡邉の主張なんですが、まず各国の作文教育における語りの型をこのように整理した上で、そうした教育がそれぞれの社会にどのような影響を与えているかを論じている点が素晴らしかったです。
論点
ただ、4つの国の作文教育の在り方を、次のような図式でまとめているのには納得いきませんでした。

この図式を彼女は渡邉康雄の「多元構造対立モデル」から借りているそうです。
そもそもこれら4つの国それぞれにも、経済・政治・法・社会という領域があるはずで、たとえば日本においても、経済的な領域では経済的な考えにのっとった「論理的思考」があり、政治的な領域では政治的な考えに則った「論理的な思考」があるのかという話になってしまうと思います。
実際にはそのようなものはないわけです。
また、たまたま調べた4つの国が、ちょうどこの4つの象限に対応しているというのもなかなか考えにくい話です。
むしろ、それぞれの国の文化や社会のあり様と、これらの作文指導や人材育成が関連していると考えた方が良いように思います。
渡邉康雄の図式に関する、著者渡邉雅子の説明をより詳しく見ていきたいと思います。
まず経済から。経済はこの図式において、「主観的/形式合理性」の側にあります。
この合理性について、著者はBrubaker1983を参照しつつ、「手段の絶対的に客観的な正しさは評価できないため、経済的判断における選択は主観的にならざるをえない」としています。
これはおかしいです。
経済的合理性というものは、自由競争市場における淘汰を経ることによって保証されるものです。ある会社の経営上の判断が正しかったかどうかは、結果的にその判断によって利益を得ることができたかによります。結果がすべてであって、これは客観的な判断が可能です。
また、経済的な合理性の一つのかたちである、経済学においては、その合理性は数学的モデルによって保証されるものです。そこでは情報がないことも含めて人々の行動は数学的モデルによって評価されうるものです。
また経済学においては、基本的に貨幣の価値は誰にとっても等価であるという原則を用いることによって、主観的な価値を排除しています。かろうじて個々の消費者の行動においては、個々の選好が問題になりますが、企業の行動としてみるなら、結局利益になるかならないかだけが問題です。こうした性格があるから、目的の中身に関しては無関心であって、その目的に対してもっとも合理的な手段が選択できるという「形式的な合理性」を重視することになるはずです。
ですから、このような合理性の在り方と、アメリカ的な作文スタイルとの間に特に関連はないはずです。
この本では、アメリカの作文スタイルはテイラー主義のような効率を重視する徹底的に合理的な経営スタイルと、行動主義心理学の発展によって生まれたというような書かれ方をしていますが、僕が知る限り、その一つの源流になっているのは、イギリスの社会思想、特にアダム・スミスのそれだと思います。
アダム・スミスの『国富論』が書かれたのは18世紀末ですが、この文章はまさに現代アメリカの簡明で要を得た、わかりやすく論理的であることを良しとしたスタイルで書かれています。このスタイルがその後の英米の社会思想における一つのモデルとなっていったことは間違いないでしょう。
ここにあるのは、社会科学をオープンリソースとしてWIKIPEDIAのように誰にでも開かれたものとするような発想の原点であり、その対極に、知識をごく狭いサークルの中でのみの特権的な共有物とするような発想があったように思います。
衒学的なものを嫌うがゆえに、わかりやすさを重視し、少しでもストレートで読みやすいものを志した結果あらわれたようなスタイルだと考えます。
こうした、知の共同体に、誰でも参加できるようなスタイルは、一方では、「言ったもの勝ち」的な雰囲気を作り出し、またとりあえずたくさんの言説を解き放った上で、多くの人に支持されたものが残っていくというようなtwitter的民主主義を作っているのだと思います。
同じ民主主義の重視でも、フランスのディセルタシオン教育のそれは、自己を振り返ることができ、現状の社会のあり様に対して批判的にも見ることができるというハードルを課した上で、言説を操るに値する人を選ぶことが前提になっています。知識人だけが議論に参加できるので、議論が多少難解になっても文句を言われることもありません。
ただこれだけが「政治」の正しいあり方であるはずはないでしょう。特に「選挙」という誰が投票しても同じ一票として数えられるような世界では、表の議論に参加しないサイレント・マジョリティが力を発揮するわけで、それが場合によってはトランプのような反省的でも批判的でもない、直情的で暴力的な言説が席巻する場合もあるわけです。
それが「政治」でないとは言えないように思います。アメリカにはアメリカの政治があるし、日本には日本の政治があるわけです。
日本という社会が特に共感をベースにして動いているというのは、その通りだと思います。よく言えば「気配り」「思いやり」、悪く言えば「忖度」で日本社会が動いているのは、今さら言うまでもありません。日本の国語教育や作文教育が、そうした社会を構成するにふさわしい人々を生み出しているのも全くその通りだと思います。
でもどの国も「社会」がそのように動いているわけがありません。アメリカでは「言ったもの勝ち」の論理が先行しているし、日本の中でさえ、ネットの中では、反省的/批判的精神がなく、弱者に対する共感もない、ただ欲望にのみ忠実な言葉が炎上を誘うような構図になりがちです。
ウェーバーについて
この図式に関連して、この本でもう一つ気になったのはウェーバーの理論の扱いです。
たとえば渡邉は「ウェーバーは、集団間の衝突はなぜ起こるのかに興味を持ち、葛藤の原因をこの合理性の違いに求めた」と書いています。この「合理性の違い」というのが、まさに上の図式にあたるのですが、ウェーバーがどの著作でそうした主張をしているのか教えて欲しいと思います。解釈違いかもしれませんが、ウェーバーの言いたかったことはそこには内容に思うからです。
ウェーバーがこうした異なる合理性について論じたのは、あくまで集団を支配する上での、正当化の論理が社会によって異なることを説明しようとしたのであって(『支配の社会学』)、基本的には争いは同じ合理性を信奉するもの同士の中で考えていたと思います。たとえば、ウェーバーは集団を構成する原理として、メンバーの共通利益がどこにあるかを考えて、「階級、身分、党派」といった分類を考えるわけですが、労働者階級が対立するのは資本家階級だし、同じ文化を共有する身分はまた別の身分と対立するわけです。党派も同様で、同じ政治理念をもつものが結束し、違うものと対立すそします。
また経済としての資本主義のシステムは、一方で官僚主義的な政治システムと親和性を持っているとも考えていました。これらもそれぞれ異なる合理性で動いているものですが、対立するどころかむしろ互いに協力しあうような関係になると考えていたわけです。
有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だって、もともと価値合理主義的に動いていた人たちの子孫が、いつの間にかため込んでいったお金を目的合理的に投資するようになっていったという話であって、異なる合理性の間に葛藤や対立が起こるというのであれば、なかなか考えづらい筋道になっています。
結論
ですので、この図式には納得いかないのですが、合理性にもいろいろある・・・という話の部分は本当に素晴らしかったです。
大学生になって、今までの日本式の感想文から、急にアメリカ式のレポート(時にはフランス的なスタイルも混じったもの)を書かされるようになる彼らには、ぜひこういう文化の違いが背景にあることを知っておいて欲しいと思います。
