「優しさ」が子どもを傷つけるとき。
「良かれと思ってかけた言葉が、
相手の心を閉ざしてしまうことがある。」
そんな経験はありませんか?
子どもたちのために、
誰かのためにと
一生懸命になればなるほど、
空回りしてしまう。
12もの保育・福祉の現場を歩き、
12通りの「正しさ」にぶつかってきた私が行き着いたのは、
何かをしてあげる「支援」ではなく、
ただ「隣にいる」という、静かで強い答えでした。
私がかつて投げてしまった
「正しさ」という名のつぶて(礁)のお話、
そして心を救ってくれた
「編み物」の時間について、
少しだけお話しさせてください。
児童養護施設の保育士として
働き始めたばかりの、
若かりし頃。
私は、
子どもたちの「親の代わり」になりたいと、
燃えていました。
学習の時間、
宿題に取り組む子どもの隣に座り、
私は熱心に言葉を重ねます。
「もっとこうした方がいいよ」
「こう考えれば、ほら、解けるでしょう?」
宿題を終わらせてあげたい。
将来のために、
少しでも学力をつけてあげたい。
この子の力になりたい。
でも、そんな私の想いとは裏腹に、
子どもの表情はみるみるうちに
頑なになり、
鉛筆を握る手が止まってしまいます。
良かれと思って投げた「正しさ」のつぶて。
私は、
その子のために「手助け」を
差し出しているつもりでした。
けれど、
ある日ふと気づいたのです。
私が投げていたのは、
温かな救いの手ではなく、
私の「正しさ」という名の
つぶて(礁)だったのではないか、と。
相手の状態を置き去りにして、
こちらの正解を押し付ける。
それは、相手のためではなく、
「しっかり指導している自分」を
確認し、
安心したかっただけなのかもしれません。
「頑張れ」という励ましが、
今の自分を否定されたような
重荷になる。
助けようと一歩踏み込むたび、
繊細な魂を持つその子は、
音もなく一歩、
後ろへ下がっていく。
あの独特の、
切ない空気感。
言葉にならない拒絶の距離を、
私は何度も現場で肌に感じてきました。
「支える」を手放して「隣」に座る
そんなとき、
ふと思い出したのは、
短大時代の教護院(現在の児童自立支援施設)での実習でした。
トゲトゲした表情で心を閉ざしていた女の子の、
隣にただ座ったときのこと。
私は何も言わず、
彼女と目を合わせることもせず、
ただ一目ずつ、
編み物を編み始めました。

カチカチと響く、
編み針の音だけが流れる時間。
5分、10分。
すると、隣にいたその子が、
そっと私の編み目を盗み見るようにして、
自分の針を動かし始めました。
交わす言葉は一つもありません。
けれど、
気づけば二人の呼吸のリズムが、
静かに重なっていく。
「ここにいてもいいんだ」と、
一目一目の編み目が、
言葉を超えて語りかけてくるような感覚でした。
無理に支えようとしなくていい。
ただ、その人がそこにいることを許し、静かに隣にいること。
それが、
どれほど大きな安心になるのかを、
私は子どもたちから教わったのです。

自分という「隣人」へのまなざし
これが、
12の現場を歩く中で私が見つけた
「保育・福祉で一番大切にしたいこと」です。
ただ隣にいること。
それだけで、
救われる時間がある。
養護施設だけでなく、
保育園でも、
学童保育でも、
高齢者の介護でも、
子どもの発達支援でも…
相手が誰であろうと、
「支えるより、隣にいること」。
その大切さを感じる瞬間が
12の現場、
それぞれにありました。
(もちろん、
職種それぞれに専門の支援技術があり、
隣りにいるだけでは仕事にはならないのですが……、
それでも私は、
「隣にいること」を土台にしたいと思っています。)
今、誰かを救おうとして、
自分をすり減らしていませんか。
今日、誰かの隣に、
穏やかな心でいられましたか。
そして。
あなた自身の隣には、
ちゃんといられていますか?
頑張りすぎて疲れてしまったときは、
まず鏡の前に立って、
自分自身に声をかけてあげてください。
「いつも隣にいてくれて、ありがとう」
次回は、「繊細さん」の型の話と私が思っていることを書いてみたいと思います。
あなたの「隣にいる支援」エピソード、コメント待ってます♡
心をすり減らさない歩き方を探して、
12の職場を旅してきました。

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最後までお読みくださり、ありがとうございます。いただいたサポートは、私がこれからも自分自身の「心地よい歩幅」で、誰かの足元を照らす言葉を綴り続けるための、小さなお守りとして大切にさせていただきます。