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2歳の記憶が作った「心の穴」の正体。

私には、2歳の記憶があります。

静かな家。

誰もいない。

そして、暗い穴が見える「ボットン便所」。

私は、小さな手で 必死にトイレの縁をつかんでいました。

「落ちたらどうしよう」

2歳の私の、命がけのお話です。


2歳の記憶。静かな家と、必死に掴んだトイレの縁(ふち)

私の記憶の原点は、
2歳のお留守番にあります。

私は3人姉妹の真ん中として育ちました。

母は若くして姉を産みましたが、
もともと子ども好きではなかったようです。
「3人も子どもがいることが恥ずかしい」という言葉を、
よく口にしていた記憶があります。

一番鮮明に覚えているのは、
2歳の頃のお留守番です。
母は、
赤ちゃんの妹は連れて行くけれど、
2歳の私には、
いつも「こはるは、お留守番ね」と言って、
姉の幼稚園の送り迎えに行ってしまいました。

一人取り残された静かな家の中で、
何よりも怖かったのは「お便所」でした。
今と違って、
底の方に汚物が見える、
いわゆる「ボットン便所」。

おしめが外れていた2歳の私は、
和式の便器を精一杯足を開いてまたぎ、
前の部分を力いっぱい握りしめていなければ、
そのまま暗い穴の中に落ちてしまいそうでした。

穴への恐怖に震えながら、
私はなるべくトイレに行くのを我慢しました。
でも、どうしても行かないといけない時には、
小さな体で
「自分一人の力で落ちないように」と、
必死に自分を支えていました。

あの「何かに掴まっていないと消えてしまいそう」という心細さは、
今でも指先の感覚に残っています。

姉の読み聞かせと、父のぬくもり

そんな私の張り詰めた心を
唯一緩めてくれたのは、
姉と父でした。

賢かった姉は早くから文字が読めて、
私はいつも姉の隣で、
絵本の読み聞かせを聴きながら育ちました。

私が今も絵本が大好きで、
このnoteで優しい世界観を大切にしているのは、
あの頃の姉がくれた「言葉のぬくもり」を、
どこかで探し続けているからかもしれません。

父は仕事で忙しかったけれど、
大好きでした。
母よりも父に抱っこしてもらった記憶の方がずっと多いです。

父が休みの日には、
一緒に庭仕事をしていました。
ほんとうは、
私は邪魔をしていただけだったのかもしれませんが……。

松の木の剪定をしていたとき、
「木は挿し木ができて、
新しい命が生まれるんだよ」と
教えてくれたのも父でした。
その日に選んだ真っ直ぐな枝を挿し木にしたら、
うまく根付いてくれました。

私がお嫁に行く頃には、
もともと植えていた木よりも大きくなっていたことを覚えています。

たまの帰省でお風呂屋さんに行くとき、
姉や妹、母たちは女湯へ行きますが、
私だけは父と一緒に「男湯」へ行っていました。

優しかった父のぬくもりにしがみつくことで、
「私は一人じゃない、ここにいていいんだ」と必死に確認していたのだと思います。

磨かれた「心のアンテナ」

けれど、心の底では母に構ってもらえない寂しさが、
ずっと澱(おり)のように溜まっていました。

家でも、幼稚園でも、
周りの空気が重くなるとお腹が痛くなる……。

そんなHSPの気質は、
寂しさから自分を守るための「生存戦略」として、
より敏感に研ぎ澄まされていきました。

小学生になる頃には、
言葉の出ない赤ちゃんや、
障害のある子の「声なき声」が手に取るように、
伝わってくるようになっていました。

「この子は今、ここが痛いんだな」
「この子は、あの窓の光が見たいんだな」
その想いを拾ってあげると、
みんなが驚くほど喜んでくれました。

そして私は、
いつの間にか近所の赤ちゃんや、
障害のある子のお世話をすることが自分の役割になっていきました。

農繁期には、
小学生の私一人で、
近所の2歳と0歳の子守りを任されるほどでした。

「優しい子ね」
「しっかりした子ね」。
母に恥ずかしいと思われないために、
誰かの役に立つことでしか
自分の存在価値を確かめられなかった私にとって、
この「察する力」は、
唯一の居場所を作るための最強の武器になったのです。

……つづく。


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心をすり減らさない歩き方を探して、
12の職場をを旅してきました。

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こはる|転職12回の器用貧乏さん 最後までお読みくださり、ありがとうございます。いただいたサポートは、私がこれからも自分自身の「心地よい歩幅」で、誰かの足元を照らす言葉を綴り続けるための、小さなお守りとして大切にさせていただきます。