【短編BL小説】氷の先輩と微熱のルーキー ~後輩(佐久間 航太)視点Ver.~
第1章:35.8℃の静寂と、4月のノイズ
一ノ瀬先輩は、冬の澄んだ空気そのものだ。
四月後半の金曜日。窓の外には春の終わりを告げる湿った空気が停滞し、オフィスの中は新年度の慌ただしさが一段落した、どこか気だるい静寂に包まれている。 その静寂の中心に、一ノ瀬 蓮(いちのせ れん)という「絶対零度」が座っていた。
「……佐久間。手が止まっているぞ」
低く、硬質な声が僕の鼓膜を震わせる。 一ノ瀬先輩は視線をパソコンのモニターに向けたまま、シルバーのスクエアフレーム眼鏡のブリッジを、中指の先でスッと押し上げた。 ただそれだけの、何気ない仕草。 けれど、無機質な銀縁のフレームが蛍光灯の光を反射し、彼の切れ長で冷徹な瞳を際立たせるその瞬間、僕は息をすることを忘れてしまう。
「すみません、すぐに終わらせます!」
僕は慌ててキーボードを叩く。 僕の平熱は三十六・八度。対して、一ノ瀬先輩は三十五・八度(らしい)。 たった一度の差なのに、隣に座っているだけで、彼の周りだけが真空パックされたように冷たく、研ぎ澄まされているのがわかる。
ちらりと、盗み見るように隣を確認した。 先輩はチャコールグレーのスリーピースを完璧に着こなし、ストライプのドレスシャツの袖口からは、正確な時間を刻む薄型のアナログ時計が顔をのぞかせている。 その指先。白く、細く、それでいて男らしい節を持った指が、音もなくキーボードを滑る。 その無駄のない動きを見ていると、僕の胸の奥がチリチリと焦げるような感覚に陥る。
これは、憧れだ。……いや、本当にそれだけだろうか?
先輩が、わずかに眉を寄せた。 それだけで、彼の完璧な論理の世界に小さな「ノイズ」が走ったのがわかる。その原因が僕の視線にあるのだとしたら――。 戸惑いと同時に、歪んだ独占欲が首をもたげる。 この冷徹な氷のような表情を、僕の熱で、僕の存在というノイズで、めちゃくちゃにかき乱してやりたい。 そんな、新人の分際で抱いてはいけない不遜な願望が、僕の体温をさらに〇・一度、押し上げる気がした。
「佐久間、今日の進捗はどうなっている」
不意に、先輩がこちらを向いた。 三白眼気味の、射抜くような視線。 僕は心臓が跳ねるのを必死に抑え、手元の資料を差し出した。
「あ、はい! ここまで終わっています。週明けの締め切り分も、今日中に目処を立てたくて……」
先輩は僕の手から資料を受け取る。 その瞬間、彼の指先が僕の甲に、ほんの、かすめる程度に触れた。
「っ……!」
冷たい。 氷に触れたような、鋭い温度。 けれど、その冷たさが、僕の火照った体にはたまらなく心地よく感じられて、一瞬だけ指を絡めたいという衝動に駆られてしまう。 先輩は僕の動揺など露知らず、冷淡な眼差しで資料をスキャンしていく。
「……悪くない。だが、論理が甘いな」
そう言って、先輩は資料をデスクに置いた。 その拍子に、彼の首元の完璧なウィンザーノットで結ばれたネクタイが、わずかに揺れる。 僕は自分のレジメンタルタイがまた曲がっていないか、不安になって思わず襟元に手をやった。僕の不器用な熱量は、この完璧な人の隣では、いつも行き場を失って空回りする。
「頑張ります。……先輩に、失望されたくないので」
本音が漏れた。 先輩は少しだけ動きを止め、眼鏡の奥の瞳で僕をじっと見つめた。
「……失望? 俺が求めているのは感情論ではなく、正確な成果だ」
突き放すような言葉。 なのに、その声の響きに、わずかながらの「体温」を期待してしまう自分を止められない。 四月の湿った空気の中、僕たちは正反対の温度を抱えたまま、並んで夕方を待つ。
僕の三十六・八度の熱が、いつか先輩の三十五・八度を溶かす日は来るんだろうか。 それとも、僕がこの冷徹な氷の中に、永遠に閉じ込められてしまうのが先だろうか。
キーボードを叩く音だけが、時計の針のように冷たく響き続けていた。
第2章:歪んだレジメンタルと1.0℃の壁
午後のオフィスは、まるで澱んだ水槽の底のようだ。 窓から差し込む四月特有の柔らかな日差しが、デスクに積まれた書類や、絶え間なく響くタイピングの音を白くぼかしている。昼食後の微かな眠気と、春の湿り気を帯びた空気が混ざり合い、同僚たちの集中力がじわじわと削削られていくのがわかる。
けれど、僕の隣だけは例外だった。
「……佐久間。この三ページ目、数値の根拠が甘い」
一ノ瀬先輩の声が、冷たいナイフのように静寂を切り裂く。 先輩は愛用のアナログ高級腕時計に目を落とし、秒針の動きを確認してから、僕が提出した資料をデスクに放り出した。 その動きの一つひとつが、計算されつくした機械のように正確で、無駄がない。
「すみません、すぐに修正します……っ」
慌てて資料を手に取ろうとして、指先が震えた。 先輩の視線は、僕ではなく、僕の首元に注がれている。その切れ長の三白眼が、不快そうにわずかに細められた。
「仕事の精度は、身だしなみに現れる。……そのレジメンタルタイ、また歪んでいるぞ」
「えっ……」
僕がまごついていると、先輩はいら立ちを隠そうともせずに椅子を引き、僕の方へと身体を寄せた。その瞬間、僕のパーソナルスペースが、一ノ瀬先輩という「絶対零度」の気配で塗りつぶされる。
先輩のチャコールグレーのベストから、微かに香る。洗剤の匂いだろうか、それとも彼自身の体臭だろうか。雪原の空気のように潔癖で、それでいてどこか官能的な、冷ややかな香り。 一ノ瀬先輩が、僕の襟元に手を伸ばした。
「……じっとしていろ」
低い、抗いがたい命令。 僕の視界は、先輩のストライプ柄のドレスシャツで埋め尽くされた。 シャープな縦縞のラインが、彼の細身ながらも鍛えられた胸板の起伏をなぞっている。その薄い生地越しに、先輩の肌の質感が伝わってくるような気がして、僕は喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。
先輩の指先が、僕のネクタイに触れる。 冷たい。 けれど、その指先が僕のシャツの第一ボタン付近に触れるたび、そこから小さな火花が散るような熱が、僕の体中を駆け巡る。
僕の平熱は三十六・八度。先輩は三十五・八度。 わずか一度の差。けれど、この近さでは、そのたった一度が巨大な壁のように僕たちを隔て、同時に磁石のように強く惹きつけて離さない。
(……この指に、触れたい)
そんな、身の程知らずな独占欲が胸の奥でドロリと溶け出した。
この冷徹な先輩に、僕のこの、行き場のない熱を押し付けたい。 論理と理性で固められた彼の表情を、僕だけが知っている歪んだ形に変えてみたい。 僕の視線が、無意識に先輩の薄い唇に向けられた。 もし今、ここがオフィスでなかったら。僕がもっと、彼にふさわしい人間だったなら――。
「……何を考えている」
一ノ瀬先輩の声に、ハッとして意識を引き戻した。 至近距離で、シルバーの眼鏡越しに先輩の瞳が僕を射抜いている。
「あ、いえ……その、ありがとうございます。一ノ瀬先輩に直してもらえるなんて、光栄で……」
「おべっかはいい。俺が苛立つのは、俺の視界に『正しくないもの』が存在することだ」
先輩は無機質に言い放つと、僕のネクタイを完璧な形に整え、潔く手を引いた。 触れられていた場所が、急に凍りついたように寒くなる。 一度の壁。 彼が僕を「後輩」というカテゴリーから一歩も外に出してくれないことが、もどかしくて、苦しくて、たまらない。
「佐久間、顔が赤いぞ。……また無駄に熱量を垂れ流しているのか」
「そ、そんなことないです! ただ、ちょっと……」
言い訳を飲み込む。 実際、身体の芯がズキズキと痛み始めていた。 午前中から感じていた違和感が、先輩に触れられたことで一気に加速したような感覚。 窓の外、春の湿った空気はさらに密度を増している。 時計の針は午後を回り、週明けの締め切りという現実が、重く僕の肩にのしかかっていた。
(まだ、帰れない。先輩に失望されるわけにはいかないんだ)
僕は熱っぽく潤み始めた瞳で、再びキーボードに向かった。 隣に座る先輩の、凛とした横顔を盗み見る。
彼の三十五・八度の世界に、僕のこの、制御不能になりつつある熱がどう映っているのか。 それを知るのが、怖くて、けれど期待せずにはいられなかった。
キーボードを叩く指が、少しずつ重くなっていく。 モニターの文字が、熱の揺らぎの中で微かに滲み始めていた。
第3章:37.2℃——忍び寄る不調と締め切り
窓の外の湿り気を帯びた空気は、午後が深まるにつれて密度を増し、オフィスの空調をあざ笑うかのように僕の肌にまとわりついてくる。 キーボードを叩く指先が、わずかに熱を帯びて重い。モニターの光がいつもより眩しく感じられ、行間を泳ぐ数字たちが時折、陽炎のようにゆらゆらと歪んだ。
「……っ」
小さく、自分にしか聞こえない程度に吐息を漏らす。 こっそりと自分の額に手を当ててみる。掌から伝わる温度は、明らかにいつもの僕の平熱――三十六・八度を超えていた。 おそらく、今の僕は三十七・二度くらいだろう。
平熱が高い僕にとって、この程度の微熱は日常茶飯事のはずだった。けれど、一ノ瀬先輩の隣にいる今の状況では、そのコンマ数度の差が致命的な「ノイズ」となって僕の思考をかき乱す。
視線を横に走らせれば、そこには相変わらず「絶対零度」の静寂を纏った一ノ瀬先輩がいる。 先輩はシルバーのスクエアフレーム眼鏡を指先で微調整すると、アナログ高級腕時計に目を落とした。カチ、カチと正確な秒針の音が、静かなデスクの間に響く。
「佐久間、手が止まっているぞ。週明けの締め切りを忘れたわけではあるまいな」
「あ、すみません! 忘れてません、大丈夫です!」
慌てて声を張る。けれど、その拍子に視界がぐらりと揺れた。
先輩は、冷淡な三白眼で僕をじっと見つめる。その視線に、僕の体調不良を見透かされたのではないかと心臓が跳ねた。
失望されたくない。 この完璧な論理の化身のような人に、「自己管理すらできない無能」というラベルを貼られることだけは、死んでも避けたかった。
先輩が、ふっと視線を外してコーヒーカップを口に運んだ。 その、喉仏が小さく上下するだけの何気ない仕草。ストライプ柄のドレスシャツの襟元から覗く、白く長い首筋。 その凛とした美しさを見ていると、胸の奥の熱い塊が、喉元までせり上がってくるのを感じる。
(……この熱は、風邪のせいだけじゃない。絶対に)
歪んだ独占欲が、朦朧とする意識の中で鎌首をもたげる。 他の誰にも、この氷のような先輩を溶かさせたくない。
彼の冷徹な論理を、僕のこの異常な熱量で、めちゃくちゃにかき乱してやりたい。 僕の指先が先輩の白い肌に触れたとき、彼がどんな顔をして、どんな声を漏らすのか。
そんな、熱に浮かされた不遜な妄想が、脳内を支配しそうになる。
「……佐久間。顔色が悪い。今日はもう上がれ。残りは俺が引き取る」
不意に投げかけられた言葉。 先輩は、僕のネイビーのジャケットの肩あたりを、鋭い眼差しで射抜いていた。
その声は相変わらず低くて硬質だけれど、ほんの少しだけ、春の雨のような湿り気を帯びているように聞こえたのは、僕の願望が見せた幻覚だろうか。
「い、いえ! 頑張って仕事を終わらせたいので、もう少し頑張ります」
僕は必死に食い下がった。本当は、一刻も早く横になりたい。けれど、それ以上に、少しでも長くこの人の隣にいたい。
僕の三十七・二度の熱が、先輩の三十五・八度の平熱にどう影響を与えるのか。 それを確かめるまでは、この「聖域」のようなデスクを離れるわけにはいかなかった。
「……強情だな。効率が落ちるだけだと言っている」
先輩は、呆れたように小さくため息をついた。 その息が僕の頬をかすめ、微かな冷たさを運んでくる。 僕は、逃げるように再びモニターに向き直った。
カタカタと、オフィスの静寂にタイプ音が響く。 意識の端で、先輩がウィンザーノットで結ばれたネクタイの結び目を、わずかに緩める気配がした。
その「綻び」に、僕の心拍数はさらに加速していく。 外はもう、薄暗い。 四月の夜が、僕たちの温度差をさらに鮮明に浮き彫りにしようとしていた。
第4章:37.8℃——微熱の居残り
定時を告げるチャイムは、とうの昔に鳴り響いたはずだった。 かつては活気に溢れていたオフィスも、今は僕たち二人を残して、深い静寂の底へと沈んでいる。点々と灯る蛍光灯の青白い光が、誰もいないデスクの上を冷ややかに照らし出し、空調の低い唸りだけが、この真空のような空間を埋めていた。
「……っ、ふぅ……」
キーボードを叩く音が、自分の鼓膜に重く反響する。 視界の端で、パソコンの時計が午後八時を過ぎたことを知らせていた。 今の僕の体温は、おそらく三十七・八度まで跳ね上がっている。
平熱の三十六・八度から、ちょうど一度分の上乗せ。けれど、その「たった一度」が、今の僕には鉛のような重しとなって全身にのしかかっていた。
頭の芯が、甘く、とろりと溶け始めている。 思考が論理のレールを外れ、現実と夢の境界線が曖昧になっていく感覚。その熱っぽく潤んだ瞳が捉えるのは、隣に座る一ノ瀬先輩の横顔だけだった。
「……佐久間。まだやっているのか」
不意に、先輩の椅子が軋む音がした。 一ノ瀬先輩は、手元のアナログ腕時計を確認すると、ゆっくりとこちらに身体を向けた。シルバーのスクエアフレーム眼鏡の奥にある切れ長の瞳が、僕の顔をじっと、射抜くように見つめる。
「顔色が悪い。……頬が、赤いぞ。今日はもう上がれ。残りは俺が引き取る」
冷淡で、それでいて揺るぎない命令。 先輩の纏う「絶対零度」の空気が、僕の火照った肌に触れて、じりじりと音を立てて蒸発していくような錯覚に陥る。
「……大丈夫、です。頑張って仕事を終わらせたいので……もう少し、頑張ります」
掠れた声で、僕はそう答えた。
本音を言えば、今すぐにでも床に倒れ込みたい。けれど、それ以上に——僕は、この静かな夜のオフィスで、二人きりの時間を手放したくなかった。 この冷たい先輩を、僕の熱で独占できる、唯一の時間。 不格好な独占欲が、熱に浮かされた頭の中で醜く、けれど愛おしく脈打っている。
「……強情な奴だ。お前のその非合理な熱量は、時として毒になるぞ」
先輩は呆れたように吐息をつくと、立ち上がった。 そして、僕の隣で、おもむろに自分のウィンザーノットで結ばれたネクタイに指をかけた。
(あ……)
僕は、息をするのを忘れてその光景を見つめた。 完璧な造形を誇っていたネクタイの結び目が、先輩の細い指先によって、ゆっくりと緩められていく。
続いて、彼はチャコールグレーのベストの第一ボタン、第二ボタンを、無造作に外していった。 その、完璧だった「一ノ瀬蓮」という氷の彫像に、初めて「綻び」が生じる瞬間。
ストライプ柄のドレスシャツの襟元から覗く、鋭い鎖骨のライン。 そこから立ち上る、清潔な石鹸と冷たい鉄が混ざり合ったような、彼特有の香りが僕の鼻腔をくすぐる。
いつもは完璧に整えられているはずの彼が、僕の前でだけ、その鎧を脱いでいく。
その色気に、心臓が痛いほど脈打った。 三十七・八度の視界が、さらに熱く、激しく歪む。 この「綻び」を、他の誰にも見せたくない。 僕だけのものにしたい。 そんな黒い感情が、熱に溶けた思考の隙間から溢れ出していく。
「一ノ瀬、先輩……」
「なんだ。やはり気分が悪いのか」
先輩が、僕の顔を覗き込もうとして、さらに距離を詰めてきた。 彼の三十五・八度の平熱が、僕の三十七・八度の熱気と衝突する。 たった二度の差。 けれど、その距離がゼロになったとき、僕という存在は、この美しい氷に溶かされて消えてしまうのではないか。
「……っ、先輩の手……冷たそうですね」
僕の口から、自分でも驚くほど甘えたような声が漏れた。 自分の中の理性が、音を立てて崩れ落ちていく。 週明けの締め切りも、仕事の効率も、今はどうでもよかった。 ただ、この冷たい指先に触れてみたい。 僕のこの行き場のない熱を、彼の冷徹な論理で、跡形もなく冷やしてほしかった。
先輩の三白眼が、戸惑うようにわずかに揺れた。 その「揺らぎ」こそが、僕がずっと求めていた、彼の中の「人間味」だったのかもしれない。
「……佐久間。お前、本当に限界だな」
そう言って先輩が手を伸ばした瞬間、僕の意識は、真っ白な熱の中へと沈んでいった。 モニターの青白い光が、遠ざかる。 最後に見たのは、眼鏡の奥で初めて見た、微かな焦燥の色だった。
第5章:38.5℃——臨界点と崩落
意識の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。 最後に見たのは、青白いモニターの光の中で、微かに焦燥を滲ませた一ノ瀬先輩の、鋭くも美しい三白眼だった。
次に目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは、見慣れたオフィスの天井ではなく、重厚な木目調の天井だった。 そこは、社内でも「聖域」と呼ばれている応接室だった。 窓の外は完全に夜の闇に塗りつぶされ、春の湿った空気さえも届かない、静まり返った密室。
「……っ、はぁ、は……っ」
呼吸をするたびに、肺の奥から熱い塊がせり上がってくる。 革張りのソファに横たわった僕の身体は、自分でも驚くほど重く、熱かった。 今の僕の体温は、おそらく三十八・五度まで跳ね上がっている。 平熱の三十六・八度から二度近い上昇。その熱は、僕の思考をどろどろに溶かし、境界線を曖昧にしていく。
「……気がついたか」
低く、温度を排した声。 顔を向ければ、すぐそばに一ノ瀬先輩が立っていた。 けれど、その姿は僕の知っている「完璧」な彼ではなかった。
チャコールグレーのジャケットは傍らの椅子に掛けられ、ベストのボタンもすべて外されている。 さらに、いつも完璧なウィンザーノットを描いていたネクタイは失われ、ストライプ柄のドレスシャツの第一ボタンまでが開け放たれていた。
捲り上げられた袖口からは、白く、それでいて男らしい筋の浮いた腕が覗いている。 その腕には、正確な時間を刻み続ける薄型のアナログ高級腕時計が、冷たい銀色の光を放っていた。
「先輩……っ、すみません……僕、寝て……」
「寝ていたのではない、倒れたんだ。全く、非合理極まりない。自己管理も仕事のうちだと言ったはずだぞ、佐久間」
言葉のナイフは鋭い。 けれど、そう言いながら僕の額に手を伸ばす先輩の指先は、微かに震えているように見えた。 シルバーのスクエアフレーム眼鏡の奥にある瞳が、困惑と、それ以上に言葉にできない「揺らぎ」を映し出している。
先輩が、手にした冷却シートを僕の額に貼ろうとした。 その瞬間、僕の中の何かが、決壊した。
「……っ!」
僕は、自分でも信じられないような力で、先輩の手首を掴んだ。 太い血管が脈打つ僕の手と、あくまで冷たく、静かな先輩の手首。 三十八・五度の猛烈な熱が、彼の三十五・八度の肌に直接流れ込んでいく。 その、一度と少しの温度差では説明できないほどの、圧倒的な熱の奔流。
「佐久間……? 離せ。冷却シートを——」
「嫌です……」
朦朧とする意識の中で、独占欲が醜く鎌首をもたげる。 この冷たい手を、この完璧な人を、僕だけの熱でめちゃくちゃに汚してやりたい。 論理と理性で塗り固められたこの男を、僕なしではいられないほどにかき乱してやりたい。 僕は、掴んだその冷たい手を、引き寄せるように自分の頬へと押し当てた。
「……蓮さんの手、冷たくて、気持ちいい……」
呼んでしまった。 オフィスでは決して許されない、彼の、下の名前。 その瞬間、先輩の身体が、氷を突きつけられたように強張るのがわかった。
「……お前、今……」
先輩の声から、完全に温度が消えた。 けれど、頬に触れている彼の指先からは、僕の熱が伝染したかのような、熱い動悸が伝わってくる。 僕の熱に溶かされていく、先輩の絶対零度の領域。 その「崩落」の音が、静かな応接室に響いた気がした。
「蓮さん……。行かないで……僕を、置いていかないでください……」
自分でも驚くほど、子供っぽくて、惨めな懇願。 けれど、熱に浮かされた僕には、それしか言えなかった。 一ノ瀬先輩の三白眼が、大きく見開かれる。 眼鏡の奥で、彼の理性が、僕という「不器用な熱量」によって音を立てて変質していくのが見えた。
先輩の指が、僕の頬を、なぞるように動いた。 それは介抱などではなく、もっと、熱を帯びた、別の何かのようで。
「……佐久間。お前は、どこまで俺を狂わせれば気が済むんだ」
掠れた声。 それが僕への怒りなのか、それとも、自分自身への絶望なのか、僕にはわからなかった。 けれど、僕の視界はそこで再び暗転した。 最後に感じたのは、僕の熱を吸い取っていくような、冷たくて、けれどこの上なく優しい、誰かの体温だった。
第6章:ハンガーの折り目と、残り香
まどろみの底から意識が浮上したとき、最初に感じたのは、驚くほど澄み切った空気の匂いだった。 四月の土曜日。カーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日までの湿り気を帯びた重苦しさを嘘のように払い除け、僕の狭いワンルームを白く、清潔な光で満たしている。
「……う、ん……」
重い瞼を押し上げる。 頭の芯に残っていた、あのどろどろとした熱の塊はほとんど消え去っていた。 枕元に転がっていた体温計を手に取り、無意識に脇に挟む。電子音が告げた数字は、三十七・二度。 微熱程度だ。
「……そっか。僕、倒れたんだっけ」
断片的な記憶が、火花のように脳裏をよぎる。
深夜のオフィス。重なるタイピング音。一ノ瀬先輩の、緩んだネクタイ。 そして、応接室の冷たい革のソファ。 僕は、あの方の手を掴んで、あろうことか——。
「っ、うわあああああ!」
バサリ、と布団を跳ね除けて頭を抱えた。
呼んでしまった。呼んでしまった気がする。 あの「絶対零度」の完璧な人を、あんなにも馴れ馴れしい呼び名で。
思い出すだけで、熱が再び〇・一度上昇しそうなほどの羞恥心が押し寄せてくる。 けれど、その混乱した思考を瞬時に凍りつかせたのは、部屋の隅にあるハンガーラックに掛かっていた「異物」だった。
「……え?」
そこには、僕のネイビースーツが掛かっていた。 昨日、汗と熱にまみれてぐちゃぐちゃになっていたはずのジャケット。 それが、まるで魔法でもかけられたかのように、ミリ単位の狂いもなく完璧にプレスされ、凛とした佇まいで僕を待っていたのだ。
僕はふらふらと立ち上がり、そのスーツに指を触れた。 ウールの滑らかな質感が、指先に心地よい冷たさを伝える。 折り目はナイフのように鋭く、下襟の曲線は芸術的なまでに美しい。 僕がどれだけ頑張っても再現できない、一ノ瀬先輩そのもののような「正しさ」が、そこには宿っていた。
ふと見ると、デスクの上に一枚の付箋が置かれていることに気づいた。 白く、無機質な事務用の付箋。 そこに記されていたのは、傾きひとつない、直線的で美しい文字だった。
『しっかり休んで、月曜日は元気に出社すること。 一ノ瀬』
「…………」
その簡潔すぎるメッセージをなぞる。 心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
先輩の、あの白く細い指先が、このペンを握り、僕のために言葉を綴った。 その光景を想像するだけで、胸の奥がチリチリと焼けつくような、歪んだ独占欲が首をもたげる。
先輩は、この部屋に来たんだ。 僕の、生活感に溢れた、ちっぽけで未熟なこの空間に。 彼が纏うチャコールグレーのベストから香る、あの冷たくて潔癖な香りが、まだ部屋の隅に残っているような気がして、僕は思わず深く息を吸い込んだ。
(……一ノ瀬先輩)
記憶にはないけれど、確かにそこにあったはずの「体温」を追ってしまう。
タクシーの中だっただろうか。それとも、この部屋の玄関だっただろうか。 僕を支えてくれた、あの強い腕。 眼鏡の奥で揺れていた、冷徹さを欠いた焦燥の瞳。 そして、僕の熱を吸い取ってくれた、氷のように冷たくて、けれど誰よりも優しい指先の感触。
「……独占したい、なんて。バカだな、僕は」
自嘲気味に呟きながら、僕は一ノ瀬先輩の書いたメモを、宝物のように胸に抱きしめた。
先輩にとっては、これはただの「管理業務」の一環に過ぎないのかもしれない。倒れた部下を送り届け、指示を出す。それだけの、合理的な判断。
けれど、この完璧に整えられたスーツの折り目を見ればわかる。 効率だけを求めるなら、クリーニングに出せと言えば済む話だ。 わざわざ自分の手を汚し、僕のために時間を割いてくれた。 その「非合理な優しさ」が、僕の心をどうしようもなくかき乱す。
僕はもう一度、スーツの袖口に鼻を寄せた。 そこには、柔軟剤の匂いに混じって、微かに、本当に微かに、あの「冬の空気」のような香りが残っていた。 その香りに包まれていると、まるで先輩に後ろから抱きしめられているような、甘美な錯覚に陥ってしまう。
三十七・二度の微熱。 先輩の三十五・八度には、まだ遠い。 けれど、この部屋に残された「冷たい気配」は、今の僕にとってはどんな暖房よりも熱く、身体の芯を焦がし続けている。
「……月曜日」
僕はメモを丁寧に手帳に挟み、鏡の中の自分を見た。
熱はかなり引いたはずなのに、瞳はまだ潤んでいて、頬は微かに赤い。 早く、あの人に会いたい。 あの冷たい声で「論理が甘い」と罵られたい。
そして、いつか。 この僕の熱量が、先輩の完璧な論理をすべて溶かし尽くし、あの方の瞳に、僕という「ノイズ」だけを焼き付ける日が来るのを。
僕は、月曜日の朝が来るのが待ちきれなくて、もう一度、深く、深く、彼の残り香を吸い込んだ。
第7章:解熱の朝、再起動する論理
月曜日の朝というものは、いつも以上に重苦しい湿気を孕んでいるように感じられる。 けれど、今日の僕を支配しているのは、憂鬱などという生易しい感情ではなかった。
「……よし」
鏡の前で、僕は自分の顔を厳しくチェックする。 熱は完全に下がり、平熱の三十六・八度。瞳の充血も消え、肌のコンディションも悪くない。 何より、今日僕が身に纏っているのは、あの一ノ瀬先輩が自らの手でプレスしてくれたネイビースーツだ。
袖を通すたびに、ウールの滑らかな質感が僕の肌を、まるで先輩の指先がなぞるように冷ややかに、けれど確かな重みを持って引き締めてくれる。 端から端まで、ミリ単位の狂いもなく整えられたその造形に、僕は背筋が伸びる思いだった。
(……一ノ瀬先輩。今日、どんな顔をして会えばいいんだろう)
金曜日の夜の記憶は、依然として霧の向こう側にある。 けれど、僕が先輩の冷たい手首を掴み、あろうことか「蓮さん」と呼んでしまったあの瞬間の熱い感触だけは、呪いのように僕の掌に焼き付いて離れない。
あの「絶対零度」の鉄面皮を、僕という未熟なノイズが、暴力的な熱量で溶かし、崩してしまった。
その罪悪感と、それ以上に深い場所で疼く暗い独占欲が、僕の歩みを重くさせていた。
オフィスの重厚なドアを開ける。 室内に充満しているのは、淹れたてのコーヒーの苦い香りと、起動したばかりの精密機器が発する独特の乾いた匂い。 そして、その静寂の中心に、彼はいた。
「…………」
一ノ瀬先輩は、すでに自席に座っていた。 完璧な姿勢。チャコールグレーのスリーピースに身を包み、ストライプ柄のドレスシャツの襟元は、一分の隙もなくウィンザーノットで締められている。
シルバーのスクエアフレーム眼鏡が蛍光灯の青白い光を反射し、その奥にある切れ長の三白眼は、まるで週末の出来事など一切なかったかのように、淡々とモニターの数字を追いかけていた。
カチ、カチ、カチ。 先輩の左腕にある薄型のアナログ腕時計が、冷酷なまでに正確な時を刻んでいるのが、静かな室内によく響く。
「……おはようございます、一ノ瀬先輩」
僕は心臓の鼓動を悟られないよう、努めて明るい声を出した。 先輩は、視線をモニターに向けたまま、中指の先で眼鏡のブリッジをスッと押し上げた。 ただそれだけの、彼にとっては日常的な、何気ない仕草。
けれど、その無駄のない指の動きに、僕はあの夜、自分の頬に触れた冷たい感触を思い出してしまい、喉の奥がキュッと締まる。
「……。おはよう、佐久間」
ようやく返ってきた声は、以前と変わらぬ、硬質で低いトーンだった。 先輩はゆっくりとこちらに顔を向け、僕の全身をスキャンするように一瞥する。 その視線が、僕のスーツに留まった気がした。 僕がどれだけ神経を尖らせて着てきたか、その「正しさ」を確認するかのように。
「体調は万全なんだろうな。月曜から効率を落とされるのは、俺の不本意だ」
「はい! おかげさまで、完全に回復しました。……あの、金曜日は、その……」
僕は言葉を濁らせながら、先輩のデスクに一歩近づいた。 デスクの上は、定規で測ったかのようにミリ単位で整頓されている。ペン一本、メモ帳一冊に至るまで、あるべき場所に「正しく」配置されている。
その潔癖なまでの秩序が、僕を拒絶しているようでもあり、同時に、僕だけが知っている「あの夜の綻び」を隠そうとしているようにも見えた。
「金曜日のことは気にするな。あれは、管理職としての適切な判断に基づいた処置だ」
先輩は、僕の言葉を遮るように言い放った。
「管理業務」。その冷たい言葉が、僕の胸をチクリと刺す。 あんなに熱く、あんなに近くにいたのに。 僕の三十八・五度の熱を、その身で受け止めてくれたはずなのに。
今の先輩は、再び三十五・八度の氷の仮面を被り直し、僕との間に強固な論理の壁を再構築している。
「……そうです、よね。すみません、ご迷惑をおかけして」
僕は俯き、自分のレジメンタルタイに手をやった。 少しでも気を抜けば、またすぐに歪んでしまう僕の未熟さ。
先輩の「管理業務」という言葉で片付けられたことに、戸惑いと、激しい拒絶感が渦を巻く。
嫌だ。そんな無機質な言葉で、あの夜を上書きしないでほしい。 僕の熱を吸い取ってくれた、あの瞬間のあなたは、確かに「管理」なんて枠を超えて、僕だけを見ていたはずなのに。
「……佐久間…。週末に滞った分、今日のノルマは通常の二割増しだ」
「……っ、はい! わかってます」
僕は、逃げるように自分の席に座り、パソコンを起動した。
視界の端に映る、一ノ瀬先輩の横顔。 彼は再び、完璧な「氷の先輩」へと再起動し、冷徹な論理の世界へと没入していく。
けれど、僕は見てしまった。 キーボードを叩く先輩の指先が、ほんの一瞬だけ、微かに震えたのを。
それは、僕の三十六・八度の平熱が、彼の三十五・八度の世界に投げ込んだ、小さな、けれど決して消えることのない「ノイズ」の証明。
(……蓮さん)
第8章:37.0℃の解答——綻びた論理
このまま何も無かったことにしたくない…。そんな事を考えながら、今日の資料をまとめる。
「一ノ瀬先輩。今日の資料、確認をお願いします。……それと、金曜日のこと、本当にありがとうございました 」
僕は、あえて笑顔で一歩、彼のパーソナルスペースへと踏み込んだ。 先輩の纏うチャコールグレーのベストから、あの潔癖な冬の空気のような香りが立ち上る。 その瞬間、先輩の指先が、目に見えて微かに震えた。
「……佐久間。言ったはずだ、あれは管理業務の——」
「管理業務、ですよね。でも、僕は……管理されるだけじゃ、満足できないんです」
僕の不器用な熱量が、言葉となって溢れ出す。 先輩の切れ長の瞳が、眼鏡の奥で驚きに大きく見開かれた。 その隙を逃さず、僕はさらに距離を詰めた。 僕の三十六・八度の体温が、先輩の三十五・八度の領域を浸食していく。
「……なんだ、それは。非合理な……」
先輩が、逃げるように視線を逸らそうとした。 けれど、その動きを封じるように、僕は彼を見つめ続けた。 沈黙が、静かな火花を散らしながら二人を包み込む。 オフィスの喧騒が遠のき、僕たちの心拍数だけが、アナログ時計の秒針を追い越して加速していく。
不意に、先輩が深い溜息をついた。 それは、彼が築き上げてきた鉄壁の論理が、音を立てて崩れ落ちる音だった。
「…………。全くだ、お前は」
先輩が、ゆっくりと椅子を回し、僕と正面から向き合った。 そして、おもむろに手を伸ばすと、僕の首元のレジメンタルタイに指をかけた。 その仕草は、以前のような「指導」とは決定的に違っていた。
「なんだ…… 航太 、ネクタイがまた曲がっているぞ」
「え…………っ!」
心臓が、跳ねるどころか、一瞬止まった気がした。 呼ばれた。 あの夜、僕が熱に浮かされて呼んだ下の名前。 それを今、先輩は、僕たちの日常という光の中で、確かに口にした。
先輩は僕を自分の方へと強く引き寄せた。 ストライプ柄のドレスシャツの冷たい質感が、僕の熱い掌に触れる。 至近距離。 眼鏡越しに見つめる先輩の瞳には、冷徹さの代わりに、僕を射抜くような、強烈で甘美な独占欲が渦巻いていた。
「……俺の計算を、ここまで狂わせた責任は、取ってもらうぞ」
先輩の低い声が、僕の鼓膜を熱く痺れさせる。 ネクタイを締め直す彼の指先が、僕の首筋に触れる。 冷たい。 けれど、その場所から火がつくように、僕の熱が先輩へと流れ込み、先輩の冷たさが僕を侵食していく。
僕の三十六・八度と、先輩の三十五・八度。 混ざり合い、溶け合い、やがて一つに溶けていく。
「……熱いですね、先輩」
「……お前のせいだ。……三十七度。ちょうど、微熱くらいの温度だな」
先輩が、僕の耳元でそう囁いた。 もう、僕たちの間を隔てる「壁」はどこにもない。 窓の外、四月の澄んだ空気の中に、新しい、二人だけの季節が始まろうとしていた。
僕たちの温度が収束する、心地よい三十七・〇度の熱の中で。
完。
