脚立に手をそえて|短編
花火の夜、水着のままで。
第一章 今年も
玄関の扉が開く。
「いらっしゃい。」
薄いグレーのパーカーを羽織ったこはるが笑う。
「暑かった?」
「今日も暑いね。」
部屋へ入ると、冷房の涼しさにほっと息が漏れた。
「スイカ切ってあるよ。」
「楽しみにしてた。」
こはるは冷蔵庫からスイカを取り出し、ベランダへ向かう。
途中で足を止め、部屋の隅に置いてあった脚立を抱え上げた。
慣れた手つきで広げる。

カチッ
金具の音が、小さく響く。
思わず笑った。
「今年も出すんだ。」
こはるはきょとんとした顔をしてから、小さく笑う。
「出さないと始まらないもん。」
こはるはそう言って笑った。
それだけ。
脚立へ腰を下ろすと、こはるは空を見上げる。
「やっぱり暑い。」
パーカーを脱ぐ。
夜風が肩をなでる。
青い水着が現れる。
言葉が出ない。
こはるはそんな私を見て、少し照れたように笑った。
「今年も。」
それだけ言って、脚立の上で膝を抱える。
遠くで、一発目の花火が夜空へ昇った。
第二章 聞いてもいい?
一発目の花火は、思っていたより遠かった。
遅れて届く音が、夏の夜にゆっくりと溶けていく。
「始まったね。」
こはるは脚立に座ったまま、空を見上げる。
「うん。」
私も手すりにもたれ、同じ夜空を見た。
しばらくは、どちらも何も話さなかった。
大きな花火が咲くたび、街のあちこちから歓声が聞こえる。
その声も、ここまで届く頃には少しだけ丸くなっていた。
こはるがスイカをひと口かじる。
しゃり、と小さな音がする。
「甘い。」
「当たりだったね。」
「今年はいける気がしたんだ。」
「そんなの分かるの?」
「なんとなく。」
そう言って笑う。
その笑い方まで、去年と同じだった。
風が吹く。
昼間の暑さは少しだけ遠のき、肌をなでる風が心地いい。
脚立に座るこはる。
青い水着。
この景色を、私は何度見てきただろう。
去年も見た。
その前も。
たぶん、その前も。
毎年見ているのに、一度も聞いたことがなかった。
どうしてなんだろう、と。
花火がひとつ、大きく開く。
その光が消えてから、口を開いた。
「……聞いてもいい?」
こはるがこちらを見る。
「ん?」
「なんで毎年、水着なの?」
こはるはすぐには答えなかった。
手にしていたスイカをもうひと口かじる。
少し笑って、小さく首をかしげる。
「……変だと思ってた?」
「思ってた。」
正直に答えると、こはるは吹き出した。
「だよね。」
二人で少し笑う。
笑い声が止むと、不意に静かになった。
こはるは少しだけ視線を泳がせる。
そして、手にしていたスイカをこちらへ差し出した。

「はい。」
「え?」
「食べて。」
「ごまかした?」
そう聞くと、こはるは困ったように笑う。
「……ちょっとだけ。」
受け取ったスイカをかじる。
しゃり、と小さな音が夜風に溶けた。
「聞いても、笑わない?」
「笑わない。」
こはるは小さく頷く。
何か言おうとして、私を見る。
目が合う。
「……。」
ふいっと横を向く。
「……もう。」
「もう少しあとで。」
頬を少し赤くして笑った。
その横顔を、もう一度花火が照らした。
第三章 帰ってきた風
花火は、一発ずつゆっくりと夜空を染めていた。
大きく咲いて、静かに消える。
その繰り返しを、二人で眺める。
こはるは脚立に座ったまま、膝の上でスイカを持っていた。
私は手すりにもたれ、残った一切れをかじる。
しゃり、と音がした。
「今年の花火、大きいね。」
「去年より?」
「そんな気がする。」
こはるは笑う。
「毎年そう言ってるかも。」
「言ってる?」
「たぶん。」
顔を見合わせて笑う。
笑い声が消えると、また花火の音だけが夜に残った。
風が吹く。
昼間の熱を少しだけ残した風だった。
こはるは髪を耳に掛け、目を細める。
「この風。」
ぽつりと言った。
「好きなんだ。」
「夏だから?」
少し考えてから、首を横に振る。
「ううん。」
また風が吹く。
「帰ってきた風。」
その言葉だけが、夜風に溶けていく。
聞こうとして、やめた。
きっと、あの「もう少しあとで」の続きを待てばいい。
そう思った。
しばらくして、こはるが小さく笑う。
「……海で遊んだ帰りってね。」
そこまで言って、夜空を見上げる。
大きな花火が開く。
その光を最後まで見届けると、こはるは首を振った。
「やっぱり、もう少しあとで。」
スイカをひと口かじる。
しゃり、と小さな音がした。
私は何も聞かなかった。
夜空には、また新しい花火が咲いていた。
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