#22 喜びとしてのイエロー
あなたに逢えた、それだけでよかった。
「夏」と一言聴き、数多の象徴が浮かんでは、煙になって消えてゆく。西瓜、花火、面積が著しく狭い、もはや隠すものも隠せていないのではないかという水着―
寄せては返す思考の波の中、砂浜の上に残ったのは、「向日葵」の一言だった。
夏の夜の真ん中、月の下。私はこれを綴る。
日廻、あるいは、向日葵。私はこの花が好きだ。この「好き」という感情は、私の脳を蝕み、純粋なる私の恋愛をも飲み込んだ猥雑なものではなく、ただ単に私は向日葵という花に魅力を感じているだけである。灼熱に包まれる大地で、ただ一人として太陽を向いている。素肌を貫くような焼け焦げる夏の陽射しに立ち向かい、荒野に咲き誇る様には、思わず拍手喝采を送りたくなる。とはいえ、向日葵には耳などないので、その一連の動作に意味など見出すことができないのだが。
私が向日葵を好きになる要因の一つとして、ゴッホの存在が挙げられるだろう。前提として私は、テレビゲーム内でのアイテムの由来がゴッホのものであったことをルーツとし、ゴッホの作品を高く評価している。どうやら今年の夏に彼の作品が日本へと来訪するらしい。それをこの眼に焼き付けるべく、福島に行きたいと母親に熱弁したが、折悪しく彼女はゴッホをさほど評価していない写実的な人間であったため、いとも容易く断られてしまった。
そんなゴッホを愛する私であるが、その中でも有数の評価をしている作品がある。それが、「ひまわり」である。もっとも、ゴッホは生涯に渡って複数回にわたって「ひまわり」を描いており、ここでの「ひまわり」は、1888年に描かれたとされている、「5本のひまわり」またの名を「芦屋のひまわり」とさせてもらう。私が初めてこの作品を見たとき、私の頭から爪先まで衝撃の稲妻が迸った。背景の濃淡な青と、散る間際と思われる向日葵の鮮やかな黄。この補色の関係性が、互いを引き立てている。空と海が交じったかのような彩りだ。うねる筆跡、油絵の具の厚み、すべてが一体となり、「フィンセント・ファン・ゴッホ」というひとつの光に満ちた世界観を作り出している。太平洋戦争で焼失し、現存しないことさえも、散りゆく花弁のごとく美しいと感じてしまった。
これ以降、花など虫同然の扱いをし、花壇を踏み荒らしていた少年こと私は、「向日葵」に対して妙な特別感を抱くようになったのだった。
「向日葵」の特別さならば、「葵花向日」という四字熟語があることも語るべきであろう。「葵花向日」とは、向日葵が太陽に向かって真っ直ぐと咲く姿から、雑念を捨て、目標に向かってひたむきに向かうさまを意味している四字熟語だ。「花」から転じた四字熟語とは、世にも珍しく、たいそう誇らしげな意味を持っている。この熟語を創った詩人は、どのような想いを言の葉に込めたのだろうか。そこからすると遠い未来と呼べる今、その意味などついに知ることもないが。ただ、桃色の雑念に溢れた捻くれ者の私とは正反対の言葉であることだけは分かる。きっと私が来世に向日葵になったとて、太陽とはそっぽを向き、蜷局を巻きながらうねうねと成長するに違いない。花弁は黄色ではなく、烏揚羽の翼のように一点の光もない漆黒となるだろう。
そのように、「美しさ」「情熱」の象徴として崇められている向日葵であるが、意外にも、花言葉が「偽りの愛」であることがまた興味深い。どうやら、向日葵は花の色、本数、花の大きさによって花言葉の意味合いが変わるらしく、「偽りの愛」という花言葉は、花が大輪であるときに適応されるようだ。花の大きさなど、夢や胸にしかり、大きければ大きいほどに妙妙たるものだと考えていたのだが、その花々の蜜の如く甘い理論は、不正解の文字に塗り替えられた。人生は、予想と失敗の連続である。そう私の心は呟いた。
しかし、そんな憂いを帯びた向日葵の花言葉も、本数と色次第で、喜びとしての愛の言葉へと変貌する。特に、本数が12本だと、「恋人になってください」という告白の言葉へと意味が変化するようだ。一途な私にとってなんと適した言葉であろうか。もっとも、私なら道中で5本ほど枯らしてしまいそうだが。
残ったその7本の向日葵を渡すなら、共にこの一言を添えるだろう。
「冷たい水をください。できたら愛してください。」
