見出し画像

自問自答

本当に欲しいものは何なのか。
本当に大切なものは何なのか。
それを求めることで何を得ようとしているのか。
それは本当に相手のためなのか。
自分の不安をそこに映し出しているだけではないのか。
欠けていることに目を向けすぎていないか。
既にあるものの尊さを忘れていないか。
見えていない部分をなぜ信じられないのか。
本当は何もしなくても既に完璧なはずなのに、なぜ足りないと思ってしまうのか。
なぜまるごとそのままを完璧だと思えないのか。
そもそも完璧とは何か。
どの状態になったら完璧だと感じ満足するつもりなのか。
あなたはあなたのままでいいと本気で思いながら、自分に対してはどうしてそう思えないのか。
相手のことを好きだと思いながら、自分のことはどうして好きだと思えないのか。
今ここにないもののことを優先し、目の前のことを疎かにするのはどうしてなのか。
無いものを在ると思い込んでしまうのは何のためなのか。
見えるものを見ないことで何を得ようとしているのか。
何をそんなに恐れているのか。

あれこれあれこれ考えても、自問自答を続けても、なかなか自分を救うことができず、一人で立つことがしんどくて、すぐに人に寄りかかりたくなってしまう。でも上手く寄りかかることすらも出来ずに、転ぶ。怪我をする。

あなたはそのままで十分に素晴らしい。
あなたはそのままで十分に素晴らしい。
あなたはそのままで十分に素晴らしい。

何度そう言ってもらっても、頭ではきっとそうなのだろうと理解したつもりになっていても、自分以外のすべての人に対しては心からそう思えるのに、その「あなた」の中にどうしても自分がしっかり入ってこない。片足入れて、でもまたすぐに出てしまう。その繰り返し。

私が漠然と思ってきたことを全て説明し言語化してくれている!!と心底共感し尊敬している教育者の方のネットラジオを最近よく聴いていて、その中でぐるぐると考え続けている思考、その中での自問自答の一部を書き出してみた。



自分は生きているだけで迷惑だから、死んだ方がいいのだろうと思っていた幼少期から二十代の頃までとは今は違う。変わったと思う。死んだ方がいいとは思わなくなった。でも、それでも、また自分の価値を信じられなくなり、自分の存在意義が見出せないと感じることがしょっちゅうある。

子どものことを真剣に観察し子どもに寄り添うということを、表面的ではなく本気で当たり前のようにやっている教育者の方のそのネットラジオを聴いていると、教育、子育てに関わる者として心底共感するし、ものすごく勇気づけられて励まされる一方で、なんで私は子どもの頃にこういう風に心ある大人に大切にしてもらう経験を出来なかったのだろう?と考えてしまう。そんなに特別なことではなくて、ただ、自分の気持ちを尊重して、分かろうとしてもらえていると感じる経験、心と体を絶対に守ろうとしてもらっているのだと感じられる経験が、本当に少なかったと思う。家庭でも学校でもずっと否定され続けていたし、居場所がなかったし、安心というものがなかった。

自分なりに頑張っても頑張っても裏目に出ることばかりで、どうしたらいいのか分からず、いつも途方に暮れていた。そしてそんな私はまた怒られた。ちゃんとしなさい。そんなことでいちいち泣かないの。言うこと聞けないなら叩くよ。お前は学校くんな、しねよ。そんな言葉を浴びせられたのは何でだったんだろう。「しねよ」と同級生たちから言われたとき、さすがにそれにはショックで、勇気を出して先生に相談したけれど、先生は「あいつはそんなこと言うやつじゃないよ。」と私の言うことを信じてくれなかっただけでなく相手の肩を持ってしまい、私に起こった事実は無かったことにされた。あれはどうしてだったんだろうか。結局そのときはもうそれ以上友達にも大人にも誰にも相談できず、途方に暮れたまま気づいたら大人になっていた。

今の大人の私が子どもの私の近くにいたら、「周りの人の方が間違ってるよ。おかしいのはあなたではなく、周りの人たちだよ!」と心の底から言ってあげられる。本気でそう思うし、おかしいのはそんなバカな声掛けをするお前らだ!とブチ切れられる。

でも、私のために本気でブチ切れてくれる大人は、大学生の頃お世話になったカウンセラーさんに出会うまで、いなかった。



学生時代からずっと教育に関することを学び、実践してきて、我が子の子育てにもそれを生かしてきている。幸いにも我が子たちは発達凸凹や不登校などいろんなことはありつつも比較的まっすぐに育っていると思う。少なくとも、自分自身のことを子ども時代の私みたいには嫌ったりとかはしていないと思うし、ましてや「自分は消えてなくなるべき」などとは思っていないと思う。思春期でいろんな葛藤や揺れはあるだろうし、私に対する苦情や不満も色々あるだろうけれど、自分はこれでいいんだとある程度信じられる人たちに育っていると思うし、それは本当に良かったと思う。

でも、そうやってちょっと安心すると同時に、私は子どもたちの自己肯定感の高さをとても羨ましく思う。羨ましいを通り越して、ときどき妬ましいような気持ちにもなる。

「子育ては自分育て」とか、「子育てを通して自分と向き合う」なんてことを言われたりする。本当にそうだと思うし、私はそれを日々の暮らしの中で強く感じている。でも、私の中の「子ども」の自分を、どうやって育てていったらいいのか。「子ども」の自分を、どうやって助けたらいいのか。

私の中にいる「子ども」の自分を育てる「子育て」が、子育てにおいて何よりも一番難しい。

ずっと、常に、自問自答。
前を向いては後ろに逃げて。
悟った気になっては、また絶望して。
その繰り返し。

私が欲しかった「親」を自分でやるたびに、「子ども」の私がまた苦しくなるのは、どうしたらいいんだろう。子どもたちをいつでも安心させたい、幸せでいてほしいという気持ちは本当で、心の底からの願いだ。でもそんな気持ちを我が子に向けて、言葉や態度で真剣に伝えるたびに、私の孤独が増してしまう。我が子と真摯に向き合うたび、我が子が安心した顔を見せてくれるたび、嬉しいだけではない、悲しい気持ちに押しつぶされそうになる。私も、守られたかったなぁ…と。

人生の修行、キツいなぁ。



※見出し画像は、たぶんまだ絶望してなかった頃の私。面影も当時の記憶も皆無。





これは少し前に書いて下書きに入れていた記事です。書いたときは私の中で生々しすぎて、公開するか迷ってそのままにしていたんだけれども、そういう自分も大切にしてあげなきゃと思ったので、公開します。

やるべきことが多すぎて多忙&そんなこんなで余裕が無くなりすぎての心身の疲労のため、noteをあまり開けず。皆さんの記事をなかなか読みに行けていませんが、またふらっと読みに行きます。

最近ずっと心にかかったままになっているモヤモヤを、なんとか発散したいっ!


いいなと思ったら応援しよう!