見出し画像

第十一夜

  放課後の校舎というのはよく小説なんかで描かれる事が多い。沈みゆく夕陽の茜色に染められた廊下やそこに響く吹奏楽部の奏でる音色。運動部の掛け声やまばらに帰る生徒達。そのどれもがゆったりと流れていく。
  それは今日も変わらない。ただ人は何時もより多く、校内はざわりざわりとした喧騒に包まれていた。その理由は大きく貼り出されたポスターを見れば分かる事だ。文化祭である。皆Tシャツを着て制服の袖を捲り、忙しそうにあちらこちらを走っている。笑顔に夕陽は反射して眩しい。
  だがその音達も校内全てに満ち溢れている訳ではない。その証拠にただでさえ人が来ない理科棟の1階奥にある美術室は大変静かなものだ。絵の具やニスなんかの匂いが混じって独特の香りが漂う室内は薄暗く、蛍光灯は消されてオレンジ色のランプが作業台の上に灯っている。
  その灯りを挟む様にして2人の人物が座っている。片方は脚を組んで本を読み、もう片方は俯いて何かを一生懸命に書いている。
  「さっきから何書いてんの?」
  脚を組んで本を読んでいた方が何かを書いている方に尋ねる。短い髪に涼し気な目元が特徴的だ。少し短くしたスカートから伸びる長い脚はコックリコックリと揺れている。
  「そりゃもちろんオベンキョーですよ。」
  訊かれた方が答える。腕捲くりをしたシャツがズボンから飛び出ており、全体的にモサッとした印象である。色白の肌に浮き出る青髭がその印象を強くしているのだろうか。彼はさっきから何かをひたすら書いている。
  「嘘つけ。沢田勉強嫌いじゃん。」
   彼女は面白そうに笑いながらサラリと自分の髪を撫でた。
  「嫌いだなー。出来れば一生関わりたくないな。」
  からからと笑いながら沢田と呼ばれた男子生徒はそれでも顔を上げず何かを書き続けている。
  「じゃあ何でオベンキョーしてんのさ。」
   沢田はまだ笑っている。
  「だってさー。やらんといけないじゃん。」
  「そりゃそうだけどさ。」
  「てか金子こそ大丈夫なのかよ。クラスの準備も塾もサボってこんな所でウダウダしててさ。」
  金子は苦笑する。
  「私がいなくてもクラスは回るし、塾は体調不良で休んだ。」
  「大した優等生だな。さすがだぜ。」
  「でしょ?沢田に負けられないからね。」
  軽い皮肉に軽妙な軽口で返す。2人のやり取りはスムーズなキャッチボールの様に滞りなく行われる。
  「何読んでんの?」
  「夢十夜。」
  「まーた。堅いの読んじゃってさ。」
  「なんか家にあったんだよ。」
  「面白いのか?」
  「うーん。普通。第二夜が印象的だったかな。」
  「へー。読んだ事ねーな。」
  「国語でやってたぞ。」
  「そうだっけか?」
  「お前脳みそだけ鶏なのか。」
  「んな訳…で、どんな話なん?」
   同級生らしい他愛もない会話が弾んでいる。金子は度々脚を組み直す。沢田は動きすらしない。
  「まじでさっきから何書いてんの?」
  「秘密のアッコちゃん。」
  「古すぎだろ。何歳だよ。」
  幾度か金子は沢田に彼が書いているものの内容を訊く。しかし沢田はその度に面白くないジョークで金子にツッコませ、のらりくらりとかわす。金子は段々と煙に巻かれている様な気分になってきた。日は傾いて既に夜闇が美術室の半分を埋め尽くしている。蛍光灯が点けられる事はなく、作業台のランプが橙色に輝き薄暗い室内を灯している。夢十夜はその光が届くか届かないかの所に追いやられ金子はもはや沢田に質問する気力もないといった様子でぼうっと沢田の少し若白髪混じりの頭を見たりなんかしている。
  「本は読み終わったん?」
  「え?」
  沢田から質問されるとは考えていなかった。金子は豆鉄砲を食らった鳩もかくあらんといった感じの顔で沢田を見る。黒目がちな目がこちらを見ていた。
  「ごめん。何て?」
  訊き返しながら金子は不思議な感覚を憶えていた。今日、いや初めて沢田と自分の目が合った様な気がした。そしてもう二度と合う事も無いように思われた。
  「いや、金子ぼうっとし過ぎだって。本は読み終わったのかって訊いたの。」
  「あ、ああ。いや、もうやめた。」
  「へー。面白くなかったの?」
  「なんかつまんなかった。どれもおんなじような話だしさ。本読むのもあんまり好きじゃないし。」
  「あーそうなんだ。意外。結構本読んでるイメージだったし。」
  「あれは全部親が書いた本だよ。読んで感想聞かせろって煩いんだ。」
  「お母さん作家さんだっけ。」
  「そうそう。三度の飯より仕事が好きな人。」
  「へー。嫌だとか言わないの?」
  「言えると思う?」
  「いや知らんけどさ。嫌な事を嫌々やるのってキツくね?」
  「うーん…」
  「好きな事やった方がいいぜ。」
  「そうかな…」
  「そうそう。金子なんかやりたい事ないの?」
  「うーん…」
  「あ、作家とかは?お母さんみたく!」
  フッとランプが点滅した。風が吹いた時のろうそくの様である。そうして乾いた音が響いた。
  「あ…あ…」 
  金子は声にならない声をあげる。沢田は黙ったまま赤くなり始めた頬を押さえている。金子は信じられないといった顔をしていた。自分は優しくて温厚な方だと自他ともに認識しされていた筈だった。
  「ごめん…」
  絞り出された様な声で沢田がポツリと呟いた。そうしてまた黙り込む。
  「何を…書いてたの?」 
  正直言って金子は自分に驚きを隠せなかった。こんな時まで沢田が何を書いていたか気になるなんて甚だ頭がどうにかしていると思った。さっきからあんなにはっきりと見えていた自分が何やら大層不透明なものの様に感じられた。いや、最初からそんな自分はいなかったのかもしれない。
  「これ…」
  沢田は一枚の紙を金子に差し出した。
  「……お前美術できたっけ?」
  そんな間抜けな質問しか出てこない程には頭が回っていなかった。目の前には鷲の上半身とライオンの下半身を持った生き物が描かれていた。目は鋭く一点を見つめ、やや前傾姿勢となっている。翼は持ち上げられてその中に風を閉じ込め、今にも空へと舞い上がりそうな気配である。後ろ足は一歩を踏み出そうとしており、先端が広げられた翼とも相まってさながら離陸10秒前といった様子だ。
  「昨日夢に出てきたんだ。それで今なら描けるって思ったんだよ。」
  「うん…」
  金子は言葉も無い様子であった。信じられないという眼差しで絵を見つめている。絵というよりはスケッチといった案配なのだが金子の目にはそれは絵であった。
  「どんな、夢だったの?」
  「いや俺さ夢の中でもドジなのな。落とし穴に嵌ってジタバタしてたのよ。もがいてももがいても出れなくて、もう駄目かなとか思いながら叫んだりバタバタしたりしてたらさ、いきなりそいつが現れて俺を背中に乗せてくれた訳。高くて綺麗な山の中で美味しいもの一杯食べてさ。めちゃくちゃ良い夢だったわー。」
  幸せそうに目を細めてその夢とやらを思い出している沢田に金子の表情は見えていなかった。何せランプは一台しかない。もう夜である。
  「それでさ。いきなり、なんだけどさ…俺、藝大目指してみようかなって思うんだよねー。」
  弾かれた様に金子は顔を上げた。だが沢田は逆に恥ずかしそうに下を向いてしまった。目はもう合わない。
  「いや分かってるよ。俺勉強も絵も天才でも何でもないし、今までぼんやり生きてきたから何処まで行けるのか分からない。だけどさ、今日必死になってその絵を描いている時めちゃくちゃ楽しかったんだよ。本当に。俺、生きてんだなーって感じたの初めてかもしんなくてさ。それでどうせ俺ら来年受験だろ?だから何処まで行けるかを考えるんじゃなくて行けるとこまで行ってみたいって思ったんよ。」
  金子はもう聞いていなかった。今にも倒れてしまうのじゃないかという位に足が手が身体が震えている。目も耳も鼻もぼやけて何にも感じなくなっていた。ランプの僅かな灯りは彼女の目の中で消えかけていた。彼女は黙って床を睨みつけていた。震えを抑えようと掌に爪を立て力を入れて大地に倒れまいと踏ん張っていた。
  「あ、あのさ。夢の話終わりじゃないんだ。」
  もうやめてくれ。そう言いたかった。だがもはやそんな事を言える程口が動かない。
  「夢にさ。金子が出てきたんだよ。」
  倒れてしまったら保健室に運ばれてしまう。親に怒られる。
  「小さな舟乗ってんだけどさ。俺が幾ら呼んでも気付かないのよ。結局グリフィンが雲の上に行っちゃって見えなくなっちゃったんだけどさ。」
  それは多分気付かなかったのではない。気付かないフリをしたのだ。
  「……」
  「金子?大丈夫?顔色悪いよ?」
  「だいじょうぶ…」
  「いや凄く体調悪そうだよ?保健室行く?」
  「やめて!!」
  今日は驚いてばかりだ。驚くのは昔から嫌いだ。サプライズなんて要らない。心臓に悪いし反応に困るからだ。
  「ひとりに、させて…」
  思ったよりドスの効いた有無を言わさぬ声が出た。今度は驚かなかった。
  「お、おう。分かったよ。飲み物か何か買ってくるわ!!あ、この絵あげるよ!金子の夢にも現れるかもしれないぜ?」 
  慌ただしく美術室の扉が開閉し室内には静寂が訪れた。ランプはいつの間にか消えていた。真っ暗だ。夜である。金子は椅子に腰掛けて頬杖をつき、沢田の残していった絵を見た。見れば見る程この世界に本当にいたのではないかと思える。グリフィンがいようがいまいが夢でも現実でも私の所には来ないだろうなとニヒリズム的微笑を浮かべ彼女はまた絵を眺める。
  目がおかしくなったのだろうか。繰り返し擦り、頬をつねっても何も変わらない。机の上、紙の中にグリフィンがいた。動いている。夢ではない。目に光が宿り、後ろ足を小刻みに動かしている。羽の一枚一枚が生命あるものの様に揺れている。誰が何時の間に開けたのか窓が真っ暗な外と部屋を繋いでいた。
  窓を見ていた彼女の前をグリフィンが飛んでいった。翼を小刻みに大きく広げて風を受け、一声高く鳴くと暗闇に吸い込まれた。後にはただ2枚の白紙が残るだけであった。

いいなと思ったら応援しよう!