29. 量子の謎は、なぜ解けないのか
——ヌーソロジーから見た「見えの空間」と「言語(説明)の空間」の反転構造
―フッサール、ベルクソン、ハイデガー、メルロ=ポンティ、ドゥルーズを通して―
量子力学は、現代科学の最前線でありながら、いまだに「何を記述しているのか」がはっきりしない理論でもある。波動関数とは何なのか。観測とは何か。なぜ重ね合わせは観測によって一つの結果へと収束するのか。局所を観測しているはずなのに、なぜ非局所性のような現象が現れるのか——。
物理学はこれらのメカニズムを精密に計算することはできるが、いかんせん、その意味になると急に足元が曖昧になり、口ごもらざるを得ない状況に陥る。量子論の解釈論争が長く続いてきたのは、そのためである。
ヌーソロジーは、この問題に対して、かなり強い仕方で切り込んで行く。まずは、前提となっている量子=物理的対象という見方を止めること。この切り替えが重要だ。量子の謎は、ミクロな粒子の振る舞いが奇妙だから生じているのではない。そうではなく、人間が「見えの空間」と「その見えを説明する空間」とを取り違えていることから生じている。そういう考え方をする。言い換えれば、量子の謎とは自然の側の謎である以前に、認識の自己矛盾なのである。
この立場は、別にヌーソロジーの専売特許というわけでもない。
20世紀の哲学は、さまざまな角度から、すでに近代的な主客図式の限界を暴いてきた。フッサールは客観主義や科学主義が生の世界を覆い隠すと批判し、メルロ=ポンティは知覚が単なる外界入力の処理ではないことを示し、ハイデガーは世界を対象の総体として捉える近代的な存在理解そのものを問い返した。ベルクソンは「脳が表象を作る」という図式を根底から疑い、ドゥルーズは差異を同一性よりも先に置いた。これらはみんな方向としては、ヌーソロジーの世界把握の仕方に近い。ヌーソロジーはこうした存在論系の哲学者たちの思考をさらに一歩進め、見えの空間=人間の外面/それを説明する他者視点化空間=人間の内面という反転構造として、描像可能な幾何学的構成に置き換えようとする。

1.最初にあるのは「外界」ではなく、「見え」である
私たちはふつう、世界が自分の外に先に存在していて、それを目で見て、脳で処理していると考えている。しかし、厳密に言えば、この順序は前提の時点ですでにおかしい。
なぜなら、私たちにとって最初に与えられているのは、外界そのものではなく、見えていることだからである。
空、机、他人の顔、脳、身体、教科書、顕微鏡像、数式。これらはすべて、まず「見え」の中に現れている。
つまり、経験の一次的な位相において先にあるのは、客観空間としての世界ではなく、世界が現れているという、この現象という出来事の方である。
この点でフッサールが行った仕事は決定的だった。彼は現象学を、第一人称的に与えられる経験の構造を問う学として立て、生の世界が科学的客観化に先立つ地平であることを強調した。さらに彼は、還元主義・客観主義・科学主義に対して批判的であり、科学的な世界像そのものが、そもそも生の世界を前提にしていることを示した。
ヌーソロジーはこの洞察を受け継ぎつつ、さらに構造的に踏み込む。自己視点において開かれているこの「見え」の空間こそが、人間の外面(図1のブルーの波線で示した空間)である。ここで言う人間の外面とは、決して心理学的な「外向性」のことを言っているのではない。また、身体の外に広がる物理的空間を意味するのでもない。それは、世界が現前している知覚の場、そのものを指している。
重要なのは、この"人間の外面"が意味することが、近代の意味での「外界」とは違うことだ。私たちが通常「外界」と呼ぶものは、すでにかなり理論化され、客観化された概念である。ヌーソロジーが言う"人間の外面"は、それ以前の、もっと根源的な位相にある。それは、世界がまず見えとして立ち上がっている場所のことなのである。
2.「脳が見えを作る」という考えは、なぜ転倒しているのか
現代人にとって、もっとも自然に思える意識の説明の一つが、「見えは脳が作っている」というものだ。光が網膜に入り、神経活動に変換され、脳内で統合され、その結果として視覚経験が成立する。
機能的な説明としては、これは非常に強力である。多くの検証がなされ、今では意識の細かい脳内マッピングまでできている。だがヌーソロジーが問うのは、その説明がどの位相で行われているかである。
脳を説明対象として語るためには、すでに脳が世界内の一対象として見えていなければならない。MRI画像も、解剖図も、神経科学の論文も、まずはすべて「見え」の中にある。つまり、脳は見えの外に立って見えを作る原因ではなく、どう見ても、見えの中に現れている対象にすぎない。
この点でベルクソンが言ったことは極めて重要である。『物質と記憶』において彼は、脳を表象の製造工場のように考える見方に批判的であり、脳をむしろ行為の選別や調整の器官として捉えようとした。少なくとも、脳が世界像を「内側に再製造する」という素朴な図式は、ベルクソンにとっても十分な説明ではない。
ヌーソロジーはここで、ベルクソンの批判をさらに先鋭化する。つまり、
見えは脳の中にあるのではない。脳の方が、見えの中にある——この一文で、近代的認識の足場は一気に反転を余儀なくさせられる。
そして、この反転の事情がわからないまま量子力学を読むと、波動関数も観測も重ね合わせも、すべて「外界のどこかで起きている不思議な事件」として読まれてしまう。だが本当は、そうした量子的現象は見えが一つの客観的表相として固定される以前の構文に関わっている前ー客観性の空間での出来事なのである。つまり、量子の奇妙な振る舞いの謎は、自然の奇妙さというよりも、人間の世界認識のあり方の問題として姿を現す。
3.メルロ=ポンティが示した「知覚は表象ではない」という地点
メルロ=ポンティは、知覚を「外界の印象が内面に写し取られる過程」とみなす考えに強く反対した。彼にとって知覚は、身体を通じた世界への開かれであり、世界ははじめから意味ある場として経験される。決して、外的世界が主体へと刻印されているわけではないのだ。
この点で、メルロ=ポンティの言っていることはヌーソロジーにかなり近い。なぜなら彼もまた、世界がまず外部対象としてあって、それを内なる意識が受け取る、という図式を崩しているからである。知覚は、世界に対する受動的なコピーなんかではなく、身体化された存在との関わりである。彼の哲学の中では、私たちは世界の前に立つ抽象的意識などではなく、すでに世界に巻き込まれた生きた身体なのである。
ただし、ここでもヌーソロジーはもう一段、独自の構造化を行う。メルロ=ポンティでは、身体は世界への開かれの中心に位置するが、ヌーソロジーはそこに自己視点/他者視点化という構文的分岐をはっきりと持ち込む。すなわち、
自己視点の知覚野に立ち上がる見えの空間
その見えを、身体・脳・神経機構の働きとして外側から説明する他者視点化した空間
この二つをきっちりと峻別するということだ。そして、このとき区別れた後者のほうを、人間の内面と呼ぶ。
ここで注意したいのは、ヌーソロジーにおける「人間の内面」が、ふつうの心理学で言う「心の中」という言い回しとは逆になっているということだ。
一般には、感覚や見えは「内面」に属し、物理世界は「外面」に属すると思われている。
しかしヌーソロジーでは逆である。
見えがあるのは外面であり、見えを脳内表象として説明する概念空間が内面なのである。
この外面と内面のねじれが、多くの人にとってヌーソロジーをわかりにくくしている最大の理由だろう。だが、量子の謎はまさにこのねじれの地点に発生している。
4.ハイデガーが批判した「世界を対象の総体として見ること」
ハイデガーは、近代の世界理解が、世界を対象の総体として前に置き、主体がそれを表象・把握する、という枠組みでできていることを強烈に批判した。この批判は、量子論の問題にも深く関係している。
ハイデガーの文脈から言えば、量子論が解釈困難なのは、私たちがなおも世界を「すでにできあがった対象の集合」として見ているからである。もし世界が最初からそういうものなら、観測とは単に対象の性質を読み取る行為になってしまう。だが量子力学では、観測が状態の確定に絡み込んでくる。
これは、世界がすでに対象の総体として出来上がっている、という前提そのものが揺らいでいることを示す。
ヌーソロジーは、ここでハイデガーのこの批判をさらに先へと押し出す。
量子論の困難は、「対象をどう観測するか」の問題ではない。
そもそも、対象が対象として立ち上がる以前に、見えの空間と、それを説明する空間が互いに反転して構成されているのである。これもまた人間の外面と内面の関係である。目玉は見えないのに、あたかも目玉が世界を見ているという形でしか「見え」を説明できない。そこに目玉と世界という主客関係がセットされるのである。
ハイデガーは、世界内存在としての人間は主客図式に先立って存在していることを示した。ヌーソロジーは、その先を読み、こうした世界内存在が近代的客観性へと変換された理由を、他者視点化の空間構文として明らかにしていく。そして、この構文変換の見落としが、量子の謎として浮上しているだけなのだと考える。
5.ドゥルーズの「差異が先で、同一性は後」という考えとの接続
ドゥルーズは『差異と反復』において、差異を同一性の従属物として扱う西洋哲学の長い習慣に異議を唱えた。ドゥルーズの狙いは差異を同一性に従属させない哲学を打ち立てることだった。ドゥルーズにとって、現実は決して固定的な同一性をもたず、絶えず生成・変化していく差異化の場であった。
このドゥルーズの考え方も、ヌーソロジーの量子解釈と非常に相性が良い。
なぜなら、ヌーソロジーは量子の重ね合わせや未確定性を「同一的な物質の奇妙な状態」と見るのではなく、一つの物質として固定される以前の差異的運動の場として読むからである。
ヌーソロジーから見れば、波動関数とはまず、外界の粒子の状態なんかではなく、見えがまだ一つの客観表相へと確定していない段階の差異の循環構造である。つまり、量子状態とは「物が曖昧である」というより、物になる前の差異が共存している状態なのだ。この意味で、ドゥルーズは量子の謎解きに対する非常に強い哲学的味方になる。
ただし、ここでもヌーソロジーは一歩前へと進む。
ドゥルーズは存在世界における差異の優位性を強調するが、その差異がどのように自己視点の見えと他者視点化された説明へと反転配分されるのかを、空間構文としては明示しない。〈他者ー構造〉という形で他者視点化された世界については語るが、その構造自体がまだ明確には彫塑されてはいないのだ。ヌーソロジーはそこを、見る/見られる、外面/内面、知覚空間/言語空間という形で、より幾何学的にSU(2)やSU(3)といった群論の概念を使ってより明確にしていく。
6.では、量子の謎は具体的に何が起きているのか
ここまでの哲学的整理を踏まえると、量子論の主要な困難は次のように読み替えられる。
波動関数
波動関数は、外部世界の小粒子の実在的状態というより、見えがまだ一つの表相へ固定される前の構文として読むべきである。
それは、対象が空間の中で「そこに一つある」となる前の差異的位相を表している。
観測問題
観測とは、単に対象の値を読むことではない。
それは、差異的な構造が一つの見えとして定着すること、つまり表相固定である。
だから観測者は、外から世界を眺める審判者ではなく、その固定に関与する構文的役割の位置付けになる。
不確定性
不確定性は、粒子の存在が曖昧だからではない。
それは、見るものと見られるものの分離がまだ完成していないことの痕跡である。
一方を厳密に定めようとすると他方が揺らぐのは、対象がそもそも固定済みの客体などではないからだ。
非局所性
非局所性は、「空間を超える不思議な遠距離通信」などではない。
むしろそれは、空間的分離そのものが二次的な構成であることを示している。
空間が先にあり、その中に粒子が配置されているという図式そのものが、量子のレベルでは自明ではないということだ。
これらをまとめるなら、量子の謎とは、見えの生成構文を、見えの中の物体の奇妙な性質として読んでしまったときに生じる錯誤だと言えるだろう。
7.ヌーソロジーが哲学者たちよりさらに踏み込む点
ここまで見てきた哲学者たちは、いずれも近代的主客図式の限界を見抜いていた、ヌーソロジーから見れば洞察力の深い哲学者たちである。
フッサールは、生の世界を忘却した科学主義を批判した。
ベルクソンは、脳内表象の素朴図式に疑問を投げかけた。
メルロ=ポンティは、知覚を身体的世界関与として捉えた。
ハイデガーは、世界を対象の総体として把握する近代的存在理解を批判した。
ドゥルーズは、同一性に先立つ差異の場を思考した。
ヌーソロジーは、これらの洞察をただ寄せ集めるのではない。
それらを、自己視点と他者視点化の反転関係として一つの無意識構造の地図として再配置する(ちなみに、その地図は「ケイブコンパス」モデルによって示される)。

見えがある場所が人間の外面(感性空間)
その見えを脳や身体の働きとして説明する空間が人間の内面(思形空間)
近代科学は、この人間の内面での認識を一次的現実と見なし、外面で起きている出来事をその内部での因果関係として読む(正確にはψ12領域)
量子論は、その読み方が破綻する地点への侵入である
この図式は、かなり過激ではある。だが同時に、量子論がなぜあれほどまでに「観測者の位置」をめぐって揺れ続けるのかを、非常に明快に示す。
ヌーソロジーの独自性は、このように、量子論を単なるミクロ物理の問題としてではなく、人間が世界をどのように外部化し、どのようにそれを説明のための言語空間へと反転させているかという、存在論的・認識論的問題として読むところにある。
8.結論 ―量子の謎は、観測者の位置の謎である
量子の謎は、自然の側にあるのではない。
それは、人間が自らの見えの構造を見失い、その見えを他者視点化された説明空間の内部で読み直してしまうことから生じている。
言い換えれば、量子の謎とは観測者の位置の謎なのである。
フッサール、ベルクソン、ハイデガー、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ。
彼らはみな、それぞれの仕方で、近代の世界像が自明ではないことを示した。
だがヌーソロジーは、その延長上でさらに、
見えの空間と説明のための言語空間との反転そのものを問題にする。
そして、この反転関係が明確にならない限り、量子の謎は原理的に解けないと主張する。
この主張は、単に物理学への異論ではない。それは、人間が何を「外」と呼び、何を「内」と呼び、どのように世界を成立させているのかを問う、根本的な思考様式の転回なのである。
ヌーソロジーから見るなら、量子力学は物質の最小単位を記述する理論である以上に、見えの起源と客観性の成立をめぐる、人間存在そのものの理論への入口なのである。
ヌーソロジーが量子の謎にこだわる理由も、まさにそこにある。
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