『詩の住む街 ⎯ イタリア現代詩逍遥』須賀敦子よりもやや現在に近い、イタリア詩人アンソロジーとエッセイ
『詩の住む街』という、魅力的なタイトルのついたこの書籍を僕が手に取ったのは、須賀敦子さんの全集(文庫版)に読み耽っていた頃でした。辻邦生さんのイタリア紀行文集『美しい夏の行方』を読み、その流れで同時期(2007年頃)に出版された文庫版須賀敦子全集に手を伸ばし、イタリアについておもいを巡らせていました。そうしたなか、ウンベルト・サバに影響されるような形で手に入れたのが本書でした(実はタブッキやパヴェーゼも初めて読んだのも須賀敦子さんの影響だったのだけれど、当時はどうもその良さが解らず、最近また読み直し始めたという次第。本内容とは関係ないけれど、本当にその本の良さが解るには時期がある、近頃そんなふうにおもっています)。正直なところ、詩についてはよくわからないのだけれど、そんな僕でもアンソロジーについてなら少しは語ることができるのでは、と、楽観的に考えています。
本書の著者、工藤知子さんと須賀敦子さんについて
須賀敦子さんの著書をお読みの方ならよくご存知だとおもいますが、ここでイタリアあるいはイタリア文学と言えば須賀敦子、と言うことにご不満の方はまずいらっしゃらないだろうとおもいます。それはもちろん、須賀敦子さんが自ら体験されたイタリアではあるけれど、いっとき、須賀敦子全集を端から読んで、僕はそのイタリアに憧れを持ったものでした。
須賀敦子さんは辻邦生さんよりやや遅れて1929年にお生まれになり、辻さんより1年早い、1998年にお亡くなりになっています。対して、本書の著者、工藤知子さんは、本書に掲載されている情報以外ネット上にも出てこないので明確にはわからないけれど、本書のエッセイから類推するに、須賀敦子さんよりは一回り以上年下の、ご存命なら現在80代になられるはずです。札幌でイタリア語とイタリア文学の講師をされていたそうで、なかでも詩人レオパルディに深く傾倒されていたようです。
このあたり、同じイタリア詩人でも須賀敦子さんはウンベルト・サバを、工藤知子さんはジャコモ・レオパルディを愛していらっしゃったということ、その違いはお二人の年代による差異なのかともおもうのだけれど、レオパルディがロマン派末期頃の詩人でサバが少なからずその影響を受けていたことを考え合わせると、あるいは逆もありだったのかも、とおもうと、やはりそこは出会いの妙というか、お二人の好みもあったのかもしれませんね。
ということで、須賀敦子さんの『イタリアの詩人たち(須賀敦子全集第5巻)』に出てくる詩人たちと本書に取り上げられた詩人たちとを比較すると、『イタリアの詩人たち』に登場する詩人たちがサバを始めとしてほぼ19世紀末期に生まれ、20世紀の中頃亡くなっているのに比べ、本書の詩人たちはだいたい20世紀初頭に生を受け、20世紀末から21世紀の初めにこの世を去っています。ただ、本書中、中には マリーア・ルイザ・スパツィアーニのように『イタリアの詩人たち』に出てくる エウジェニオ・モンターレの影響を大きく受けた人もいるけれど、ほとんどはレオパルディに感化された詩人たちです(もっとも、工藤さんによればイタリアでは(その当時は)レオパルディは教科書にも載せられるような国民的詩人で、イタリアで知らない人はまずいないというくらいだったそうだけれど)。なので、両作のあいだには何の関連もありません。
詩が難しいということ
だいたいにおいて詩というのは難しいものだと僕はおもっています。それは例えば本書のなかで、アンドレーア・ザンゾットという、イタリア詩人のなかでも難解と言われる人の作品を訳すにあたり、工藤知子さんも次のようにおっしゃっておられるのです。
難解な詩、当然じゃないか。詩はそもそも難解なのだ。人ひとりの精神は他の人の容喙(ようかい=横から口を挟むこと)を許さない砦なのだ。
加えて、日本とヨーロッパとではそもそも「詩」という文学の立ち位置が違う、というのは、『須賀敦子全集第5巻』の解説で池澤夏樹さんが次のように語っておられる。
(ヨーロッパでは)活字の前に朗読という点が大事だろう。なんといっても詩は読むものである以上に聴くものだからだ。
それに近いことは本書の「まえがき」において、レオパルディの詩を訳すにあたって工藤知子さんもこうおっしゃっておられます。
彼の(などとお呼びしたらレオパルディに失礼ですが)詩には、意味に重きをおいて訳すと、十代のウブな少年のただの恋文かと解されかねない質のものもあります(「シルヴィアに」)。
では何に重きをおき訳したら良いのでしょうか。
音とリズムだ、と思います。そして脚韻に目配りすることもわすれてはいけない。
では、原文で読むことが叶わないたいていの日本人はどうすればいいか? 多分それは、好きになることだとおもいます。須賀敦子さんの『イタリアの詩人たち』に選ばれている人の作品よりも、どちらかと言えば本書に取り上げられた詩人たちの作品のほうが、難解なものが多い。それは、言葉の壁云々を抜きにしても、日本人の詩だって現代詩人の作品のほうが、近代・昭和の人のそれより難しい傾向にあるのと似ているのでしょう。でも、一読解らなくても、その詩の持つイメージとかそういった点で、何となく好き、と思えるものが出てくるとおもうのです。例えば本書で取り上げられている、サンドロ・ペンナという詩人の短い詩(と、ここまで書いてきて、須賀敦子さんがその最後のエッセイで取り上げたのが彼だったということがわかりました。やはり、著作自体繋がりはなくても、両作の詩人のあいだが全く無関係ということはなかったようです。ちなみにサンドロ・ペンナはウンベルト・サバの知己を得たことで、世に出ることができたとのこと)。
この世にまだ美が在るのか?
おお、ぼくはやさしい顔立ちを指しているのではない。
駅で 酔いを満載して
遠い海岸線に目を走らせる若者を指して言うのだ。
「この世にまだ美が在るのか?」
翻訳ということ
海外作品はやはり原文で読むに越したことはない、特に「詩」においては。そうおもいます。でもそれができない者としては、訳者の力にお縋りするより術はない。工藤知子さんは本書のなかで、以下のようにおっしゃっています。
詩の翻訳は訳者の創作である、という説があります。しかし遠慮深いたちでもあり、わたしは、自分の解釈をおもてにだすと、なにかが壊れてしまうのではないかと恐れたのです。
そこで直訳を基調に、音とリズムを優先させたと。僕たち読者はそれを前提にそれぞれの詩に当たるより仕方がありません。もっと言えば、例えば家族をナチスに殺されるという衝撃的な体験をしたアメーリア・ロッセッリという人が、
かなたの残酷な日本があなたの祖国。
「むかしのギリシャ アンダルーザの花があった」より
と歌った一行に、僕たちは何をおもえばよいのでしょうか? そんなことを考えていると、訳詩なんて全く楽しめなくなってしまう。そこはやはり、訳者の方を信じるより仕方ないのではないでしょうか? それは、上田敏が『海潮音』を世に問うたときから既に始まっていたジレンマだと僕はおもいます。
エッセイ、旅行記
本書のタイトル『詩の住む街』とは、工藤知子さんが愛してやまなかった(と思われる)ジャコモ・レオパルディが生まれ住んだレカナーティという、シエナのほぼ真東に当たる、アドリア海に近い街を指しています。本書の後半には(多分40代の頃)工藤さんがその街を訪れたときの様子やら、レオパルディが結婚する妹のために書いた長い詩を通して彼の様々な思いに迫ったエッセイ、あるいはレオパルディの詩「思い出」の冒頭部分をタイトルにしたルキノ・ヴィスコンティの映画『熊座の淡き星影』についてなど、主としてレオパルディに関する工藤さんの考えが横溢するエッセイが置かれ、アンソロジーとしての本書を取りまとめています。
レオパルディという詩人はイタリアでは国民的な著名人らしいけれど、日本では夏目漱石や、あるいは三島由紀夫といった作家にはどちらかと言えば詩人というより哲学者、思想家として知られていたようで、その試作品を手にするのは残念ですがなかなか難しそうです。イタリア首相が来日される際、手土産に安く入れてくれないかしら(冗談です)。
エッセイとしては須賀敦子さんほど長いものではないけれど、勝るとも劣らない味わいがあります。もっと顧みられてもよい著書だと僕はおもうのですが。
最後に、本書に取り上げられている詩人たちの名を並べておきます。
・アルダ・メリーニ 1931年〜2009年
・マリーア・ルイザ・スパツィアーニ 1924年〜2014年
・サンドロ・ペンナ 1906年〜1999年
・アメーリア・ロッセッリ 1930年〜1996年
・アンドレーア・ザンゾット 1921年〜2011年
・マーリオ・ルーツィ 1914年〜2005年
・ジャコモ・レオパルディ 1798年〜1837年
