『時の扉』ただ厳しく生きること、そして愛すること
発行/1977年
『時の扉』は大作『春の戴冠』が終わるのと前後して新聞に連載された、9作目の長編です。毎日新聞紙上にきっちり300回連載された作品だけれど、『背教者ユリアヌス』や『西行花伝』などの陰に隠れて、辻邦生作品の中ではイマイチ人気に欠けるきらいがあります。かく言う僕も、これまで二度三度と繰り返し読んできた他の作品に比べ、こちらは一度しか読んだことがありませんでした。しかし今回再読してみることで、僕が敬遠していた理由に気づくとともに、(当然のことですが)やはりこれは紛うことなき辻作品であり、その思想が色濃く息づいている名作であるということを再確認することができました。
1.本作を敬遠してきた理由、あらすじとともに
あらすじ
本作の主人公は、東京で恋愛・結婚に失敗し、人生から身を退くように北海道へ流れてきて中学校の教師をやっている矢口忍という男性です。そんな矢口を生き返らせたいと、シリア砂漠の遺跡発掘の補助要員にと呼んでくれたのが友人の考古学者で登山家の江村卓郎でした。いろいろ悩んだ挙句、学校の夏休みを利用して発掘に参加する矢口。このシリア砂漠での経験が、矢口に人生や恋愛について考えさせ、再び生きる力を与えることになります。
長らく再読できなかった理由
本作の前半では、東京で文学講座の講師として働きながら一冊の詩集を上梓したことで名前が売れ、社会の表舞台へと出てゆく矢口忍の生き様が描かれます。その後の女性関係の失敗と北海道へ隠棲したかのような矢口の様子は、後半のシリア砂漠でのそれと比べてかなり暗く、陰鬱です。時代のせいもあるのだろうけれど、何より女性関係が、正直古臭い感じが否めません。そのためか、辻邦生さんの筆が生き生きしていないと感じてしまうのです。らしくない、と言った方がいいでしょうか。本作の前半がそんな感じなので、僕は一度読んで閉口してしまったのです。あるいは辻さん初めての新聞小説ということで、世相を考えて読者に迎合する部分があったのかもしれないと言ったら考え過ぎでしょうか?
2.本作のテーマ/男女の<愛>と現代における<詩>
本作のテーマについては、辻邦生さんご自身が文庫版の、『時の扉』を書いた年 ⎯⎯ 「あとがき」にかえて ⎯⎯ で以下のように書かれています。
私がその頃直面していた主題の一つに、現代文明はいたるところで<詩>を剥ぎとってゆくが、いったい人間は、心を豊かにしてくれるこうした<詩>を守ることができるだろうか、という問いがあった。
もう一つの主題は、男と女の<愛>の問題で、それは端的に言えば、男が女を棄て、女が男を棄てるというごとき<愛>のエゴイズムをどう考えたらいいか、ということだった。
私は、こうした問題に安易な解決があるとは思わなかったが、しかし時間を越えたところで(たとえば、年をとってから、若い時代を振り返るというような形で)その問題を見れば、解決といわないまでも、別の見方はできるのではないか、と思えたのである。
<愛>のエゴイズムについては、本作を通して矢口忍に現れる変化がその答えです。そしてそれは人の生き様 ⎯⎯ 人が本当に生きるとはどういうことか ⎯⎯ の答えにもなってきます。それは本作に限らず、辻邦生さんの全作品に描かれる哲学でもあります。
それからまた、辻邦生さんはあらゆる機会を通して<詩>ということを語っておられます。これは文学作品としての詩ということではなく、人生や社会を豊かにしてくれる具体的な美や喜び、感慨といったことでしょう。本作が書かれた1976年当時、辻邦生さんは既に現代社会から<詩>が失われてゆくことに危機感を抱いていたのです。本作ではシリア砂漠の厳しい自然やそこに生きる人々の力強さと対比することで、(当時の)現代社会に対する提言を試みたのかもしれません。
生きるとは、ここでは、激しく生きることだ。二倍にも三倍にも強烈に生きることだ。八十種類の香料を味わい分けようと意志することだ。それは悲しみや絶望に小さく縮こまることじゃない。愚痴や皮肉に意気地なく従うことじゃない。いったい、ぼくは日本でこの強烈さについて考えたことがあっただろうか。砂漠の人たちのように強烈に生きたことがあるだろうか。
若い研究生のなかには人夫が朝夕、地面に敷物を敷いてメッカに向って礼拝するのを軽蔑するような眼で見ている者もいたが、矢口には、むしろそうした研究生の思い上った気持のほうが痛ましいように思えた。
たしかに高層建築は建ち、車は都市に雑踏し、四六時ちゅう賑やかに繁栄しているが、日本の社会のどこに、こうした敬虔な、精神の香りに満ちた場所があるだろう。心の優しさまで剥ぎとられ、単なる物質の集積と、ぎすぎすした人間集団にすぎなくなった日本のことを考えると、矢口は、この貧しい、砂埃にまみれた古い都会(まち)が、紫の羊皮紙に描かれた黄金の都市に見えてくるのだった。
これが新聞小説だったことを考えると、僕は驚かずにはいられません。当時これを毎日、新聞で読んでいた人は、どんな感想を抱いたのでしょうか?
3.舞台となったシリアと本作の長さについて
300回の新聞連載
文庫本の「あとがき」にかえての最後で、辻邦生さんは最終回を自分で新聞社に持ってゆき、「おわったようっ!」と叫んで担当編集者と固く抱き合った、と書かれています。それほどにも感慨深い作品だったようで、殊に舞台がシリア砂漠に移ってからはまさに辻調炸裂、といった感があり、最後のシーンのあとに余韻となって残る感慨は、辻邦生さんが得たそれをまさに彷彿させるものです。
けれど、これを今この時代に置き直してみたとき、本当にこれだけの長さが必要なのか、という点についてはちょっと考察の余地がありそうです。お読みいただくとわかりますが、シリア砂漠に入って発掘隊と日々を共にするようになってからは、ほとんど毎回のように砂漠の熱波や砂嵐、そんな中での発掘の様子が延々と描かれます。今日の連載では、似たようなシーンが延々続くのには難がつけられるかもしれません。
それでも、と僕がおもうのは、この(豊穣な、という表現を使いたいほどの)長さこそが、この作品を作品たらしめている要因だろうと考えるからです。シリア砂漠の強烈な日差しや、窓を閉ざしても車の中はもちろん、衣服の中にまで入り込んでくる砂埃、そんな砂漠で、蟻が這うようなじりじりした速度で発掘を行う人々・・・その厳しさを真に伝えるためには、どんなに丁寧に描いても描き過ぎということはありません。何よりその厳しさこそが本当に生きることの意味なのです。
舞台となったシリア⎯⎯ 本作が読まれることの意味
何度も言うように、本作の後半はシリア砂漠が舞台です。その真ん中で古代遺跡の発掘に携わる人々の姿が克明に描かれます。もちろんフィクションなので、実際とは違う点も多々あるでしょう。それでも、例えばパルミラ遺跡など、こうして書かれていてよかった、と思わざるを得ません。
本作が書かれたおよそ40年後の2015年から数年に渡って、パルミラ遺跡はISによって破壊されました。だからこそ、シリア砂漠を舞台にこれだけの長さの作品が書かれたことに、今となっては重要な意味があると僕はおもいます。そして、これが読まれ続けることにも。
4.最後に
本年は辻邦生生誕100年にあたり、記念誌『雲の上の永遠の太陽』が、学習院大学史料館によって発刊されました(辻邦生さんは学習院大学の仏文学部教授でいらっしゃいました)。その記念誌に作家でフランス文学者の堀江敏幸氏が寄稿されており、その寄稿文のラストで以下のように書かれています。
私から<私>への変容によってのみ得られる厳しい「幸福」が、簡単に手に入るような錯覚に満ちたいまだからこそ、辻邦生の作品群は読まれなければならない。
私から<私>への変容、というのは最初の長編『回廊にて』で主人公、マーシャが得た感覚のことですが、本作でも矢口忍は、東京にいた自分からサハラ砂漠での体験を経た自分へと変容します。そこにあるのはまさに「厳しい幸福」です。堀江さんの言葉が辻邦生作品の本質を的確に言い当てている以上、本作『時の扉』もまた、やはり紛うことなき作品群の一つなのです。(なお、タイトル「時の扉」の意味は、本作の後半で明らかになります。)
今回もお読みいただきありがとうございます。
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