肉巻き
錆川小石
毎年十二月を過ぎると田村川の上流へゆく。溪流釣りは通常どこも禁漁期間だが、ここの漁協では河川を限定して解禁してゐるのである。と云つても成魚放流のあつた解禁日は前日で、私は仕事でゆけず。
午前五時半頃、闇中家を出る時に降つてゐた霙は目的地に着く頃には雪に変はり、林道に轍が付く程度には積もり始めてゐた。堰堤の連続する暗い溪へ目を遣れば、白い雪との対比で水量の少ない事が知れた。降り始めてそれほど経たないが、もう樹々も地面も青色に冷たく染まつてゐる。
少し白んでは来たものの、まだ釣りをするには暗い。適当なところで車を停め、少し仮眠を取らうと目を瞑るが眠れず。
瞑目した儘、時折、ぼん、と枝に積もつた雪が屋根に落ちるのを聴き乍ら待つ。

七時過ぎ、明るくなつたので外へ出る。雪はまだ降つてをり、十五センチほど積もつてゐた。溪は雪中なほ黒く、遠山は灰白色に霞んでゐる。美しい雪溪と、吸ひ込むと脳内がすつきりするやうな清々しい冷気に頰が緩む。

ウェーダーを穿き、滑らないやう気を付け乍ら数メートル下の堰堤まで斜面を降りる。偶には動画でも撮つてみようとスマホを岩のうへに載せて釣り始める。すると二三投して都合好く七寸強の天魚が掛かつた。中々好い引きである。動画には私の竿の振り方や、魚が掛かつて竿がしなる様子などがばつちり撮れた筈である。けふはもうこれで充分満足した。

その後は振るはず。五六寸二尾、七寸バラし。雪は降つたり止んだりで時折強風が吹き、枝に積もつた雪を吹雪のやうに散らす。道糸も毛鉤も雪で見づらいが頗る楽しい。



午近く漁協の人が二人、遊漁券を確認しに来た。今日の釣り人は全部で四五人ほどで、皆釣果は芳しくないらしい。私の釣果を報告すると、「もうちよつとでかいの入れたんやけどなあ」と首を傾げてゐた。
確かにゐたのはゐた。八九寸ほどのが二尾、流れのない溜まりの底にゐたのを見つけたので毛鉤を落として見たが見向きもしない。数投すると、すうつと向かうへ泳ぎ去つてしまつた。
解禁日の釣り人に散々いぢめられてゐるうへ、急な降雪で冷え込んだので魚も動かないのだらう。水底の落ち葉にでも潜り込んでぢつとしてゐるのかも知れない。正午過ぎ納竿。


これだけ降れば、小学生の息子は雪遊びがしたくてうずうずしてゐるに違ひない。或はもう友達と公園にでも行つたかも知れない。妻に電話すると、此方は全く降つてゐないと云ふ。どうやら山側のみ降つたやうである。
田村川を出ると、なるほど溪の半分も積もつてゐない。朝から何も食べてゐなかつたので、近くの青土ダムにある軽食屋へ寄つて山菜蕎麦を頼む。店には調理のをばちやんのみ。客は私ひとり。何の変哲もない蕎麦だが、暖かさが冷えた身体に沁みる。あつと云ふ間に平らげた。

窓からダム湖を眺めると、薄く雪の積もつた芝生の広場に条が付いてゐる。目で辿ると、端の方に誰が拵へたのか雪だるまが鎮座してゐた。
ふと動画を撮つてゐたと思ひ出してスマホを確認して見ると、堰堤の前を道糸らしき線が横切り、少ししてカメラを背にした私が竿を持つた右手を挙げたまま画面の端からゆつくりと移動して来るところが映り、急に画面がぶれまくつたと思へば唐突に磧に横たはる天魚の姿が映つた。自分の釣り姿など見た事がないので、キャスティングのフォームなど色々参考にしたかつたのだが全然駄目であつた。
そろそろ帰らうと立ち上がると、をばちやんがフライパンで炒めものをしてゐる。おそらく甘辛いであらう醬油と砂糖のたれが焼ける香りがする。
壁の札に書かれた料理名にそれらしきものは見当たらないから、自分用の午飯だらうか。肉巻きのやうなものを拵へてゐた。何だか蕎麦よりも美味さうであつた。
