なぜ立ちションが好きなのか?〜個が輝く世界のために〜
立ちションが好きだ。
「立ちション」とGoogle検索すると、「屋外や公衆の場で便所以外で排泄する行為であり、軽犯罪法第1条26号違反(1,000円以上1万円未満の科料)や、場合により迷惑防止条例に該当する違法行為です」と出てきた。
その立ちションではない。僕は常識人だ。法に触れるようなことはしない。
立って小便をすること。それが、立ちションだ。もちろんトイレで。
君は立ちションのライバルを知ってるか?
座りションだ。女性は99%座りションだろうが、男性には、立ちションと座りションの2つの選択肢がある。
立ちション愛好家の僕にとっては受け入れがたいのだが、近年は座りションブームである。TOTOの調査では、2004年の男性の座りション率は23.7%。2017年の日本トイレ研究所の調査では43.7%、さらに2021年のLIONの調査では60.9%と激増。二十年足らずで、立ちションから座りションへと主役は交代した。
誠に遺憾である。トイレに「座ってするのが紳士」とかいう壁紙が貼られているのを見たこともある。座りションするのが紳士だというなら、僕は紳士になんてなりたくない。
近年、「男よ、座りションをしよう」という社会の圧力がより高まっている。なぜ「座りション」がこれほどまでに持て囃されるのか。ジェンダー平等を目指す社会の方向性と大きな関連があるように思う。
立ちションは、男の特権である。自宅のトイレで立ちションをすると、尿がはねて飛び散ってしまう。掃除するのは誰か。その役割を担ってきたのは、妻であり、母であった。つまり女である。
多くの家庭で使われている洋式便器は、立ちションのためにつくられていない。どんなに用心深く放尿しても、飛び散ってしまう。尿を飛び散らせて汚しているのは、男。掃除するのは、女。この非対称性が標的にされてしまった。男の立ちションは、ジェンダー不平等の象徴だったのだ。
このような時代変化の中で、男女問わず「立ちションって、いけてないよね」という考えが広がっていった。実際、若年層ほど、座りションに抵抗がないらしい。
では、このまま「座りション」の一人勝ちとなるべきなのか。世界から「立ちション」は消えるべきなのか。
そうは思わない。
まず、僕は男女平等主義者である。歴史的に、客観的に見て、男性と女性が平等であったとは到底言えない。そして諸外国と比較して、日本は遅れをとっている。ジェンダーギャップを早急に解消するべきだ。
そもそも家のトイレ掃除を担うのが、主に女性であったことが問題で、男が汚して男が掃除するのが一つの解決策でもある。
とはいえ、「座りション」派閥の意見も分かる。僕も、大学生くらいまでは当たり前に立ちションしかしてこなかったので、こんなに尿が飛び散っていることを知らなかった。そして現在、僕は友人の家でトイレを借りる場合、基本的に座りションをしている。自分が掃除をするわけでもないし、さすがに申し訳ない。
一人暮らしの自宅では、基本的に立ちションだ。掃除するのも自分なので、まあ問題はないだろうが、正直あんまりしっくりきていない。いや、何が?って感じかもしれないが、そもそも自宅のトイレと立ちションの相性は、それほどよくない。
繰り返しになるが、洋式便器は立ちションのために、つくられていない。だから、しっくりこないのだ。つまり、男には2つの選択肢があると述べたが、細かく言うと3種類だ。
小便器で立ちション
洋式便器で立ちション
洋式便器で座りション
この3種類。これまでは、洋式便器で立ちションするか、座りションするかという話を主にしてきた。
が、洋式便器というのは男にとっては排便のために存在している。排尿もできるというだけで、排尿のためにつくられているわけではない。
餅は餅屋。小便は小便器だ。ということで、僕が愛しているのは、小便器での立ちションである。
どれくらい愛しているか。
たとえば、カフェで尿意を感じたとき。カフェ内のトイレには行かない。洋式便器だからだ。カフェがショッピングモールにあるのなら、カフェから出て、ショッピングモール本体のトイレの小便器へ向かう。立ちションをしたいからだ。
仮にカフェがショッピングモールになかったとしても、徒歩10分圏内に小便器があるのなら、僕は小便器で用を足す。餅は餅屋。小便は小便器でするのが一番いい。
なぜ立ちションを愛しているか。
僕は男女平等主義者である。だが、もっと言えば、僕が目指すのは「一人ひとりが自分らしく生きられる社会」だ。全体最適のために、個が犠牲になるのは許せない。個が輝いてこそ、良い社会が成り立つ、というのが僕の基本的立場である。
これを一人の人間に当てはめてみよう。社会から見れば、一人の人間は個かもしれないが、人間もまた全体である。頭、右手、左手、右足、左足、胃、腸…。様々な体の部位が集まって、一人の人間ができあがっている。人間単位で考えると、たくさんの個の集合体が僕自身という全体をつくっていると言える。
もう一度言うが、僕は個が輝く世界を目指している。自分の右手や左耳に、自分らしく生きてほしいと願っている。
手には手の役割があり、耳には耳の役割がある。もちろん個性もある。僕の右手とあなたの右手には、それぞれの使命があり、得意なことが必ずしも一致しているわけではない。
さて、立ちションの話に戻ろう。立ちションをするのは誰か。もちろん、色んな個の協力プレーが行われているわけだが、小便の主役は男で言えば、ち○こである。つまり、考えるべきは、立ちションと座りション、どちらの方がち○こが輝いているか。
僕のち○ことあなたのち○こは、違う。だから「男は全員、こうだ」と言うつもりはない。だが少なくとも、僕のち○こは、明らかに立ちションのときの方が躍動している。ああ、こいつは立ちションをするために生まれてきたのだな、と感じる。
やむを得ず座りションをするとき、僕はち○こに謝る。お前の良さを生かしきれずにごめんよ、と。
ち○こには、排尿という重要な使命がある(それ以外にも役割があるが)。その使命を果たすために、生まれてきた。そして、彼の才能を最も生かすには、やはり立ちションが最適だ。座りションとは、尿の出る勢いも違う。
この先、どんな社会になろうとも、誰になんと言われようとも。僕は、一人ひとりが自分らしく生きられる社会をつくりたい。個が輝く世界を、そして、ち○こが躍動する人生を。
残りの人生、1回でも多く、立ちションをしたい。
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