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最後の1年で後悔なき経験があった

 まもなく40歳を迎える――そんなタイミングで、私は本格的に「リクルート卒業」を考えるようになっていました。理由はシンプルです。自分自身が『アントレ』を通じて、

「雇われない生き方」
「自分で人生を選ぶ働き方」

を世の中に発信してきた立場だったから。そんな自分が、いつまでも大企業に残り続けることに、どこか矛盾のようなものを感じ始めていました。大企業?リクルート事件やダイエー傘下から立ち直って、すっかり大企業への転換を図るタイミングになっていました。ここから先の仕事は自分の役割ではない、卒業して新たな道を探るべき…リクルートには感謝しかありません。

多くの挑戦機会を与えてもらった。
普通では経験できない仕事をさせてもらった。
数え切れないほど成長させてもらった。

ただ、その一方で、

「そろそろ、自分自身も次のステージへ行くべきではないか」

という感覚が強くなっていたのです。そこで、正式に退職の意思を伝えました。すると、そのあとに声をかけてくださったのが、後に日本バドミントン協会会長やJリーグチェアマンを務めることになる村井満さんでした。現在もバトミントン協会のアドバイザーをさせていただき村井さんとの関りは続いております。

「もう1年だけ、手伝ってみないか」

という話でした。村井さんのリクルートエージェント社長就任が決まり、そのタイミングで人材領域の事業を一緒にやってほしい、という依頼でした。

現在のリクルートエージェントは、当時「リクルートエイブリック」という社名でした。2003〜2004年前後は、日本の転職市場そのものが大きな転換期を迎えていた時代でもあります。それまで中途採用の主役は、求人広告や求人情報誌でした。企業は広告を出し、応募を待つ。大量採用を前提とした“集客型”の採用が中心だったのです。しかし、この頃から状況が変わり始めます。

当時のリクルートエージェントの紹介手数料率は、現在とほぼ同じく、採用決定者の理論年収に対して30〜35%程度が一般的。たとえば年収500万円クラスの人材であれば、企業が支払う成功報酬は150万円前後。当時の感覚では、かなり高額。一方、求人広告は1掲載あたり数十万円。採用単価で見れば10万〜30万円程度に収まるケースも多かった。そのため、多くの経営者や人事責任者は、

「人材紹介は高い」

と感じていました。つまり当時の人材紹介は、“どうしても欲しい人材”を採るための特別な手段。採用の主役は、まだ求人広告と求人サイトだったのです。ところが、ここで大きな構造変化が起きます。求人広告は「応募を集めるサービス」です。しかし、人材紹介は「採用を成立させるサービス」。この違いが、景気回復局面の企業ニーズと噛み合い始めたのです。2000年代初頭は、ITバブル崩壊後の停滞から、日本企業が少しずつ回復局面へ向かうタイミングでした。企業は慎重ではありながらも、次第に“経験者採用”を強化していきます。

・すぐに戦力化できる人材が欲しい
・しかし、自社では見つけられない
・面接や見極め工数も削減したい
・採用失敗のリスクを減らしたい

こうしたニーズが急速に高まっていったのです。さらに、この頃から市場に登場し始めたのが「第二新卒」という概念でした。いまでは当たり前になった言葉ですが、当時はまだ新しい採用カテゴリーでした。終身雇用が前提だった時代には、「入社3年以内で辞める若手」は、どちらかと言えばネガティブに見られることも多かった。しかし、企業側も徐々に考え方を変え始めます。

・社会人基礎力は最低限ある
・新卒よりビジネスマナー習得コストが低い
・しかし、まだ若く、育成余地が大きい
・企業文化への染まり切りも少ない

こうした理由から、「ポテンシャル採用市場」として第二新卒市場も急速に拡大し始めました。即戦力に加えて第二新卒まで採用ニーズが高まり、人事部門は採用単価にこだわり過ぎると採れない。結果として募集広告を追加していく羽目になる。ならば、確率が高い人材紹介に切り替えてもいいのでは?という志向が芽生え始めた時期でした。ここでも強みを発揮したのが、リクルートの“情報量”でした。当時のリクルートは、求人広告、人材紹介、転職情報誌、Web媒体を横断的に保有していました。後の「リクナビNEXT」へつながる巨大な求職者データベースを背景に、

「転職潜在層まで含めて接触できる」

ことが圧倒的な優位性になっていたのです。さらに、ここがリクルートらしいところですが、広告事業を持っていたこと自体が、人材紹介事業の利益率を押し上げていました。通常の紹介会社は、求職者を集めるために広告費を外部へ支払います。しかし、リクルートは自社メディアを持っていたため、

・集客コストを内製化できる
・広告と紹介を相互送客できる
・登録者データを蓄積できる
・営業ノウハウを横展開できる

という、“エコシステム型”の収益構造を構築していました。この構造が、当時としては異例とも言える高収益体質を支えていたのです。実際、2003年前後の人材紹介業界では、営業利益率10%前後でも優秀と言われていました。しかし、リクルートエージェントは、それを大きく上回る収益性を実現していました。

背景には、「人海戦術だけの紹介会社」ではなく、

“情報流通産業として人材紹介を設計していた”

という、リクルート特有の発想がありました。また、この時代は有効求人倍率がようやく1倍を回復し始めた頃でもあります。バブル崩壊後の長い停滞感から、企業が少しずつ抜け出し、

「守りの採用」から「攻めの中途採用」

へ転換していくタイミングでした。

IT、コンサル、外資系企業などでは採用競争が激化。特に年収600万円以上の層では、

「紹介会社を使わないと採れない」

という状況が増え始めます。

結果として、人材紹介は「高いサービス」ではなく、

“採用失敗コストを下げる経営投資”

として認識されるようになっていったのです。いま振り返ると、2003〜2004年前後は、日本の中途採用市場が本格的に「エージェント時代」へ入っていく、大きな転換点だったと言えるでしょう。そのような変化のタイミングで、最後のご奉公として現場に関われたことは、私にとって非常にありがたい経験でした。

というのも、私はそれまでHR領域の中核事業に、ほとんど直接関わってきませんでした。兼務で所属したことはありましたが、採用事業そのものを本格的に経験したことはなかったのです。

もちろん、何度か希望を出したこともありました。しかし、不思議と縁がなかった。

だからこそ、最後にその現場を経験してみたいという思いがありました。

そして実際に飛び込んでみると、そこには、単なる「人材ビジネス」ではない世界がありました。

企業の成長戦略。事業再編。経営者の焦り。次世代リーダー不足。そして、キャリアに迷う個人の葛藤。

人材紹介とは、単に人を右から左へ動かす仕事ではありません。企業の未来と、個人の人生、その両方に深く関わる仕事だったのです。

そして、その後に自分が人事コンサルティングの世界へ進むうえでも、この経験は極めて大きな財産になりました。採用市場の構造、企業が人に何を求めているのか、経営と人事がどう接続されるのか。その“現場感覚”を持てたことは、その後の仕事の土台になっていったのです。

さて、そんな構造変化の起きているタイミングに、

「1年だけ」

という条件で、事業部門長を引き受けることになったのです。ただ、結果として、この1年は、自分のリクルート人生を締めくくるにふさわしい、非常に濃密な時間になりました。それまでのリクルートは、

・営業主導
・人海戦術型

の強さを持っていました。しかし、この頃から、効率経営とKPI管理へと、大きく舵を切り始めていました。つまり、リクルート全体が、「昭和型の勢いのある営業会社」から「DX型の高収益企業」へ変わろうとしていたのです。社内では、

「筋肉質な経営」

という言葉もよく使われていました。

無駄をなくす。
生産性を高める。
徹底的に合理化する。

そうした方向へ、会社全体が大きく舵を切っていた時代でした。その過程で、かつての“リクルートらしい文化”も、次々と姿を消していきます。例えば、月末に行われていた「締め会」と呼ばれる飲み会。単なる打ち上げではありません。部署の成果を称え合い、失敗も笑い話に変えながら、一体感をつくる場でした。若手が先輩に食らいつき、先輩が若手を鍛える。リクルート独特の熱量が、そこにはありました。あるいは、人事部が制作していた『アトラス』という社員名簿。当時を知る人間にとっては、非常に象徴的な存在です。もちろん、単なる社員一覧ではありません。社員一人ひとりを面白おかしく紹介し、「あいつはこんな奴だ」というキャラクターや文化を共有する冊子でした。合理性だけで考えれば、不要なものかもしれません。しかし、こうした“無駄”の中にこそ、組織文化や人間関係の土壌がありました。さらに、全社朝礼もそうです。いまの時代感覚で見れば、「なぜ全社員を集める必要があるのか」と思う人もいるでしょう。しかし、同じ方向を向く空気感をつくるという意味では、大きな役割を果たしていました。

ところが、こうした文化的な慣習は、次々と見直されていきます。背景にあったのは、「無駄の排除」と「経営効率」の追求でした。つまり、リクルートは、“勢いの会社”から、“管理の会社”へと変わり始めていたのです。現在のリクルートが、株式公開を経て、グローバル企業へと転換していく。その基礎固めが、まさにこの時代に始まっていました。(現在のリクルートには昔の古き良きことが何も残っていないとまでは言っていません)

一方で、1980年代から在籍していた社員たちにとっては、複雑な感情もありました。会社が成長していく誇らしさがある反面、「古き良きリクルート」が少しずつ消えていく寂しさもあったのです。急成長する企業では、こうした現象が必ず起こります。合理化が進むほど、かつて組織を支えていた“熱”や“遊び”が削ぎ落とされていく。そして、その変化の中で、「会社らしさとは何か」が問われ始めるのです。

しかし、リクルートエージェントには、まだ“古き良きリクルート”の空気が色濃く残っていました。私が出向する数年前まで社長を務めていたのが、岡崎坦さん。リクルート創業期を知る世代であり、いわゆる「リクルートらしさ」を体現する経営者。大学の先輩でもあり、何回か食事をさせていただいたことがありましたが、人を見る文化の重要性を教えてくれたことを覚えています。

単に数字で評価するのではなく、「あいつは面白い」「あの発想は化ける」「まだ荒削りだけど伸びる」といった、“人間の可能性”を語る会話が日常的に飛び交かうべき。月末に行われる「締め会」も、単なる飲み会ではない。数字を達成した部署が称賛され、失敗したチームも笑いに変えながら、互いを鼓舞する場である。上司も部下も入り混じり、本気で議論し、本気で笑う。体育会系とも違う、独特の“熱狂する組織文化”がリクルート成長の源泉であると教えていただきました。そんな岡崎さんのご尽力で職場には、

・人間臭さ
・熱量
・仲間意識
・現場主義

が残っていました。18年前に新入社員として体感した濃密な人間関係に囲まれ、時間が巻き戻ったような気分。

「これで、自分のリクルート人生は終われる」

と感じました。さらに、メンバーに恵まれました。気のいい部下たちと達成会で大騒ぎ。すると翌日に連絡なしで休んだ社員が出ました。「大変だ、家まで見に行こう」と自宅訪問すると二日酔いで寝ていたなんて事件も起きました。忙しくも楽しい時間を過ごしました。業績も非常に好調で、1年後には、人員規模も予算規模も4倍。アントレで6年かかった成長を僅か1年で達成。ただ、いま振り返ると、うまくいった最大の理由は、

「私欲がなかったこと」

かもしれません。

どう出世するか。
どう評価されるか。
次にどのポジションへ行くか。

そうした欲が、もう自分の中になかった。むしろ、

「最後だから、皆と楽しい思い出を作りたい」
「公平で公正な判断をしよう」
「次世代につながる財産を残して去ろう」

そんなことばかり考えていました。不思議なものですが、人は「自分のため」に動くより、「誰かのため」に動き始めた時の方が、大きな成果を出せることがあります。そして、それはマネジメントにも同じことが言えるのだと思います。結局、組織を動かすのは、制度でもKPIでもありません。

「この人のためなら頑張ろう」

と思える関係性です。2005年当時のリクルートは、DX化と合理化を急速に進める一方で、まだ“人間臭い組織”の空気も残っていました。私は、その両方を経験できた最後の世代だったのかもしれません。そして、その最後の1年があったからこそ、私は心から納得して、リクルートを卒業することができたのです。

 1年弱――。

「最後のご奉公」のつもりで引き受けた仕事でしたが、気づけば名残惜しさも感じるようになっていました。やはり、長く在籍した会社です。嬉しかったこともあれば、苦しかったこともある。成功も失敗も経験した。そして何より、多くの人との出会いがありました。だからこそ、最後の時間が近づくにつれ、

「本当に終わるのだな」

という実感が少しずつ湧いてきたのです。そして予定通り、私はリクルートを卒業しました。最後には、リクルート本体、そしてリクルートエージェントの皆さんが送別会を開いてくださいました。その場で感じていたのは、ただただ「感謝」でした。振り返れば、本当に多くの経験をさせてもらいました。

新規事業。
営業。
編集。
マネジメント。
起業家支援。
組織づくり。

普通の会社人生なら、一つ経験できるだけでも十分な仕事を、いくつも経験させてもらった。そして、その一つひとつが、自分自身の土台になっていたのだと思います。だから、卒業の日に感じていたのは、「終わり」というより、

「次の人生へのスタート」

に近い感覚でした。そして翌月から、私はセレブレインの代表として、新たなキャリアをスタートさせることになります。ただ、いま振り返ると、その流れも決して偶然ではなかったように思います。実は、リクルートエージェント時代、私は自分で立ち上げた事業のひとつとして、「事業再生プロジェクト」に関わっていました。いわゆる、ターンアラウンドマネージャー――企業再生を担う経営人材の紹介事業です。当時は、国内外の投資ファンドが、経営不振企業を買収し、再生を進める動きが活発化していました。一方で世間からは、

「ハゲタカ」

と批判的に語られることも多かった時代です。しかし、実際に現場にいると、単純なコストカットだけでは企業は再生できないことがよく分かりました。本当に必要なのは、

・組織を立て直せる人材
・現場を動かせるリーダー
・経営と現場をつなぐ人

だったのです。そこで私は、再生を担う経営人材の紹介事業を立ち上げました。その仕事を通じて、国内外の投資ファンド幹部や経営者たちと数多く出会うことになります。そして、その時に築いたネットワークが、後の人事コンサルティング事業へとつながっていきました。いま思えば、不思議な縁です。当時は、

「この仕事が将来どうつながるか」

など、まったく考えていませんでした。ただ、目の前の仕事を必死にやっていただけです。しかし、キャリアとは面白いもので、その時は点にしか見えなかった経験が、後になって一本の線になっていく。リクルートでの経験も、まさにそうでした。

営業経験。
新規事業。
編集。
起業家支援。
人材事業。
事業再生。

一見するとバラバラです。しかし、それらはすべて、

「人と組織をどう成長させるか」

というテーマでつながっていたのです。そして、その延長線上に、現在の人事コンサルティングの仕事があります。だからこそ、私は伝えたいのです。キャリアは、最初からきれいに設計できるものではありません。むしろ、

「なぜ自分が?」
「本当に意味があるのか?」
「遠回りではないか?」

と思う経験こそが、後になって人生を支える財産になる。大事なのは、その時々の仕事に本気で向き合うことです。すると、点だった経験が、いつか必ず線になっていく。私にとって、リクルートで過ごした時間は、単なる会社員時代ではありませんでした。それは、「仕事とは何か」「組織とは何か」「人はどう成長するのか」を学び続けた、人生そのものだったのだと思います。

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