虚構な世界において、沈黙とは黄金である。ハラリ『サピエンス全史』との対話。
文字数:約4,080
世界が相対的であれば、そこには絶対は存在しない。あらゆる価値観も、あらゆる幸不幸も、それら一切合切の概念が相対的である世界。私たちが今、見ているこの世界は、各々の人間の、それぞれほとんど異なる視座によって成り立っている。
空を見て、綺麗だなと思う人もいれば、切ないなと思う人もいる。大自然を眺めて、美しいなと感じる人もいれば、むなしいなと感じる人もいる。私たちは全く同じ世界に生きているようで、同時に、全く異なる世界に生きているようだ。
真実を知ることは時として、打ちひしがれるように辛い作業である。それは各々が各々に思い浮かべる美しい幻想をも破壊していく可能性のある作業だからである。見たくもない現実をも知る作業だからである。
一方で真実を知ることは時として、不愉快なまでに愉快な作業でもある。第三者的な視点による世界の達観。破壊的な想像力は、他者が抱えている尊い世界をもぶち壊す可能性がある。欲望が欲望を駆り立てるからである。
世界は虚構で成り立っている。『サピエンス全史』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリは、そうやって、なんだかほんの少しだけ寂しそうに私に語りかける。『サピエンス全史』の翻訳者の柴田裕之は、この本のあとがきでこう述べている。
読書の醍醐味の一つは、自分の先入観や固定観念、常識を覆され、視野が拡がり、新しい目で物事を眺められるようになること、いわゆる「目から鱗が落ちる」体験をすることだろう。
読書とは、ある意味では危険な趣味であると私は思う。私たちは読書、あるいは教育、もしくはあらゆる学びにおいて、なんらかの知識を獲得する。それらの知識は、各々の知識をアップグレードし、各々に新しい視座を与えてくれる。
世界は透明感を増し、靄がかった景色は本来の美しさを取り戻す。それらを獲得しようと行為すること自体には価値があると私は思う。でなければ、私たちは私たちを変えられる可能性に気がつけないからだ。
とはいえ、そうして獲得した新しい世界を、今の世界と取り替えようとする試みにはある種の危険性が潜んでいる。私は大きな力を得た、この力を得ていない他者よりも充足されていて、優れている。そのように新しい思い込みが芽生える余地があるからである。そして、本来的に美しく見えていた世界は再びまぼろしになり、一瞬にして暗く淀む。知恵の実をかじったアダムとイブは、楽園から追放された。
古代ローマの哲学者セネカは、こう言っている。自惚れとは、自分がもう充分であると思い込むことであると。つまり、読書が虚栄心を掻き立て、己がそれらの欲望に屈服するのであれば、読書とは危険な試みである。そのような状態に陥れば、全くの逆方向に進行することにもなりかねないし、もしそうであれば、むしろ本など読むべきではないのだ。
とはいえ、だ。私がそのように思うのはあくまでも自戒の意味を込めて言っているだけであって、例えば誰か他者に面と向かい、そのような毒舌を私は吐くべきではない。なぜなら、それらの態度自体が自身の虚栄心を証明しているのだから。
だからこそ、沈黙は黄金となるのだ。古代ギリシャの哲学者エピクテトスは、こう言っている。自分が学んでいる時にはひそかに哲学をしなさい、原理について喋るよりもむしろ、原理に基づいて行動しなさいと。
世界は相対的である。これは確かに事実なのだろうと私は思う。文化や習慣、それらに紐づく人々の生活を考えれば一目瞭然である。そして、それらの概念を形成するのは、ハラリによれば、人々が虚構を信じる能力による。それもまた、事実なのだろう。
しかしながら、一体それがどうしたのだろう、と私は言いたい。
虚構が虚構であるとして、人間が虚構を生み出したからこそ生存しているのだとすれば、虚構とは人間にとっては必要不可欠なものである。その是非、それから、その良し悪しを問うから、議論はヘンテコな方向に進むのだ。
ハラリの『サピエンス全史』によれば、世界に存在しているように思われる概念のほとんどは、人々の虚構を信じる力によって生成されているらしい。例えば貨幣、イデオロギー、資本主義、国家、宗教、株式会社など。お金の価値は、皆がそう信じているからこそ、価値があるという。
金塊は、人々がそれらを金塊だと信じているからこそ金としての価値は発生する。一般人がそれらの金塊をホンモノかどうかと調べる必要はない。なぜなら、人々がそれらを金塊だと信じている限り、ニセモノの金塊はホンモノになるからである。
つまり、これらは全て私たちの想像上に存在し、さらに、その中には本来的にはニセモノであるものも混じっているはずなのだ。だから否定をし出せば、きりがないのだ。何がホンモノで、何がニセモノであるのかと判断するのは個人の仕事を超えている。
科学の進歩は、人間そのものに極めて重大な問いを投げかける。それは人類とは何かと再定義する問題である。これは何よりも切実な問題だと私は思うし、ハラリもそのように言っている。つまり、人類自体が虚構である可能性である。
サルが人類ではないことは誰にでもわかる。私たちはサルよりも賢い。あらゆる人間は人間である。日本人もアメリカ人も、中国人もインド人も、イギリス人も、差別される人も差別する人も、大人も子供も老人も、みんなもれなく人間である。
ところで、生物を、自分たちで生産を繰り返し繁栄しようとするものだと仮に定義付けしたとして、例えば3Dプリンターが、彼らが彼ら自身の部品を再生産することができ、自己修復と製造を繰り返すことができるとするのならば、3Dプリンターは機械なのだろうか、それとも生きているのだろうか。
また、AIが、彼ら自身でアルゴリズムのプログラムを書き換え最適化し、自己自身をアップデートし続けるとするのならば、それは人間の考えるという作業と、どのように区別をすればよいのだろうか。
確かに人間には感情がある。しかし、美しいもの、綺麗なものをデータとして認識したとき、人間と同じようにランダムに言葉に抑揚をつけながら反応をするAIがいたとして、彼らには感情が無いのだと、私たちは本当にそう言い切れるのだろうか。
私たちが真剣に受け止めなければいけないのは、歴史の次の段階には、テクノロジーや組織の変化だけでなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も含まれるという考えだ。そして、それらの変化は本当に根源的なものとなりうるので、「人類」という言葉そのものがその妥当性を問われる。
正直に申し上げれば、私にはどう判断したらよいのかが分からない。近未来においてAIが人間だと判断される可能性を私は否定できない。機械によって人間が本来的に持っている能力が増幅されたとして、いわゆるサイボーグはそれでも人類と呼べるのだろうか、それとも超人類として判断されるのだろうか。
シンギュラリティ計画が無事に遂行された暁には、人類という概念に何が起こるのか。私にはいっこうに分からないし、やはりそれは一個人の領域を遥かに超えている。
唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分たちの欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。
ところで、一つ私には分かることがある。それは私が私であるということである。私には目があり、鼻があり、耳があり、口があり、頭脳がある。思ったように身体を操作でき、痛みには身体がなんらかの危険信号を発する。
喜怒哀楽があり、泣いたり笑ったり、感動したり喜ぶことができる。人を好み、仲間と楽しいひと時を過ごすことができる。毎日に希望を抱き、生きることができる。毎日に規律を築き、自己節制と自己制御、倹約と謙虚さのうちに生きることができる。
人類は確かに虚構なのかもしれないが、私自身のこの存在は虚構などではない。もし仮に自身の存在を嘘だと考える人がいるとするのならば、私は彼らを世界の片隅に集め、まとめて精神病棟に送り込もう。自分が自分を肯定しないで、どうやって他者を肯定すればよいというのか。
自分が自分を否定してばかりでは、どうやって生産性を高めていくのか。自分が自分を信じることもできないのに、どうやって世界を信じればよいのだろうか。自分が信じたその先の世界が、虚構であるか真実であるかは、もうこの際、どうでもよいことなのだ。
虚構であろうが、真実であろうが、このちっぽけで惨めな存在に全面的なる信頼を寄せ、その全てを受け入れる覚悟があれば、と私は思う。世界の価値観は日々、刻々と変容していく。私たちが望むものは、それらの価値観に紐付き、更新されていく。欲望には際限がなく、娯楽は金融システムの虜となっているからである。
外側の世界に目が向きがちな現代社会において、あえて内側の世界に心を差し向ける行為は至高である、と私は思う。今こそ、各々が各々の幸福学に取り組むべき時であり、各々が各々の哲学を育むべき時である。世界で最もシンプルなその原理に基づき、行動することでしか、打ちひしがれるように厳しいこの虚構の世界で、自分が自分を証明できそうにはないから。
しかし、やはり私は再度、繰り返してこう言わざるを得ない。沈黙とは黄金であると。悲しいかな、おそらく世界は逆行していて、我慢ができずにこれらの思考を外部に漏らす人間を、一人残らず精神病棟に送り込むはずだからである。
これをヤマアラシのジレンマと言う。
2022/02/17
