大自然を見ることの意味について考える。ショーペンハウアー『知性について』との対話。
文字数:約2,650
冬の本栖湖の空気は澄み切っていて、冷たい風。乾燥した木々を集めて、火を起こす。暖をとりながら、青空で本を読む。夜になれば、満点の星々が照らしてくれる。美味しそうにカレーヌードルをすする人。後ろを振り向けば、完璧な画角に、月のライトアップと湖の影。堂々とした富士山に心が奪われる。アニメ「ゆるキャン△」のリンとなでしこが観た景色は、想像しただけでも素晴らしいものでしょう。
自然の絶景を観たり、素晴らしい芸術や音楽、映画、本に触れたりしたとき、感じることや思うことや考えることは人それぞれですし、その時々の気分に大きく左右されます。
日常生活でも同じことが言えます。普段見えている景色を毎日同じで退屈だと感じる人もいれば、新しいことを発見してワクワクしている人もいます。
世界を感じるのは私(主観)ですが、感じる対象は外部(客観)です。つまり客観的な世界に対しての感受性の違いが、本質の受け取り方の度合いを生み出すのだと思います。
また美しいものを素直に純粋に美しいと感じられるのは、そうした直感的な印象に対して精神が世界の彩りを感じようと動くから、だとも思います。
今、ショーペンハウアーの「知性について」を読んでいます。ショーペンハウアーはゲーテと同じ時代にドイツで活躍した哲学者です。ショーペンハウアーは知性の使い方次第で、見える景色や思想がより美しく魅力的になると言っていました。
今回は、知性とはどのように使われるべきか、またそのような人に見える景色や思想、精神について考えてみたいと思います。
知性には二つの使い方があるとショーペンハウアーは言っています。
一つ目は主観的な関心のために使用される知性です。主観的な関心とは、自分が食べて生きていくために必要最低限のことで、お金を稼ぐとか、そのために勉強をするとか、働くとか、学校にいくとか、退屈をしのぐとか、娯楽とかです。そのような知性は、意志の目的のための道具としてのみ使用されるとショーペンハウアーは書いていました。
二つ目は客観的な関心のために使用される知性です。客観的な関心とは、別になくても生きてはいけるけどあったほうが(多分)いいことで、お金儲けに関係のない学びとか、教養とか、大自然を見るとか、芸術作品を観て考えるとかです。そのような知性は、客観的な世界の驚くべき彩りを感じるために使用されるとショーペンハウアーは綴っています。
頭脳が口腹に奉仕する労働者にすぎないという状態は、自分の手の労働で生計を立てていないほとんど全ての人々の共通の運命なのであって、彼らはこの境遇に全く満足している。ところが偉大な頭脳の持ち主たちにとっては、すなわちその脳髄のエネルギーが意志への奉仕に必要な程度を超越している人々にとっては、そのようなことは、絶望に価する運命なのである。前例のないほど最高に発達した現代の技術は、奢侈品の複雑多様化に拍車をかけ、境遇に恵まれた人々に、一方ではより多くの間暇と精神的教養を求めるか、さもなければ、他方では緊張努力してより多くの奢侈と快適な生活を求めるか、という二者択一を迫っている。
また客観的な世界に向けられる知性と感受性が異常に豊かになってくると、世界に対する認識と洞察を世の中に発表しようと意志が意志するようです。素晴らしい芸術作品や哲学はこのように生み出され、彼らを天才と呼ぶのだと、ショーペンハウアーは語っています。
確かに彼らが観ていた景色は、間違いなく私が観ている景色よりも綺麗なのだろうと思います。もしくは絶望的な地獄なのかとも思います。
後者はできれば避けたいのですが、前者の作品であれば何度でも読み返したいし観たいと私は思います。映画や本、音楽や芸術に触れて心が揺れるとき、彼らの見えている景色に少し近づけているのかもしれません。
心が揺れてそれが精神的な教養になって、さらには自分でそれらを考え直して自分の考えにしたとき、自分がアップデートされた気分になります。新しい自分に新しい思想、それから新鮮な風景。
客観的な世界に対して使用される知性とはゆとりのある精神です。精神的に余裕がなければ外部の思想や風景を感じることはできないと思うからです。精神が良い状態だからこそ物事を純粋に見ること感じること受け入れることができるし、だからこそ考えて考えて、その結果として人生に彩りをつけることができるのではないでしょうか。
「人間は考える葦である」というパスカルの有名な箴言があります。我々の尊厳の全ては考えることの中にある。外の世界は平然と構えていますが、その世界を見ることは自分を見つめること、つまり考えることなのです。
人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、我々の尊厳の全ては、考えることの中にある。我々はそこから立ち上がらなければならないのであって、我々が満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
大自然に触れたとき心が純粋になる感じがするのは、人間に客観的な世界を思い出させてくれるからかもしれません。読書や芸術、映画、音楽鑑賞も、作者という媒介を通して客観的な美しさに私の視野を広げてくれるような存在なのかもしれません。
日々に忙殺される私は足元のことしか見えていないのです。毎日を経過させることに忙しく、考えていても考えていないような状態の私にショーペンハウアーの言葉がぐさりと刺さるようです。
自然を眺めることは意志の奴隷になっている知性を少しだけ解放させて外の新鮮な空気を吸わせることです。鎖に繋がれたままの知性は私の飼い犬のようです。もしくは私が飼い犬なのかもしれません。
働いて遊んで食べて飲んで忙しい毎日に、自分のことは見ていないのです。かといって外の世界も見ていないのです。
だから青空で大きく息を吸い込んだとき、世界が自分がそこにいたことを思い出す。
2020/07/06
