甘いおにぎり〜うつ病女子が中国で日本語教師に挑んだ2年間〜
大学3回生時、第2言語の中国語の授業は、文麗先生という50代半ばの台湾人女性が受け持っていた。彼女は抽選が行われるほど人気の先生で、私は運よく当選しクラスに入ることができた。授業が特に洗練されているとか、教え方が際立って上手いとかいう訳ではない。文麗先生から滲み出る人間的魅力、オーラに惹かれるのだ。私も文麗先生に強く惹かれた学生の1人だった。
文麗先生は大学の講師をしながら、中国の貧しい地域に学校を建てたり、恵まれない子どもに寄付をしたりというような活動をされていた。仏教にもキリスト教にも神様にも造詣が深く、世界をまるごと受け入れたような優しさと私たちを導くリーダーシップを併せ持った人。先生の笑顔には周りをカラフルに彩るパワーがあった。私には先生自身が、大きな広い心で学生を見守る仏様とか菩薩とか聖母様のように見えた。
ある日の授業中、文麗先生が教壇でこんな話をされた。
「中国語を学ぶなら、台湾より中国大陸に行ったほうが良い。視野を広げるなら、ここより大きな世界を見たほうが良い。30歳くらいまで勉強していても構わないから、経験を積むことが大事」
それまで私は、大学を出たら、就職するのが当たり前(高校教員を目指していた)と思っていたのだが、先生の言葉を聞いてハッとした。目が覚めたような感じだ。大学を卒業してすぐに教師になっても人生経験は浅いし、大したことは教えられないのではないかと感じていた。今のままじゃダメだという気持ちが強く、自分を成長させたかった。そんなときに、背中を押してくれる力強い言葉。さらに30歳くらいまで勉強しても良いという考えは、大学を卒業したら何が何でも就職しなきゃと焦っていた私の心を楽にしてくれた。
先生の生き方にも憧れた。貧しい子どものために精力的に活動している姿が、素敵だ。自分のことばかりだった私にとって、「人のために」という生き方は心に突き刺さるものがあった。
私は、文麗先生の言葉を信じてみようと思った。
「30歳くらいまで日本語教師として世界を周って経験を積み、帰国したら文麗先生のような視野の広い、大きな心で生徒を見守れる先生になろう」
という新たな夢を手にしたのだ。
もともと履修していた教員養成課程に加え、日本語教員養成課程も受講し始め、残りの大学生活は一気に忙しさを増した。
1か国目は、先生の話を聞いて、絶対に行きたいと思った中国に決めた。日本の約25倍もあるスケールの大きさを肌で感じてみたいし、中国語もきちんと勉強したい。
中国に行くと決めて動き出したものの、当時私はうつ病と診断されていて、ひどい憂鬱感で寮の布団から出られない、授業を無断で1ヶ月休む、食事が喉を通らず体重が10キロ近く減るといった有り様だった。1番大変なときを脱した後も軽いうつの波を繰り返していて、こんな状態で外国で生活ができるとは到底思えない。
だけど、今行かないと、一生後悔すると思った。今、海外生活を経験することは私の人生においてとても大切なことのように思えた。文麗先生の教えのとおり、縮こまった視野を広げ、自分を成長させたい。
心の裏側には、日本から遠く離れたら苦しい現実から逃げられるかもしれないという気持ちもあった。苦しい現実とは、「父の失踪による家庭崩壊からのうつ発症」だ。もう元に戻ることはないと分かっていても、私はバラバラになった家族を受け入れられずに苦しんでいた。海外に行くことで日本の家族から物理的な距離を保ち、さらに日本と異なる文化に飛び込むことで何かが良い方向に変わるのではないか。そんな、漠然とした期待があった。
海外行きを話すと、精神科の主治医は苦虫を噛み潰したような顔をした。はじめは渋っていたが、私の本気を感じたらしく、
「本当はダメなんやけど」
と言いながら薬をたくさん出してくれた。先生に感謝しつつ、私は薬をお守り代わりにスーツケースの中へ。出国前にはもう飲んでいなかったが、もしも外国でうつが再発しても薬があると思うと安心できる。飲むかどうかに関わらず、薬が手元にあることは、当時の私にとってとても大事なことだった。
無事に大学を卒業して半年後の2011年9月、中国安徽省合肥市での暮らしが始まった。合肥には大学で出会った中国人の友人が住んでいるから、心強い。
初めて中国の地に降り立ったとき、
「街が灰色や」
と思わず口にしていた。道には当たり前のようにゴミが落ちているし、昼間なのに空は薄暗くどんよりと濁っている。鼻をかんだらティッシュが黒く染まった。まだ発展途上にあった中国は、工場からの煙や排気ガスや何やかんやで、環境問題に直面していたのだ。
汗ばむ暑さの中、何か買ってみようと小さな商店に入り、ジュースをレジに持って行くと、なんと店員が携帯電話で通話しながらレジを打ち始めた。
「あははははー」
携帯片手に、笑いながらレジを打つ店員。これには驚いた。驚きを通り越して、面白くなってきた。 まさに、異文化ではないか。中国人の友人にこのことを話すと、
「中国では、お客様は神様じゃないからねー」
と言われた。なるほど。日本みたいにお客様が神様なのはやり過ぎな気もするし、だからといって中国のこの対応はフランク過ぎる気がする。中間くらいが丁度良いのかもしれない。
スーパーマーケットや道路は、日本とは桁違いに大きかった。スーパーの棚には、どれを選べばいいか分からないほどたくさんの商品が並んでいる。道路は徳島(地元)や高知(大学時代を過ごした)では、見たことがないほど広かった。とにかく、見渡す景色がどこもかしこもでかかった。
道行く人々は、親切だった。道を聞けば丁寧に教えてくれるし、外国人と分かれば目的地まで連れて行ってくれる人もいた。街には人が溢れ、嗅ぎ慣れない調味料のツンとする香りが漂い、車のクラクションが鳴り響き、活気溢れる安くてうまい屋台が軒を連ねている。見るもの全てが新鮮で、面白かった。
日本ではあまり見たことがない、 路上生活者もたくさんいた。お金を入れてもらうカンカンを置いてじっと座っている人、二胡のような楽器を演奏して、その報酬に小銭をもらう人。
「お金を恵んでください」
と、直接話し掛けられることも多かった。最初のうちは持っていた小銭を渡すこともあったが、路上生活者のあまりの多さに途方のなさを感じ、だんだんと無視するようになった。
中国での生活をスムーズに進めるため、はじめの3ヶ月は中国語を学ぶべく、安徽大学の中国語クラスに申し込んだ。朝8時から正午までみっちり授業、その後は自由時間だ。
中国で学生生活を始めてすぐに、「自己主張をしないと生きていけない」という問題に直面した。そもそもの人口が多く、食堂での注文もタクシーを拾うのも、待っていては永遠に順番が来ないのだ。並ぶという習慣がないため、食堂では注文口に学生が殺到。人の山を掻き分け前に出て、大声で注文したいメニューを叫ばないと食事にありつけない。タクシーも争奪戦で、止まったと思ったらダッシュで取りにいかないと、すぐに他の人に乗り込まれてしまう。要するに、強くないと生きていけなかった。はじめこそ戸惑ったけど、生活する上でだんだんと慣れていき、私自身も強く図々しくなっていった。
中国語コースを受講し始めて3ヶ月が経とうという頃、そろそろ仕事をと思い日本語学校に面接に行った。学生数が100人くらいの、小さな私立のスクールだ。面接官は30代の日本人男性で、フィリピン人の奥さんと1歳の娘さんを連れて日本から移住してきたそうだ。面接といっても外国で日本人同士という連帯意識からか、始終なごやかな雰囲気で進んだ。
「じゃあ、研修から始めましょう」
「よろしくお願いします」
大学で日本語教員養成課程を修了していたことが効いたのか、あっさりと採用が決まった。
初授業。10代から50代くらいまでの中国人生徒十数人の前に立ち授業をしたのだが、不思議とあまり緊張しなかった。私はあがり症で悩んでいたため、あれ?おかしいな?と思った。大学4回生時の教育実習では、緊張しすぎて手や膝が震えていたのに。
先輩先生からも、
「堂々としていて、良かったよ」
と褒められた。自分でも上手くできたと思い、それが自信へとつながった。上手くいった理由としては、「自分は外国人」という解放感がプレッシャーを減らしてくれたからではないか。私の体感としては、「ここは日本じゃない」と思うと3割増しくらい大胆になれる。
授業だけではない。たとえば、日本では穿いたことがない短い丈のショートパンツとサングラスを身に着けて、街を闊歩してみた。すごく自由な気持ちになれた。後にできた中国人彼氏と、カフェで人目を憚らずのキス。恥ずかしかったけど、1つ自分の殻を破れた気がした。他にも、普通は複数人で行く火鍋の店に1人きりで入り食事をしたり、習うのが恥ずかしかったダンス教室に通ったり。「恥ずかしさ」という厚い心の殻を破った先には、清々しい景色が広がっていた。
中国で生活し始めてから、私の中の「いっぱい経験しなきゃ、経験こそが何より大事なんだ」という思いは益々強まった。私はいつの間にか「経験信者」になり、成長のためにあれもこれも経験しなきゃ身に着けなきゃと躍起になっていた。HSK(中国語の資格)に合格するため、夜の時間を使って中国語を必死に勉強し、将来役に立つかもしれないと英語学校にも登録した。休暇にはNGOのボランティアに参加し、フィリピンのスラム街で子ども達と交流。経験を積むことでもっと立派な自分になれて、日本に帰ってから生きやすくなると信じていた。
私の「生きづらさ」の歴史は長い。大学3回生で家庭が崩壊する遥か前、まだ幼かったときまで遡る。おしゃれや芸能人に疎く、マイペースすぎる性格。友達の話に付いていけず、ヘラヘラ笑って誤魔化す日々。そんな自分は、人から見下され、バカにされている気がした。
「寝癖ぐらい直してきいよ」
「SPEEDも知らんの?!」
「そんな遊び、子どもっぽいけんやりたあない」
相手の子に、バカにするつもりはなかったのかもしれない。けれど、自分に自信がなかった私は、いちいち傷付き心を閉ざした。大学生になり、様々な自分改革を試みて、だいぶ堂々と振る舞えるようになってからも、頭の中では、
「あなたは、つまらない人間です」
という声がした。心の底では、自分はつまらない、価値がない存在なんだと感じていた。私は誰にもバカにされない、つまらなくない人間になりたかったのだ。
教師になりたいと思った理由の1つは、尊敬されたかったからだ。1度で良いから、心から尊敬されてみたかった。私はずっと違う誰かになりたいと思っていたから、誰かが私みたいになりたいと思ってくれたらどんな気持ちだろうと想像した。それは、とても満たされたものな気がした。
うつの症状が出始めたのは、合肥での生活が1年を過ぎた頃だった。軽い憂うつの波が、頻繁に行き来するようになったのだ。
「やばい」
お守り代わりに持っていたサインバルタ(抗うつ薬)とリーゼ(抗不安薬)を前に、私はしばらくの間、飲むかどうかを悩んだ。折角止めていた薬を、また飲み始めることに抵抗があった。うつの程度も軽いし、飲まなくても良いのではないか。だけど、万が一重症化してしまったら……。ここは日本ではないしやっぱり不安だ……結局、大人しく飲むことに決めた。
うつの波を自覚して数日が経ったとき、ベッドから体が起き上がらなくなった。仕事に行かなくてはいけないのに、動けない。休むしかないと思い日本語学校に電話を掛けた。中国人の上司に、
「実はうつ病で……」
と言う勇気はなく、
「少し、体調が悪いので休ませてください」
と連絡するだけに留めておいた。 うつ病を告白するのは恥ずかしかったし、変な目で見られるのではないかと怖かったのだ。
ボロアパートのベッドの上で1人うつの波と戦っていると、不安と恐怖にやられてしまいそうだった。しばらく再発していなかったことで安心していたのに、結局また繰り返している。中国で暮らして、だいぶ強くなったように感じていただけにショックだった。大学の終わり頃からは、病気の私も私、受け入れるぞ、と思っていたはずなのに、うつの苦しさを前にすると、やっぱり嫌だ、治れ、治れ、治れ、としか思えない。そして、治ったら2度と再発してくれるなと思った。
自らの弱さと対面するのは、辛かった。嫌なイメージばかりが頭の中をグルグル回り、自分で自分を攻撃し、しまいには全人類が敵になって批判してくるという妄想に憑りつかれた。
「あかん、壊れる」
しかし、どれだけ辛くても、中国で心の病院に行こうとは思えなかった。日本から薬を持ってきていたし、体の病院に行ったときの対応が適当すぎたからというのもあるし、私の中国語が病状を説明するには乏しいという現実的な事情もある。
窓を開けても、空は相変わらず笑い方を忘れてしまった人のように、どんよりと濁っていた。日本で暮らしていたときは青空が見えるのなんて当たり前だと思っていたけど、私はここに来て初めて、徳島や高知のカラッと晴れた紺碧の空とキラキラの陽気を愛しいと思った。あの暖かい空の下を散歩したい。
1ヶ月くらい掛かっただろうか。時間と薬と友人からの励ましにより、何とかうつを重症化させることなく日常に戻ることができた。また同じことを繰り返さないように、勤務時間を少し減らし、強迫的にやっていた中国語や英語の勉強時間を減らし、ずっとやりたかったダンス教室に通い始めた。日本にいたときは、「ダンスがやりたい」など恥ずかしくて言い出せなかったのだ。
露露は、ダンス教室で出会った18歳のダンサーの卵だった。好奇心旺盛で、外国人の私相手にも物怖じすることなく中国語でたくさん話し掛けてくる。私は、常に自然体の彼女に魅かれた。
露露は、思ったことを率直に口に出す子だ。運動神経の乏しい私のダンスを見て、
「ロボットみたい」
と大笑い。日本から持ってきた美容パックをプレゼントすると、
「パックなんか使わない」
と突き返され、韓国料理をごちそうしたときも、
「これは、食べたくない」
と嫌いなものはのけてしまった。はっきりきっぱりしているのだが、露露に人を傷付けようという意図が全くないことは、言い方とか雰囲気で伝わってくる。彼女のさっぱりとした性格は一緒にいて気持ち良く、私は露露のことが大好きになった。この少女と付き合う中で気を遣い過ぎないこと、いちいち傷付かないことを学んでいったと思う。ダンスはさっぱり上達しなかったが、露露という友人を得たことは、私の人生における貴重な財産となった。
中国生活も1年半になった頃、
「どうしても、日本人教師が必要なんです」
と知人から頼み込まれ、毎週水曜日、語学の専門学校で日本語のクラスを受け持つことになった。私が住んでいた合肥市の真ん中から、バスで1時間くらいの場所に建つ田舎の学校だ。この学校で、40人ほどの学生を前に日本語の授業をするのが、週1回のルーティンになった。
水曜日の早朝、専門学校行きの教員送迎バスに乗る前、私にはひそかな楽しみができていた。朝食の屋台で売られている「甘いおにぎり」だ。屋台には昆布や漬物などのしょっぱい系の具がいくつか並べられており、客の選んだ具で握ってくれるのだが、最後の仕上げに砂糖がまぶされるのだ。初めて買ったとき、「おにぎりに砂糖?」と絶句した私だが、口に入れてみると甘いお米としょっぱい具が絶妙のハーモニーを奏で、すっかり虜になってしまった。私の中の「おにぎりは、しょっぱい」という概念は、ガラガラと崩れ去った。とてもおいしかった。
ふと、中学1年生時にもらった通信簿を思い出した。成績は悪くなかったが、通信欄に担任の字で、「価値観を固持しすぎる。もっと柔軟になれ」的なことが書かれていた。私は頑固で、融通が利かない子どもだったのだ。大学を出たら就職しなきゃいけないとか、1人で外食するのは恥ずかしいとか、はっきり物を言うのは良くないとか、おにぎりはしょっぱいとか、私の中に固く結び付けられた様々な価値観や概念たち。それらは尊敬する先生の言葉や、異文化を体験することで、解けたり緩まったりしていった。
中国での生活は、2年で終えた。この後は、コロンビアの日本語学校に勤めることが決まっている。
思い切って日本を飛び出したからといって、全ての問題や苦しさが解決した訳では、もちろんない。私は心のどこかで、どこかに苦しみのない世界があるかもしれないと、子どもみたいなことを考えていた。
「自分自身が変わらない限り、苦しみはどこまでも付いてくる」
外国で暮らしても、壊れた家庭は壊れたままだし、それに伴う苦しさもちゃんと私の中に居ついている。それは私自身が向き合って、解決していかなければならない問題なのだ。何でもかんでも経験することが大事な訳ではないことも分かってきた。経験のための経験には意味がない。自分の心の声に、耳を澄まさなければならない。
2年の月日を中国で過ごし、視野が広がったかと言われたら、ぐんと広がった。日本で育んだ価値観だけが全てじゃないと実感し、生きる世界が広く大きくなった。また自分自身が以前より強く図々しくなれたことで、ビクビクすることや生きることへの恐怖が減った。幼い頃から抱えてきた「生きづらさ」を、少しだけ解消できたのではないかと思う。
「中国語を学ぶなら、台湾より中国大陸に行ったほうが良い。視野を広げるなら、ここより大きな世界を見たほうが良い。30歳くらいまで勉強していても構わないから、経験を積むことが大事」
私を中国へと導いてくれた文麗先生は、この言葉をくれた数ヶ月後、癌でこの世を去った。亡くなる数週間前、ホスピスで会った先生は教室と同じ、カラフルなあたたかい笑顔で私を迎えてくれた。
「癌になって良かった。病気の人の気持ちが知れたから」
そう言って笑った先生の顔を思い出すたび、私は優しい気持ちになれる。さあ、次はコロンビアだ。
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