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a Story of Thomas                   ニューヨークの路上から


プロローグ

 
私がニューヨークに移住した1980年代半ば、マンハッタンのロウアー・イーストサイドと言えば、日中歩くのにも緊張する地区だった。アルファベット・シティーとして知られるアベニューA.B.C.D地区には、アルコール中毒者やホームレスがたむろし、廃墟ビルが失われた時代の遺物として点在していた。その同じビルが不動産バブルの波に乗って、今では高級アパートに生まれ変わり、人気を博しているのを見ると複雑な気持ちになる。

 


旅の始まり-幻の紅茶


  電気も水道もない廃墟(写真上)。そこがトーマス(40)とアーリン(39)の住まいだった。1989年、夏も盛りを過ぎた頃、スクワッター(不法廃墟居住者)として生活している彼らと知り合った。
  当時、私はニューヨークの日系地元紙の記者カメラマンとしてスクワッターの話を聞こうと、この廃墟に何度か足を運んでいた。なぜ、どのようにそのような生活に至ったのか、そこで生きるとはどういうことなのかをルポしたいと思ったのだ。その日も入り口の赤いドアの前でいつ現れるかも分からない住人を待って途方に暮れながら座り込んでいた。「また今日も誰にも会えないのだろうか」。
  荒れたアスファルトの舗道は日に焼けて熱く、消火栓から流れ落ちる水の音だけが聞こえる静かな夏の午後だった。そこへ突然扉が開いて、中から二人が現れたのだ。
  「今からこの先の公園に昼飯を作りに行くけど来るかい?」ー。
それがトーマスと私の、4年に及ぶ不思議な旅の始まりだった。 


      トンプキンス・スクエア・パーク (マンハッタン東7-10 丁目、アベニューAとBの間) に着くとトーマスは、キャンプ用のコンロに火を点け、湯を沸かし始めた。メニューを尋ねると、「チキンスープだよ」という答え(写真)。その傍らでアーリンは、ペットボトルに何処からかくんできた水で、粉末紅茶を溶かし始めている。
  公園のベンチに座って食べるスープと紅茶の昼ご飯。「ティー、飲まない?」とアーリンは初対面の私にも勧めてくれたが、断ってしまった。のどが渇いていなかった訳ではない。衛生面が気になり、カップを手にすることがどうしても出来なかった のだ。
  トーマスは電気の配線技術の免許を持っている。働く意志もある。しかし彼には定職が無かった。たまに手にする仕事といえば、もっぱら建設現場の日雇い労働。収入は「良い月で400ドル、悪いと200ドル」。
  「今は人生のダウンの時期。でもこれからは上向きになると思うんだ。住む場所も見つかったし……」。
  "いつか、きっと" という思いが、彼を支えているようだった。

  午後の公園で1時間ほど過ごしただろうか。「よかったら、オレたちの所に寄って行くかい?」というトーマスの誘いに応じることにした。

  ほとんどすべての窓ガラスが割れてしまい、それが傷口のように見える廃墟。だが、"部外者" に荒らされないように、入口のドアはしっかりロックされていた。赤い頑丈な鉄のドアを開ける。ひんやりとしたカビ臭い空気の中を、がれきを除けながら進んだ。暗く、埃にまみれた廊下。2階の1部屋がトーマスの住処だという。


  以前はアパートだった5階建てのビル。内部はほとんど朽ち果てて、住めるスペースはごくわずかだ。ここに20人ほどが住んでいる。入口のドアのカギも、皆で金を出し合って取り付けたのだそうだ。

  トーマスとアーリンの部屋は10畳ほどで、テーブルと万年床、ろうそくと、食材と、それからペーパーバック。どことなくのんびりとした生活感が漂っていた。公園のスープの残りをおいしそうに食べるトーマス。確かにここは、彼らの「人生」の現場、雨をしのげる「HOME」なのだ。




  それから数ヶ月後の秋の終わり、トンプキンス・スクエア・パーク の脇で、ボランティアから食物の配給を受ける列に並ぶアーリンを見かけた。アーリンは妊娠していた。 


1989年、年の瀬の薪ストーブ

  雪。
  マンハッタン、ロウアーイースト8丁目、アベニューBとCの間に立つ廃墟をすっぽりと冬が覆っている。トーマスとアーリンの部屋の窓にガラスは無く、相変わらずビニールとむしろでふさがれている。暖房設備の無い廃墟で、どのようにこの寒さをしのいでいるのだろう。
  入り口の赤いドアの前に立つ。下からいつものように「トーマス」と呼んでみる。彼らがいれば開けてくれるはずだ。先程から降り出した雪が激しさを増してきた。しばらくして、「ガチャッ」と鍵の外れる音がして、重たいドアが開いた。
  1989年が終わろうとしていた。久しぶりに訪ねる彼らの部屋だった。秋に身重のアーリンを見かけてから、何となく足が遠のいていたのだ。

  中に案内された瞬間、その暖かさに驚いた。見ると部屋の真ん中にどっしりと薪ストーブが設置され、廃材が勢いよく燃えている。トーマスが作ったという。ストーブの上の鉄板には調理用の鍋やフライパンが置かれていた。コンロを兼ねたストーブという訳だ。「スクランブルエッグを作ることも、お湯を沸かすこともできるんだ」と、自慢げなトーマス。(写真)
  この住処を得て半年。彼らはしっかりと、対処している様に見えた。


  降りしきる雪が消音材になって、街の喧騒を吸収していく。薪が燃える音が、耳に心地よかった。アーリンはその日、虫歯が痛み、横になっていた。
  「どの歯が痛いの?」。尋ねると、彼女は口を開けて奥歯を指さした。まだ40前だというのに、既に幾本かの歯が無くなっている。
  「赤ちゃんが産まれるまで麻酔を使えないから、歯を抜くことはできないの」。時々「うーっ」とうめき、枕元のぬいぐるみに話し掛けては、痛みを紛らわそうとしている。

  気になっていた質問を投げかけてみた。「二人は、結婚しないの?」。生まれてくる赤ちゃんのために、真っ当な生き方をして欲しいというのが、私の個人的な願いだった。

  「結婚? ナニ ソレ? 日本語を話してるの?」とかわされた。私はとても笑う気になれず黙り込んだ。

  「紅茶でも飲まないかい?」。トーマスが切り出した。一瞬躊躇したがご馳走になろうと思った。水は下の消火栓からのもののはずだし、この部屋に台所がない以上、カップも清潔かどうか分からない。あの夏の日のように遠慮することもできた。しかし、トーマスとアーリンと私を繋ぐものは、この一杯の紅茶しか無いように感じてしまったのだ。
  紅茶が差し出される。トーマスは親切にハチミツを入れてくれた。恐る恐る含んだひと口目。甘いはずの紅茶は少しも甘くなく、洗剤の味がほのかにした。舌で味わわず、「ゴクリ」とふた口目を飲み込んだ。

  トーマスはニューオーリンズから、アーリンはパナマからニューヨークに流れて来た。麻薬に手を出して転落、ホームレスになった。トーマスには専門技術を活かせる定職が無く、アーリンはまた一本、大切な奥歯を失おうとしている。そして、二人に結婚の意志もない。

  それでも、ニューヨークに桜の花が咲く来年の4月、8丁目 東329番地に、新しい生命が産声を上げることだろう。


再起への道


(1) 約束

  1992年11月3日は風と雨で明けた。
  大統領選挙のその日、マンハッタン116丁目、1番街と2番街の間の仮設投票所に詰め掛けた人々の中に、トーマス・ヴァンスの姿もあった。社会福祉重視を一貫して主張してきた民主党は、ホームレスに投票権を与える運動を進め、クリントン氏への支持層を広げていった。ホームレスを経験した事のあるトーマスもこの日、「クリントンなら雇用を増やしてくれるだろう」という願いを抱いて一票を投じた。

  トーマス・ヴァンス、1949年ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。数学教師の母親に育てられた彼は、奨学金でイリノイ州のノースウエスタン大学に入学する。電気工学を専攻し、電気技術者免許を取得。その後、ニューオーリンズの石油会社に就職したが、86年のオイルショックによって失業。電気工組合のつてを頼ってニューヨークへやって来た。再就職したが、翌年再び失業。この時期にトーマスはドラッグに手を出してしまう。1ヶ月後、貯金を使い果たした時、彼に残されていたのはホームレスとして生きることだけだった。

  「転落は、あっという間だったよ」ー。

  冬は地下鉄駅の地下道が、夏は公園のベンチが身体を休める場所だった。「空き缶拾いをして命をつないだ」。アーリンと知り合ったのはその頃だ。彼女もまたホームレスだった。しかも麻薬常用の。

  1989年6月、彼らの暮らしに変化が起きた。ロウアーイーストサイドの廃墟で、つまりれっきとした屋根の下で生活出来るようになったのだ。「今は人生の"ダウン"の時期。でもこれからは、上向きになると思うんだ。住む場所も見つかったし」。ホームレスからスクワッターへ。この移行が、トーマスの顔に明るさをよみがえらせた。

  そんな彼に私は夢を語ることになる。今となっては、若さゆえの無謀な言葉に思えてしまう。あの夏のトンプキンス・スクエア・パークで、トーマスと交わした約束。

  「トーマス。ボクはいつか君のサクセスストーリーを作り上げたい。君がもう一度職を得て、きちんとした家に住み、幸せな家庭を築くまでをフィルムに収めていこうと思う」。

(2) マイルストーン

  トーマスに私が語った夢。今の私なら口に出来たかどうか分からない若さゆえの言葉だったのかもしれない。
  あの夏の公園で、トーマスと交わした約束。
  「トーマス。僕はいつか君のサクセスストーリーを作り上げたい。君がもう一度職を得て、きちんとした家に住み、幸せな家庭を築くまでをフィルムに収めていこうと思う」。

  その廃墟でアーリンは身ごもる。彼女の胎内に宿った小さな生命が、トーマスをもう一度人生のリングに引っ張り上げた。
  「今ならまだやり直せる。これから生まれてくる子のために、自分の人生を捧げるんだ」。トーマスの再起を懸けた挑戦が始まったのだ。その固い決意が、彼をドラッグの誘惑から離れさせた。

  1990年3月、ホームレスのふたりの間に長女ケンドラが無事誕生。だが、ニューヨーク市当局は、麻薬中毒でもある母親から生まれた赤子を強制的に福祉施設に収容した。トーマスがアーリンと別れたのはその直後だった。
  「彼女はケンドラの母親になるより、ドラッグを選んだのさ」。


独りの日々。廃墟の非常階段から私に「See You.」(1990年6月)

  

  トーマスはひたすら真っ当な生活を目指していく。
  当時アメリカ政府は何年かぶりに国勢調査を行い、調査員を一般市民から募っていた。まだインターネットのない時代だ。一軒一軒の家庭に出向き、人種や家族構成などを確認する必要があった。彼はスクワッターだったが、応募し、パートタイムの職を得た。そして、国勢調査員の身分証明を胸に家々を訪問するようになる。こんなところにアメリカの懐の広さが垣間見える。

  社会の一員になれたことで、トーマスに自尊心が戻っていく。彼の表情にそれは明らかだった。

  私は、その記念すべき里程標に達したトーマスの写真を撮った。


国勢調査員のカバンを持って、ゆったりと構えるトーマス。娘のケンドラに会いに行った際の、面会許可証のステッカーが壁にびっしり。それらもまた、旅の道しるべに違いなかった。



(3) 約束の力

  1990年9月。
  ブルックリンの私のアパートの電話が鳴った。トーマスの、いつもの穏やかな声が響いた。
  「サトル、実はあの廃墟が火事になった。みんな燃えてしまったよ。今は70丁目近くの安ホテルに転がり込んでいる。今日は、頼みがあって電話をしたんだ。ほら、オレのサクセスストーリーを作るって言っていただろう。だから、今の状況も写真に撮っておいて欲しいんだ。何もかもが無くなってしまったあの部屋を…」。

  1年前の約束がトーマスの中で何かになっている。マンハッタンの路上で知り合った、どこの誰かも分からない私の言葉を、この男性は自分の内部に摂りこみ、生きる励みにして来たのだ。あの不思議な夏の午後に始まった旅の進展に、驚くことしか出来なかった。


火事の後のトーマスの部屋。入口のドアのカギは破壊され、中にすんなり入れた。薪ストーブどころか、何もない伽藍洞。(1990年9月) 

   火事で焼け出されたトーマスは結局、ホームレス・シェルターに入ることにする。武器携帯者や盗みの常習者が多く、逃げ出す者も少なくない悪名高いホームレス収容施設に入ることを彼が甘受したのには、深い理由があった。そうすることで市が所有する低所得者用のアパートへの入居資格が得られるからだ。

  そして幸運にも福祉団体の援助で、程なくしてマンハッタン119丁目のスパニッシュハーレムにある1寝室のアパートをあてがわれることになる。
居を構え、児童福祉事務所の育児クラスを受講したトーマスに、ニューヨーク市はようやくケンドラを手渡すことを認めた。1991年1月30日、トーマスの大きな手に我が子ケンドラが戻ってきたのだ。


昼寝をするケンドラ。(1991年2月)


将来の就職の準備で、運転免許証取得を目指し教習中のトーマス。(1991年2月)



すやすや眠るケンドラ。福祉団体の援助であてがわれた快適な1寝室のアパート。(1991年4月)


昼寝から目覚めたケンドラ。(1991年4月)


オムツをチェック。あー臭い。でもオレの子だ。(1991年7月)



ハーレムの空


 

トーマスのアパートの屋上に出て記念撮影をした。澄んだ水晶のように晴れ渡った師走の空の下に、イーストハーレムの街が広がっている。来年の春、ケンドラは3歳になる。 (1992年・12月) 


   それから1年半ほど、私はトーマスと会わなかった。特別な理由があった訳ではない。また、いつか、という思いで、旅の行方を自然のなりゆきに任せたかっただけかもしれない。ケンドラが戻ってきたことで完結したという気持ちもあった。それが、久しぶりに訪ねてみようかと思ったのは、クリスマス気分に浮かれるマンハッタンの中心街の耀きを見ているうちに、ふとあの二人のことが心配になったからかもしれない。

   地下鉄に乗りイーストハーレムに向かう。地上に出ると、ミッドタウンとは打って変わった静かでのんびりとした、しかしピキーンと張りつめた冬の空気があった。高層ビルのないこの地域の空の広がりは、地下鉄で20分とは思えないほどの、ふたつの世界の隔たりをいつも私に知らせてくれる。

   入口のブザーに「VANCE」の名前を見つけてほっとした。6階建ての最上階を目指して階段を上って行く。玄関のチャイムを鳴らす。ドアが開き、ケンドラがにぎやかに迎えてくれた。成長して、しっかりとした顔つきになっている。
   ケンドラは、私のカメラやペンや髪の毛、何にでも好奇心を示し触りたがった。リビングルームの、キッチン寄りのコーナーに、大きなクリスマスツリーが飾られていた。
   「初めてのツリーさ」と、トーマスが笑う。

   ふたりはニューヨーク州の生活保護で暮らしている。月218ドルの現金と、172ドル分の食料品クーポンを頼りに。
   「ショッピングなんて高嶺の花だよ」。「でも・・」と、急にトーマスが声をひそめた。「ケンドラへのプレゼントに、おもちゃの電話を奮発したんだ」。娘に気づかれまいと小声で話すトーマス。
   「この子にだけは辛い思いをさせたくないんだ。ケンドラが笑っていてくれさえすれば、それで満足なんだ」。


1992年12月

   ケンドラは麻薬中毒の母親から生まれたが、それにつきものの睡眠障害などもなくスクスクと育っているという。
   「夜中にパンパンと銃声が響いても、いったん眠ってしまったらお構いなしなんだ」。
   ケンドラの話になると、トーマスの目が細くなる。

   もうすぐケンドラは3歳になる。「そうしたら・・・」とトーマスは思っている。
   「ケンドラが自分で用を足せるようになったら、日中は市の託児施設にこの子を預けて、来年は、何とか仕事につきたい」。

   トーマスとケンドラは歩き始めた。
   ゆっくりと、でも着実に。

                         (最終回へ)



最終回によせて

ここまでの記事を私は、当時スタッフ・カメラマンとして勤めていたニューヨークの新聞、「YOMIURI AMERICA」の紙上で何回かに分けてレポートしました。そして結びに・・・

   トーマスとケンドラは歩き始めた。
   ゆっくりと、でも着実に。

こう締めくくってペンを置いた時、爽やかな気持ちに満たされたのを今でもよく覚えています。1992年の暮れのことです。トーマスのアパートの屋上から見た市井の人々が住むハーレムの町、冬の香りいっぱいの冷たい空気、ファインダー越しにつつましく微笑む父と娘。私にとってそれは、18年ほどの記者生活の中でも、とりわけ幸せなひと時でした。

2004年。その新聞社がアメリカでの業務を切り上げた時、私は失職します。考えた末、選んだのはフリーランスの道でした。もともとビジネスセンスの乏しい私。そんな私が今まで生きてこれたのは、数えきれないほどの支えや助け、そして友からの愛ある親切があったからです。

フリーになって数年後の、まだまだ足元の定まらない時期。そんなある日、晴天のへきれきのように、本の出版の話が降ってきました。ニューヨークで活躍する、翻訳や通訳もこなすライターの鈴木智草さんからのオファーでした。彼女がペンを担当し、私はカメラを担当するとのこと。ありがたいことに鈴木さんは、ニューヨークのコミュニティー紙で細々と写真を発表していた私に目を留め、声をかけてくれました。

ニューヨークのストリート歩きの楽しさを伝える旅行ガイドブックの企画でした。二人で、紹介する地区を選別し、歩いて取材を始めました。本は横長のレイアウトで、私は、取材するストリートを横に5メートルずつ移動しながら撮影します。そして東京のデザイナーさんが、それをパノラマ仕立てに繋ぎ合わせるという構成でした。この理由で、一枚一枚の写真には時間差が生じ、それが、ストリートで出会う物語を追体験できる仕掛けになっていたのです。

取材、編集、撮影のやり直しなど、とても楽しい3か月でした。そのようにして、「ニューヨークのおさんぽ」(竹書房刊)は、出版を迎えることになりました。その後、同じ出版社からもう1冊、今度は私が撮りためてきた街角のコドモたちの写真をまとめた本を出させていただきました。ニューヨークの街を、そこにどんなコドモたちが暮らしているかという切り口で、日本の皆さんに紹介したいと思ったのです。

悩んだのは、最終章でした。本全体を貫くテーマが読者に伝わるような結びにしたかった・・・。しばらくすると、トーマスとケンドラのことが自然に頭の中に浮かんで来ました。彼らの人生の軌跡を最終章で再び、一気に紹介するのはどうだろう・・・。

いいかも知れない・・・。

そして、ふと思いました・・・。

・・・あの二人は、どうしているだろう・・・。

あれから15年も経っている・・・。

トーマスとケンドラは元気だろうか・・・。

訪ねてみようか・・・。


最終章

ケンドラ


   わたしはケンドラ・ヴァンスです。今17歳。高校の最終学年で、来年は大学生になります。よく勉強して、将来の夢は看護師さん。そうやって人々の助けになりたいんです。

   今ワタシがこうしていられるのは、お父さんのおかげだということを知っています。父は、ワタシがどのような境遇の下に生まれたのか話してくれました。そのすべてを受け入れることができたのは、やっぱり父ゆえだからだと思います。悲観なんかしません。ワタシにはこんなに素晴らしい父がいるのですから。

   父はワタシを見捨てないでいてくれました。いえ、それどころか、ワタシのためにファイトしてくれた。その勇気あるファイトの結果、赤ちゃんの頃からこのアパートに住めて、愛情あふれる支えをいっぱい貰って、今日まで生きてこれました。父がワタシのためにしてくれたすべてに感謝しています。

   学校では、ワタシはみんなと少し違っているのかな。このあたりの17歳の女の子は安易に妊娠したりします。そういうことが珍しくありません。

   けれどワタシは、今は勉強に打ち込んで、目標に向かって努力したいのです。これもやっぱり父の影響が大きいかな。お父さんを喜ばせたいんです。

   父は、挑戦し続けることの大切さを教えてくれました。

   いつのまにか、それがワタシのモットーになりました。お父さんがこういう人でなかったら、ワタシもこういう人間ではなかったのですから・・・。ワタシはやっぱり幸せ者です。


△二人を、あの同じ屋上で写した。(2007年、夏の終わり




エピローグ


   そんなことがあるものなのです。

   ホームレスとして廃墟に住んでいた人間が、我が子の誕生をきっかけに、もう一度懸命に生きてみようと奮起し、ドラッグを絶ち、職を得、今ではちゃんとしたアパートに暮らし、その子が今年、17歳の美しい若者になっている。こんな夢のような物語が、この街では起こり得るのです。

ケンドラが自分の部屋に案内してくれた。若者の部屋。
壁を撮らせてもらった。(2007年、夏の終わり) 

   そのようなニューヨークの街が、私は大好きです。この街の人々の、悲しいくらいひたむきな生き方を、素晴らしいと感じてきました。

   私がカメラを構える時、その人の人生の糸と私の人生の糸が一瞬、交わります。それだけのことです。それ以上でも、それ以下でもありません。

   それなのに、写真は・・・、写真って奴は、いつのまにか "糸の交差" を共有した関係の中で、人生の愛おしい輝きを発光し始めているのです。ある時間を、共に生きた証し として・・・。


                             終 わ り



△トーマスがスクワッターとして暮らしていた廃墟は、高級アパートに。(写真上:1989年/写真下:2007年)


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