【短編小説#11】ありがとうの金額
Thanksアプリは、スマホに最初から入っている。
誰かの親切を受け取ったとき、あるいはそれを目撃したとき・・・
画面をひと押しするだけで「ありがとう」を送れる。
アプリはシンプルだ。
相手のQRを読み取るか、近くにいる人の一覧から選ぶ。
金額はスライダーで数秒。ワンタップで送信。
送った側には短いメッセージ欄、受け取った側には通知と履歴。
「いつ」「誰に」「いくら」「どんな言葉で」――それだけが、静かに積み上がっていく。
だから、気持ちはすぐに形になる。
そして形になった気持ちは、いつでも確認できる。
Thanksが普及してから、街はたしかに優しくなった。
道を譲れば、指先ひとつで小さな金額の「ありがとう」が届く。
落とし物を拾えば、数百円のThanksが飛ぶ。
店員の丁寧さには、レジ横で“その場の感謝”が添えられる。
親切な者が利益を得る。
そのシンプルな構造は、社会を静かに、確実に変えていった。
誰もが、何かをしてあげたいと思った瞬間に、それを行動にできるようになった。
手を差し伸べた分だけ、喜びの分だけ、ほんの少しの利益が戻ってくる。
それは報酬というより、「あなたの親切は確かに届いた」という証明に近かった。
自然と、人は動くようになる。
助けた人も、助けられた人も、周りで見ていた人も、画面をひと押しするだけで気持ちを渡せる。
この手軽さは、正しさよりも先に、習慣になった。
そして、当たり前にお金が流れる場所には、当たり前に“プロ”が生まれた。
かつて、動画が職業になり、誰かの「面白い」が生活になった時代があった。
あれと同じように、Thanksもまた、誰かの「親切」を職業にした。
「ありがとうを集める人」
困っている人を見つけるのが早くて、手を貸す動きがきれいで、言葉の置き方がうまい。
彼らは善人として称賛され、フォローされ、真似される。
なかには、街角の小さな親切だけで終わらず、配信や企画で人の善意を束ね、桁の違うThanksを集める者も現れた。
“親切のスター”――画面越しに誰かを救い、拍手のようにThanksを浴びる存在だ。
誰かが言った。**“Thanksで食べていける時代だ”**と。
街は優しくなった。
ただ――送れるようになった瞬間から、送らないことが目立つようになった。
感謝が金額になった瞬間から、言葉だけのありがとうが、どこか頼りなく見えるようになった。
スマホが鳴った。
《Thanks:¥300》
僕は反射で画面を伏せた。
ありがとうの通知なのに、体が逃げる。
嬉しいより先に、別の計算が立ち上がってしまう。
次はいつ、誰に、いくら返す番が来るのか。
いま月の残りで、余分な気持ちまで払えるのか。
受け取ったはずなのに、もう“支払う側の自分”が背中に立っている。
僕は、優しくなった街で、少しずつ人を避けるようになった。
助けるのも怖い。助けられるのも怖い。
どちらも、最後に数字が残る気がするからだ。
廊下の向こうで、誰かの通知音が鳴る。
その軽さが、僕を孤独にする。
その日、宅配ボックスの前で、女性が立ち尽くしていた。
片手にスマホ、もう片方に不在票。画面を何度も見ては、指が途中で止まる。
寒さのせいじゃない。
分からない顔だった。
僕は、声をかけるか迷った。
この街では、声をかけることはすぐ“親切”になる。
親切は、あとから数字になって戻ってくる。
それが当たり前になってから、僕は人に近づくのが少し怖くなった。
でも、その日は違った。
女性の指先が、わずかに震えていて、見ていられなかった。
「……大丈夫ですか」
女性が振り返る。
隣の部屋の人だ。確か、佐々木という名前。
会釈を交わす程度の関係。名前も、苗字しか知らない。
「あ、すみません……これ、番号が分からなくて。何回かやったんですけど、開かなくて」
恥ずかしさを隠すように、声が小さい。
「不在票、見てもいいですか」
僕が言うと、佐々木さんは一瞬ためらってから、不在票を差し出した。
一瞬、指が触れる。
指が冷たい。
僕は紙を見て、すぐに分かった。
桁のひとつが、読み違えやすい字体だった。
「ここ、たぶん……」
指で示して、画面に打ち込む。
カチ、と軽い音。
扉が開いた。
佐々木さんが、ふっと息を吐いた。
その吐息が、なぜか僕の胸まで軽くした。
「助かりました……ほんとに」
佐々木さんは荷物を取り出して抱え直した。
思ったより重いのか、腕が少し沈む。
「持ちますよ」
僕が手を伸ばすと、佐々木さんは反射で首を振った。
「いえ、大丈夫です」
と言いつつも、腕が震えている。嘘だ。
でも僕は、その嘘を責める気になれなかった。
佐々木さんは、荷物を一旦床におろし、スマホを手に取った。
Thanksの画面を開く、あの慣れた動き。
僕の喉が、条件反射みたいに締まる。
――送られる。
――受け取る。
――そして、返せない自分が残る。
佐々木さんの指が、携帯の画面の上で止まった。
止まって、それから――画面を閉じた。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
僕は思わず携帯から、佐々木さんに視線を向ける。
佐々木さんは、少しだけ笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「いつもなら送るんだけど……今月、ちょっと厳しくて」
言い訳みたいに聞こえるのが嫌だったのか、すぐに息を吸って、言い直す。
「でも、助かったのは本当。感謝してます」
僕は首を振った。
「大丈夫です。――それより、持ちますよ」
僕は手を伸ばし、佐々木さんの持ち上げようとする荷物の下側を支えた。
佐々木さんの腕から重さが少し抜けて、肩がわずかに上がる。
「……すみません」
「謝らなくていいです」
僕らは並んで廊下を歩いた。
段差のところで自然に歩幅を揃える。
エレベーターの前で、同じタイミングで息を吐く。
その短い距離が、妙に長く感じた。
誰かと“何も精算しないまま”一緒に歩くのが、久しぶりだった。
佐々木さんの部屋の前に着く。
僕が荷物を床に下ろすと、佐々木さんもようやく肩の力を抜いた。
そして、スマホではなく、僕の方を見た。
「……本当に、ありがとう」
佐々木さんは、スマホに手を伸ばさなかった。
そのまま、少しだけ息を吐いて、笑った。
僕は何か言おうとして、言葉が見つからず、頷いた。
「……助かりました」
そう言うと、佐々木さんは小さく首を振った。
「ううん。助かったのは、私」
その一言で、廊下の空気がほどけた。
いつもなら胸の奥で鳴り出すはずの何かが、今日は静かなままだった。
僕はもう一度だけ頷いて、会釈をした。
佐々木さんも同じように会釈を返した。
その夜、部屋に戻っても、僕はすぐにスマホを開かなかった。
通知の有無を確かめる必要がない。そんなことが、久しぶりだった。
翌朝、廊下で佐々木さんとすれ違った。
いつもの会釈より、ほんの少しだけ目が合う時間が長い。
「昨日は、どうも・・・」
僕が言うと、佐々木さんは小さく笑った。
「ううん。こちらこそ」
それだけで終わった。
それだけで、十分だった。
街は今日も、Thanksの音で軽やかに回っている。
エレベーターの中で、誰かが「送った?」と笑う声がする。
僕は笑わなかった。笑えなかった、じゃない。笑う必要がなかった。
佐々木さんも、同じタイミングで視線を落とした。
画面じゃなくて、床に。
――あ。
と思った。
この人も、ここで呼吸が浅くなる側なんだ。
その気づきは、同情じゃなかった。
似ている、という感覚。
ある夕方、コンビニ帰りにエレベーターで一緒になった。
佐々木さんは小さな袋を抱えていて、僕はレジ袋を片手に持っていた。
階数ボタンを押す指が、同じ速度で動く。
沈黙が落ちても、居心地が悪くない。
ただ、壁の向こうの世界だけが、やけに騒がしい。
隣の人のスマホが鳴った。
Thanksアプリの小さな通知音。
その人が笑って「ありがと」と言う。
佐々木さんが一瞬、視線を落とした。
僕も同じように視線を落とした。
目が合って、すぐに逸らす。
それでも、どこかで合図みたいに残る。
――この人といるときは、鳴らさなくていい。
そんな感覚が、言葉になる前に共有されていった。
休日の夜、階段を上るとき、手すりが少しだけ揺れるのに気づいた。
ほんの数ミリ。気にしなければ見過ごす程度。
でも、子どもが走ったら。
荷物を持った人が体を預けたら。
僕は部屋に戻り、工具箱を持ってきた。
ネジを締める。金属が噛み合う音。
揺れが消える。
誰にも見られていない。
当然、Thanksも来ない。
それでいい。
それがいい。
そう思える自分が、少しだけ不思議だった。
工具箱を抱えて立ち上がったところで、階段の下から足音がした。
佐々木さんだった。仕事帰りらしく、肩が少し落ちている。
彼女は手すりを見て、僕を見て、目を瞬かせた。
「……直したんですか」
「揺れてたので。危ないかなって」
佐々木さんは、ほんの少し間を置いた。
それから、スマホに手を伸ばしかけて――止めた。
その仕草は、もう僕にも分かった。
“いつもなら送る”という動き。
そして、送らないという選択。
「……ありがとう」
佐々木さんはそう言って、笑った。
笑いながら、少しだけ息を吐いた。
「こういうの、好き」
「好き?」
僕が聞き返すと、佐々木さんは少し照れた。
「うん。……誰も見てないのに、やるやつ」
その言い方が、胸の奥にすっと入った。
褒められたというより、見つけてもらえた感じがした。
僕は頷いて、工具箱の取っ手を握り直した。
「誰にも言わないでくださいね」
冗談めかして言うと、佐々木さんは小さく笑った。
「うん。言わない。……言ったら、数字になるから」
その一言が、静かだった。
静かで、やさしかった。
翌日、僕は職場で同僚の会話を聞いた。
「昨日さ、駅前で倒れた人いたじゃん。あれ、助けた人にめっちゃ飛んでたらしいよ。誰か見た?」
「見た見た。あの場にいた人、みんな送ってた」
「送るでしょ。だって親切じゃん」
軽い笑い声。否定じゃない。正義でもない。
ただ、“そういう空気”が当たり前になっているだけだ。
僕は笑えなかった。
笑えない自分を責める気もなかった。
帰り道、佐々木さんの顔が浮かんだ。
「言わない。……言ったら数字になるから」
あの言葉が、僕を守った気がした。
数日後、ゴミ置き場で佐々木さんが段ボールをまとめていた。
紐がほどけて、指が少し赤くなっている。
「手、貸します」
僕が言うと、佐々木さんは一瞬だけ迷った。
それから、頷いた。
「……お願いします」
僕は紐を通して、きつく締めた。
佐々木さんが、ぽつりと言う。
「こういうとき、送るのが当たり前なんだよね」
「……ですね」
僕が言うと、佐々木さんは僕を見た。
たしかめるみたいな目だった。
「でも、あなたには……」
言いかけて、言葉を選び直す。
「……送らない方が、いい気がする」
僕の胸が、少しだけ熱くなった。
「僕もです」
言い終えてから、軽く後悔した。
直球すぎたかもしれない。
でも佐々木さんは笑わなかった。
「うん」
短い返事。
短いのに、しっかり届く。
二人の周りに、見えない線が引かれた気がした。
壁じゃない。境界でもない。
外と内を分ける、薄いカーテンみたいな線。
その線の内側では、ありがとうが数字にならない。
ならないことが、約束みたいに感じられる。
その夜、廊下で佐々木さんとすれ違った。
「……あの」
佐々木さんが呼び止める。
いつもより少しだけ声が小さい。
「もし時間あったら。お茶だけ」
“お礼とか、そういうの抜きで”
彼女は言わなかった。
言わなくても、もう分かるから。
僕は頷いた。
「時間。あります」
小さなテーブル。湯気。
佐々木さんはマグカップを両手で包み、窓の外を見た。
「私ね、適応はできるんだ」
ぽつりと言う。
「送るのも受け取るのも、別に、できる。でも……」
「……でも?」
佐々木さんは少し笑った。
「どこかでずっと、息苦しい」
僕は頷いた。
その言葉の意味を、説明されなくても知っていた。
「あなたと話すときは、軽くなる」
そう言って、佐々木さんは視線を落とした。
照れたのだと思う。僕も同じだった。
「……僕もです」
それだけ言うと、部屋の空気が少し柔らかくなる。
沈黙が落ちる。
沈黙が、気まずくない。
佐々木さんが小さく笑った。
「変だよね。送らないだけで、こんなに近く感じるなんて」
僕は首を振った。
「変じゃないです」
言ったあと、少し間を置いて、付け足した。
「……むしろ、やっと普通な感じがします」
佐々木さんが、ふっと息を吐いた。
その息が、あの日の宅配ボックスの前の吐息と同じだった。
「じゃあさ」
佐々木さんは、勇気を出すみたいに言った。
「このまま、少しだけ――外側にいようか」
外側。
取り残される感じ。
でも、息ができる場所。
僕は頷いた。
「……はい」
その返事が、告白みたいに聞こえて、自分で少し驚いた。
佐々木さんも、同じ顔をした。
二人で笑った。
通知の鳴らない笑い方だった。
翌日も、街は明るい。
通知音が鳴り、ありがとうが飛び交う。
それはたぶん、悪いことじゃない。
それでも、僕らの間には、ひとつだけ違うルールが残った。
“送らない”という選択。
それは節約でも、反抗でもない。
誰にも見えない場所で、相手を大切にするための合図。
僕は玄関を出るとき、手すりに軽く触れた。
揺れない。
きっと今日も、誰も気づかない。
でも、佐々木さんだけは気づく。
僕も、佐々木さんが気づくことに気づいている。
その連鎖が、未来の入口みたいに思えた。
雨上がりの街が、眩しく光っていた。
【短編小説こちらにまとめています】
一人でも多くの人が楽しく生きる
そんな世界にしたくて
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【1分で目の前の世界を変えたい(*'▽')。詩をこちらにまとめています。】
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