黄色いメガホン
「まだまだ!」
「本気でやれ!」
黄色いメガホンを持った小さいおじさんに叱咤されながら
私はずっと走り続けてきた。
実在しないそのおじさんのせいで
私は壊れかけていた。
ブーブー、ブーブー
携帯のアラームが鳴り続けている。
どうしよう、まずい…
布団から起き上がれない。
なぜだろう。涙がとめどなく溢れてくる。
天井をただ見つめ、力なく呟いた。
「もうだめだ…。休まないと。」
私は立ち止まることにした。
そして元気な日と絶望の日々を繰り返し、
あのおじさんを見かけることも
最近は少なくなってきていた。
ここで、私に大きな疑問が浮かぶ。
あのおじさん、誰だ?
最近まで
私の頭の中には、昭和の体育教師が存在していた。
右手には竹刀、左手にはメガホン。
事あるごとに竹刀でこっちを威嚇しながら
メガホンを使って怒鳴り散らかしてくる。
「褒められたからって気を抜くな!もう失敗できんぞ。」
「休みたいだと?ふざけるな、腕立て100回追加!」
「連帯責任、もちろん全員でだ!」
「は、はい。」
まるで、昭和のスポ根ドラマである。
体罰をも厭わない、昭和の体育教師に歯向かえるはずもなく
私の思考も知らず知らずのうちにおかしくなっていった。
「私が全部完璧にやります。」
「皆が不幸にならないよう、私が頑張ります。」
この教師、相当やり手である。
ある日、
ヒックヒックと子供のように泣きじゃくりながら
私は夫に謝った。
「ごめん。もう無理だ、もう頑張れない。
私が頑張らないと、みんな幸せじゃなくなっちゃうのに…
本当にごめん、もう頑張れない…」
すると
夫は困惑した顔で言った。
「え?」
そんなに弱くてはダメだ。
妻として、母親として失格だ。
そんな言葉で責められるだろうと覚悟した、次の瞬間。
「こっちの不幸、勝手に決めないで?」
…?
衝撃だった。
言葉の意味を理解できなかった。
そして
数秒の沈黙の後、
私の口からは自然と言葉が出ていた。
「おっしゃる通りです…。」
意外なことに、
私には人の不幸を決定づける力などないようだ。
今の今まで、
皆をまわしているのは私だと思っていた。
あの体育教師がいつも怒鳴っていた。
「まだまだ!こんなんで休むな!」
「お前のせいで全員やり直しだぞ!」
その言葉を聞くうちに、
私は皆の人生まで背負ったつもりになっていた。
自分の傲慢さに恥ずかしくなって、
いつしか泣きながら笑っていた。
取り乱し続ける私を、夫は心配そうに見つめていた。
私はその顔を見て、
まだ大丈夫だと、心から思えた。
それにしても、
いつからこんなにも壮大な勘違いをしていたのだろうか。
あの体育教師、いつからいたんだ?
目の前に座る夫を見ながら、考えていた。
ふとキッチンでの何気ない会話を思い出した。
「手料理を美味しいと褒めても流されちゃうけど
ちょっとでも何か言うと、すごく落ち込むよね。」
「そりゃそうでしょ、
せっかく作ったご飯を否定されたら悲しいにきまってる。」
「いつもは美味しいって褒めてるんだよ?」
眉間にシワを寄せながら私は言う。
「褒められたことないけど?」
「いやいや、いつも美味しいって言ってるじゃん。」
私は首を傾げた。
「ああ、あれ褒めてたの?」
夫は盛大にため息をついてからツッコミを入れる。
「褒めてるわ!」
「あ、そうだったんだ。
美味しいのが普通だと思ってたから、褒められてると思ってなかった。」
大真面目にそう言い放つ私を見て、
夫は思いっきり吹き出した。
「三つ星シェフかよ!!」
私はムッとして黙っていた。
おかしいのは夫のほうではないか。
「美味しい」が褒め言葉になるはずがない。
「美味しい」以外は、失敗なのだから。
しばらく無言の時間が流れた後、夫がこちらを見て言った。
「今度からはさ、褒めたらちゃんと喜んでね?
全部なかったことにしたら、もったいないよ。」
そのつもりだ。
褒められるたびに、料理への気合が入るのだから。
「次も失敗できない、次も上手く作らなくては」と。
一度たりとも、期待を裏切りたくなかった。
もしかしたら夫は
この頃からすでに、あの体育教師の気配を感じとっていたのかもしれない。
そして、今になれば分かる。
きっとあの教師、
褒められた言葉を「もう失敗できない」と勝手な通訳で
私に伝えてきていたのだ。
とことん迷惑な通訳者だ。
ハリウッドスターの通訳でさえ、信じられなくなりそうだ。
だが私は、
それからもそのニセ通訳を疑わなかった。
ニセの通訳を聞き続け、
私は褒められても何も感じなくなっていった。
そしてついには、
自分の心や体の声まで、聞こえなくなったのだ。
でも、なぜ私はそんなにも
あのニセ通訳を信じていたのだろう。
期待を裏切れば、愛されなくなると思っていた。
私が愛されるには、理由が必要だった。
それに気付くまで
だいぶ時間がかかってしまった。
この夫は、
私に三つ星シェフなど望んでいなかったのに。
いつかまた、
黄色のメガホンでせっせと怒鳴るおじさんを見かけたら
あのメガホンは没収しようと思う。
今度こそ、きっと。
