飛距離のある卒園ソング
私は、園でわりと普通にJポップを歌う。
恋愛の歌だって歌う。
人生っぽい歌も歌う。
「君が好き」だの「会いたい」だの、
子どもには理解が難しそうな言葉が並んでいても、
不思議と、そんなに違和感はない。
たぶん、子どもが歌うと
歌詞はいったん“意味”を離れて、音になるからだ。
言葉がメロディに溶けて、
ふわっとした世界観だけ残る。
だから、恋愛でも人生でも、案外いける。
なのに。
この歌だけは、引っかかる。
「ね おじいちゃんになっても
ね おばあちゃんになっても
ずっとずっといっしょに
あったかく つきあってたいね」
引っかかる場所は、そこだ。
“おじいちゃん
おばあちゃんになっても”
ここ。
幼児にとって「大きくなったら」だって曖昧なのに、
いきなり老後まで飛ぶのは、距離がありすぎる。
進級も成人もすっ飛ばして、
突然“おじいちゃん、おばあちゃん”というゴール地点だけが出てくる。
これは未来の話というより、
未来の“終わり”の話だ。
子どもの世界にない時間のスケール。
冷静に考えてほしい。
大きくなったら
仮面ライダーやプリキュアになりたいって言ってる子たちが、
自分がおじいちゃん、おばあちゃんになるなんて未来を想像するだろうか?
しかも子どもにとっての「おじいちゃん、おばあちゃん」って、
優しくて、お菓子をくれて、だいたい味方で、財布のひもがゆるい家族の一員であって、
「自分がなるもの」じゃない。
未来の自分として想像するには、リアルがなさすぎる。
だからこの歌を子どもが歌うと、
私はちょっとだけ変な感じになる。
子どもたちは、
今日を歌っているつもりなのに。
歌詞だけが、勝手に遠くへ行く。
そして行き先が、老後。
重いし、
急すぎる。
恋愛ソングは、夢として歌える。
人生ソングも、物語として歌える。
でも「おじいちゃん、おばあちゃんになっても」は違う。
それは、
子どもが持ってる未来じゃなくて、
大人が知ってる未来だ。
別れがあること。
時間が過ぎること。
会えなくなる日が来ること。
それを知っている大人側の感情が、この歌詞に透けて見える。
そこが、この歌だけ妙に引っかかる理由だと思う。
それでもこの歌が保育界で愛されるのは、分かる。
この歌が好きって仲間内でもよく聞く。
でも、たぶん泣いてるのは、子どもじゃない。
別れを知ってる側が、
終わらせたくなくて歌ってる。
そういう歌。
「ずっと一緒」って、
響きはきれいだ。
でも現実はわりと早い。
春休みが終わったら、一年生。
ランドセルの色が気になる。
席替えが気になる。
新しい友達ができる。
子どもは前に進む。
置いていかれるのは、だいたい大人。
お別れは、
きれいに終わらなくていい。
泣いてもいいし、泣かなくてもいい。
まとまらなくてもいい。
「ずっと」じゃなくて、
「今日ここまで」だけで十分だと思う。
私はそういうタイプだから、
この歌は選ばない。
「おばあちゃんになっても」じゃなくていい。
今日、いっしょに笑えたら。
明日、また会えたら。
幼児の世界はそのくらいで、ちゃんとあたたかい。
そして、老後の約束する前に、まず帰りの支度をしよう。
※ちなみにこの歌は「ね」です。
好きな人はごめんなさい。
でもメロディは好きです😊
歌詞についてはあくまでも私の勝手な
個人的な思いです。
