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パワハラを受けていなくても、心はすり減っていく

「上司が同僚を怒鳴っている場面を見ただけで、その日は仕事が手につかなくなった」「自分は何も言われていないのに、会議室に呼ばれるだけで動悸がする」「異動して環境が変わっても、大きな声を聞くと体がこわばる」

自分が直接の被害者ではないのに、心と体に不調が出る。そのことに戸惑い、「これくらいで参っているなんて」「自分が我慢すればいい」と、苦しさを言葉にせずに抱え込んでしまうという方も少なくないようです。

こうした声の背景には、2026年7月に厚生労働省が公表した統計があります。仕事のストレスが原因で精神障害を発症したと認定された件数は1082件にのぼり、7年連続で過去最多を更新しました。労災の請求件数自体も前年度から1178件増え、4958件に達しています。そして、その原因として最も多かったのが、上司などからのパワーハラスメントでした。

「見ているだけ」でも心は消耗していく

「自分は被害者じゃないから」と、その苦しさを言葉にできずにいる人は少なくないのではないでしょうか。

実は、パワーハラスメントが与える影響は、直接その対象となった人だけにとどまらないことが、産業保健の研究分野で指摘されています。職場でハラスメントが発生していると、それを見聞きする立場にある従業員も、メンタルヘルス不調のリスクが高まることが調査で示されているのです。怒鳴り声や叱責の場面を繰り返し目にすることで、「次は自分の番かもしれない」という緊張が積み重なり、当事者と同じような警戒状態が続いてしまう。つまり、当事者かどうかにかかわらず、ハラスメントが存在する環境そのものが、そこで働く人たちの心をすり減らしていくということです。

SNSで語られる「見ているだけなのに苦しい」という声は、決して大げさな表現ではなく、こうした職場全体に広がる緊張の実感を映し出したものだと言えそうです。

パワハラによる不調は「気の持ちよう」ではない

パワーハラスメントによって生じる精神的な不調は、職域における「いじめ・嫌がらせ」という加害行為の結果として生じる、トラウマ反応性の病態であると、産業精神保健の臨床研究では説明されています。当初は適応障害と診断されることが多く、不安感や抑うつ気分に加えて、睡眠障害、悪夢、フラッシュバック、過覚醒、そしてその場面を避けようとする回避反応を伴うことも珍しくありません。

職場環境を調整するなどの治療的な介入を行っても、こうした症状が6か月以上続く場合には、PTSDに似た持続的なトラウマ反応や、うつ病へと進行する可能性が高くなるとされています。会議の声を聞くだけで動悸がする、上司の足音で身構えてしまう。そうした反応は、決して大げさなものではなく、脳と体に刻まれたトラウマへの正常な防御反応なのです。自分の反応に名前がつくこと、つまり「これはトラウマへの正常な反応なのだ」と理解できること自体が、回復への最初の一歩になるとも言われています。繰り返し理不尽な扱いを受ける環境に身を置き続けると、「何をしても状況は変わらない」という無力感が学習され、助けを求める気力そのものが失われていくことも指摘されています。

こうした背景を踏まえ、2020年にはパワーハラスメントが精神障害の労災認定基準における心理的負荷評価表に、独立した項目として明示されました。以降、労災の支給決定件数の原因として最も多いのが、このパワーハラスメントです。令和7年度の統計でも、支給が決定した1082件のうち、パワーハラスメントを原因とするものが222件と、他のどの出来事よりも多くを占めています。顧客や取引先からの著しい迷惑行為、いわゆるカスタマーハラスメントや、セクシュアルハラスメントもそれぞれ127件と、決して少なくない数字が並んでいます。制度が整いつつあることは、これまで「個人の弱さ」や「職場でよくあること」として片づけられがちだった苦しみに、社会がようやく輪郭を与え始めた証でもあるのではないでしょうか。

パワーハラスメントによる心の不調は、綱渡りのように張り詰めた緊張を強いられ続けた末に生じるものです。直接の被害を受けていなくても、その場の空気にさらされ続けるだけで、心は少しずつ削られていきます。

もし今、理由のわからない動悸や不眠、仕事への恐れを感じているなら、それは弱さではなく、環境が引き起こしている反応かもしれません。誰かに話すこと、あるいは今日感じたことをメモに残しておくことが、後で自分の状態を振り返る手がかりになることもあります。まずはそのことを、知っておいていただきたいと思います。



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