「だったらガキ殺して死ね」と言われた日、私は父の子どもをやめた
「だったらガキ殺して死ね」
父にそう言われた瞬間のことを、私は今でもはっきり覚えています。
父は私に包丁を向けて、
「てめえ、死にやがれ」
と、言いました。
私には、恐怖心はありませんでした。
私の中にあったのは、猛烈な怒りでした。
私は父に、
「子どもを育てたいから死ねない」
そう言いました。
すると父は、当たり前のように言ったのです。
「だったらガキ殺して死ね」
その瞬間、私の中で何かがブチっと切れました。
もう、娘でいるのはやめよう。
私はもう、この人の子どもじゃない。
私は、この子たちの母親なんだ。
父に従う子どもとして生きるのではなく、目の前にいる子どもたちを守る母として生きる。
その日、私は心の中で父に向かって宣言しました。
もういい。
あんたの子どもなんて、やめる。
私が三十五歳の頃のことです。
親を支える子どもとして生きていた私
当時、私は元旦那と子どもたちと一緒に、二世帯になっている実家で暮らしていました。
実家には父と、五番目の母がいました。
五番目の母はアルコール依存症でした。
昼間から酔い潰れていることもあり、お酒の量はどんどん増えていました。
父からは、
「隣に住んでくれれば、空気も変わるかもしれない」
「火事にでもなったら困るから、話し相手になってやってほしい」
そう言われていました。
私たちも、家賃を節約できること、そして二世帯住宅という作りだったこともあり、実家で暮らすことになったのです。
けれど今思えば、私はまた「親を支える子ども」に戻っていました。
一度は娘としての役割を終えたつもりで、一人暮らしを始めました。
その後、結婚もしました。
それなのに、いつの間にかまた、実家を守る手伝いをする役割に戻っていたのです。
私の人生には、長い間「親を支える子ども」という役割がありました。
私には、実母を含めて五人の母がいました。
三歳になる前に別れた実母の記憶は、ほとんどありません。
幼い私を家に置いて、留守にすることが多かったそうです。
小学校に上がる前に父と一緒にいた二番目の母は、とても厳しい人でした。
外に立たされていたこと。
保育園でお迎えを待ち続けていたこと。
覚えているのは、そんな断片です。
小学校五年生になる少し前に、父と再婚した三番目の母は、オーバードーズを繰り返す人でした。
何度も離婚再婚を繰り返し、高校生の頃までいた人です。
私のヤングケアラーとしての生活は、この頃から始まりました。
買い物、料理、洗濯、掃除。
倒れている母の世話。
小学生の私には重すぎる日々でした。
高校生の頃、入れ違いに家に来た四番目の母は、覚醒剤依存症の人でした。
家の一階でスナックを始め、常連客の中にも薬物を使う人がいました。
包丁を持ち出して暴れることもありました。
そして、私が成人してから父が再婚した五番目の母は、アルコール依存症でした。
私と十歳しか年が離れておらず、ずっと「ちゃん」呼びをしていました。
五人も母親がいながら、私は、いわゆる「母親の正解」を知りませんでした。
母親とはこういうもの。
家族とはこういうもの。
親にはこう従うもの。
子どもはこう育てるもの。
そういうひとつの正解を、私は持たないまま大人になりました。
でも今思えば、正解なんてどこにもないのかもしれません。
心までは支配されない
小学生の頃の私は、確かに無力でした。
父の顔色をうかがい、怒鳴り声に体を固くし、家の中で息を潜めるように暮らしていました。
三番目の母が薬の過剰摂取で倒れれば、小さな手で後始末をし、家事をこなし、大人の事情の中で子どもらしい笑顔も時間も失っていました。
「なんで私だけ、こんな目に遭うの」
そう思ったことは、一度や二度ではありません。
けれど十歳の頃、私はふと気づいたのです。
どれだけ怒鳴られても、どれだけ怖い思いをしても、私の心までは支配されない。
そして、もうひとつ気づきました。
今この家を飛び出しても、十歳の私が安心して生きていける場所はない。
行き着くところは、想像ができる。
だったら私は、大人になるまで、ここで生き抜く。
それは「やらされている」という位置から、「自分の意志でここにいる」と決める、主体性と自立への小さな転換でした。
人のせいにして、心まで明け渡したくない。
被害者の椅子に座ったまま、大人になるのはやめよう。
十歳の私は、そんなふうに決意したのだと思います。
もちろん、子どもがそんな決意をしなければならない環境が、健全だったとは思いません。
けれどその瞬間、私はただの悲劇の中にいる子どもではなくなりました。
大人の言葉で、子どもはこんなにも傷つく。
恐怖で従わせても、心はどんどん離れていく。
この感覚を、覚えたまま大人になろう。
そう決めた頃から、私は心の中に小さなネタ帳を持ち始めました。
これはいつか、誰かに伝える材料になる。
大人になったら、同じように苦しんでいる誰かに、子どもが何を感じているのかを伝えなければいけない。
そう思うことで、私は自分の体験を、ただの不幸で終わらせずに済んだのかもしれません。
過去は、私を縛る鎖ではなく、いつか未来を作るための材料になる。
当時からそんな言葉を持っていたわけではありません。
ただ私は、必死で作り笑顔を続けて、生きる場所を確保していました。
でも今振り返ると、私はずっと、体験を辛いままにせず、意味あるものに再解釈することで、生き延びてきたのだと思います。
父の子どもをやめた日
私の実母は、昔からある宗教の熱心な信者でした。
幼い私を置いて集まりに行っていたことも多かったそうです。
母がネグレクトだった原因には、その宗教への傾倒も大きく影響していたのだと思います。
その実母に、出産のときなどは上の子を預かってもらっていました。
ある時、実母はまだ幼かった上の子に、
「これをちゃんとやらないと大変なことになる」
「世界が真っ暗になる」
そう言いながら、数珠を持たせ、仏壇の前で勤行をさせていました。
それを知ったとき、私は猛烈な怒りを感じました。
「勝手なことしないで」
「何をやらせてるの?」
「それ、洗脳じゃん」
私は実母に激しくぶつかりました。
ある時、父は突然、元旦那を殴りました。
「てめえ、子どもに宗教やらせてるのか!」
父は、穏やかなときもある人でした。
義理堅く、お金の支払いなどもきっちりする人でした。
でも、感情的になると別人のようになる人でもありました。
おそらく父は、子どもから実母の家での話を聞いたのでしょう。
そして、私たちが実母のしたことを容認していたと誤解していたのだと思います。
誤解は一度解けました。
父は謝ってくれて、一旦は収まりました。
けれど数ヶ月後、今度は元旦那を包丁で切りつけるという出来事が起きました。
原因は、今でもわかりません。
そこから家庭の空気は一気に崩れていきました。
元旦那は無口になり、まったく笑わなくなりました。
このままでは、子どもたちにも悪い影響を与えてしまう。
そう思った私は、元旦那に実家へ戻るよう伝え、しばらく別居することにしました。
ただ、そのことは父に隠していました。
父に殴られ、切りつけられて、口を聞かなくなったから、しばらく別居する。
そんなことを父に言えるはずがありません。
「出張だから」
そう言って誤魔化しながら、私は毎日ビクビクしていました。
また父が怒鳴り込んでくるのではないか。
また何か起きるのではないか。
今度は包丁を持ってこないだろうか。
その頃の私は、ストレスで体重が四十キロを切っていました。
今の私からは、まったく想像できません。
(むしろ今は、戻りすぎています)
そして、ついに別居が父に知られた日。
父は怒鳴り込んできました。
五番目の母が、とっさに子どもたちを自分の家へ避難させてくれました。
父は私に包丁を向けて、
「てめえ死にやがれ」
と怒鳴りました。
私は言いました。
「子どもを育てたいから死ねない」
すると父は言いました。
「だったらガキ殺して死ね」
それが、冒頭に書いた出来事です。
私はずっと、父親に怯える子どもでした。
子どもだからやらなくちゃ。
子どもだから支えなくちゃ。
子どもだから、父の怒りを受け止めなくちゃ。
そんなふうに生きてきました。
でも、その瞬間、初めてはっきり思ったのです。
私はもう、この人の子どもじゃない。
私は、この子たちの母親なんだ。
子どもたちを守るのは、私なんだ。
親を守る役目より、私は一人で子どもたちを守ることを選びました。
その日、私は身の危険を感じて、元旦那に連絡しました。
「部屋を探して」と。
そして、自分で稼いだ分は全部自由に使いたいと言っていた元旦那に、
「養育費も慰謝料もいらない」
「手かせ、足かせ、重荷は全部外してあげるから、自由に生きて」
「子どもは私が育てるから」
と、離婚を切り出しました。
それから私は、子どもたちを連れて家を出ました。
行き先は父には伝えませんでした。
無記名のトラックを使い、逃げるようにして新しい部屋へ引っ越しました。
今振り返ると、あれは完全に夜逃げでした。
朝の引っ越しだったけどね。
結局、それから十九年間、一度も声を聞くこともなく、所在を知らせることもなく、一切の連絡を絶っていました。
「明るい母子家庭」を選んだ日
引っ越し直後、不思議なくらい心は穏やかでした。
やっと実家から離れられるという感覚の方が強かったのを覚えています。
離婚。
養育費なし。
慰謝料なし。
上の子は年長さん。
下の子は、あと数日で二歳。
私は無職。
親から逃げてきたので、当然、親からの援助もありません。
結婚生活で貯めた貯金は、離婚のときに半分ずつ分けて、わずかな金額が手元に残っただけでした。
普通なら、不安になってもおかしくない状況だったと思います。
でも、私の心は軽かった。
引っ越しが終わった後、新しい部屋で、段ボール箱に囲まれながら、私は子どもたちとハイタッチしました。
「我が家は?」
「明るい母子家庭、イエ〜!」
そんなふうに笑いながら、私たちの新しい生活は始まりました。
生活は決して楽ではありませんでしたが、楽しかった。
パートを始めるまでの間、わずかな貯金を切り崩して暮らしていました。
五百円玉貯金箱に厚紙を差し込み、五百円玉を取り出して買い物へ行く。
そんな日も、一度や二度ではありません。
三パックセットの納豆を一パック、親子三人で分け合って食べる。
一切れの鮭を、三人で仲良く食べる。
皮まで分けて食べました。
でも、それがまた楽しかったのです。
「おいしいねえ」
と言って、笑って食べる。
私自身が子どもの頃、できなかったことです。
うちの子どもたちは、上の子が大学生になるまで、家が貧乏だなんて全く気づいていませんでした。
「お金がないから、無理」
これは、言ったことはありません。
「お金なら、銀行にいっぱいあるよ」
と、いつも言っていました。
そして、シングルマザーとして、パートをしながら忙しくしていることに対しても、
「お母さんが、好きでやってるの」
「あんたたちのためじゃないよ。お母さんが一緒に暮らしたいから」
私は、子どもたちにそう言い続けてきました。
もちろん、大変なことはたくさんありました。
でも、だからといって「かわいそうな親子」ではなかったし、本気で大笑いの毎日を過ごしていたんです。
目の前の出来事を、どう解釈するのかは自由です。
私は「明るい母子家庭」を選びました。
当時の私は、気合いと根性とカラ元気が得意技でした。
何があっても、この子たちを育てる。
最悪、どんな仕事をしてでも、この子たちを守って生きていく。
そこまで覚悟していたからこそ、逆に腹が座っていたのかもしれません。
母子家庭になって一年少し過ぎた頃、幸運なことに近くの市営住宅に入居することができて、私のパート代でも不安なく生活できるようになりました。
目の前にいる二人の子どもの笑顔を守る。
それが、私の原動力でした。
子どもは、私の所有物ではない
私は母親の正解を知りませんでした。
世間には、「母親とはこうあるべき」という理想像があります。
でも私には、その基準がありませんでした。
空腹の我が子を家に置いていく母。
幼い子どもを激しく叱責する母。
オーバードーズで倒れている母。
覚醒剤の作用で錯乱し、包丁を持ち出す母。
アルコールの過剰摂取で、日々の生活が送れない母。
私の五人の母たちは、「これが母親というものだよ」という手本になるような人たちではありませんでした。
私は、自分が母になったとき、「こうしなければ」「こう育てなければ」という思いを持ちませんでした。
私の中にあったのは、子どもは、天からの授かりものであり、大切な預かりもの。
決して、私の所有物ではないという感覚でした。
私は母親としてというより、一人の人間として、目の前の命と、真剣に向き合いたい。
私の価値観を押し付けるのではなく、この子たちが持って生まれたものを大切にしたい。
子育ての正解は、今でもわかりません。
でも、私にはひとつだけ決めていたことがあります。
『子どもたちの瞳の輝きを曇らせないこと。』
キラキラと輝く、その瞳を曇らせてはいけない。
その子が持っているものを否定しない。
世間の「普通」や「こうあるべき」で、その子の光を覆わない。
それだけが、私の育児方針でした。
上の子には、のちにアスペルガー症候群と診断される特性がありました。
下の子は、のちに性同一性障害と診断され、自分の性別を自分で生きていく道を選びました。
二人と向き合う中で、私は何度も教えられました。
人はみんな違う。
見えている世界も、安心する場所も、望む未来も違う。
だから、誰かを自分の思い通りに変えようとしてはいけない。
たとえ親子であっても、子どもは親の所有物ではない。
この感覚は、私の子育ての原点であり、今の私の生き方の原点でもあります。
そして、この感覚を持てたのは、私には母親が五人いたことが大きな理由になっています。
あの体験があったから、人それぞれの違いを尊重できる力が養われていたのでしょう。
「七転八起」から「起点の起」へ
子育てが一段落し始めた頃、私は自分の名前につけていた意味も、そっと書き換えました。
私の名前は、美由起といいます。
名付け親である実母に、名前の由来を聞くことはできませんでした。
だから私は中学生の頃、自分で勝手に意味をつけました。
美しく、自由に、七転八起。
それは、当時の私が自分に贈った応援歌のようなものでした。
どんなにつらいことがあっても、何度でも立ち上がれるように。
そう願って、自分を励ましていたのです。
実際、その後の私は、まさに七転八起の人生を生きてきました。
倒れても起きる。
泣いても笑う。
気合いと根性とカラ元気で、何度でも立ち上がる。
でもある時、ふと気づいたのです。
もしかして私は、「転ぶこと」を前提にした人生を、自分で創っているのではないか。
これって、どんなコントなの?
悲劇のヒロインごっこなの?
転んでも起き上がる力は、確かに私を支えてくれました。
けれど、もう転ぶことを前提にしなくてもいい。
そう思ったとき、私は名前の意味を変えました。
「起」は、転んで起き上がる起ではなく、起点の起。
ここから始まる。
今ここから、またスタートできる。
その意味に変えた頃から、私の人生には少しずつ静けさが戻ってきました。
六十五歳の今、またハンドルを握る
子育てが一段落したあとも、私の人生はそこで完成したわけではありませんでした。
五十五歳のとき、私は無職のまま、家賃がそれまでの五倍になる茅ヶ崎へ移りました。
大好きな茅ヶ崎。
烏帽子岩の見える海。
憧れの街で暮らしたい。
普通に考えれば、無謀だったと思います。
けれど私は、あのときもまた、自分の人生のハンドルを握り直して、行き先を選んでいたのだと思います。
父の子どもをやめた日。
明るい母子家庭を選んだ日。
子どもたちの人生を所有しないと決めた日。
そして、五十五歳の私の選択がありました。
そして今年、私は六十五歳になりました。
国から届く高齢者向けの案内を眺めながら、少し笑ってしまいました。
シルバーですよ。
シルバー。
脳内はあまり変わっていないのに、年齢だけは確かに六十五歳です。
それでも私は、「もう遅い」とは思いませんでした。
むしろ、また面白い節目が来たなと思いました。
白髪染めを手放したときのように。
誰かに合わせていたものを、ひとつずつ手放していくように。
私は今も、自分の人生を選び直している途中です。
六十五歳の今、私は人生再構築ナビゲーターとして活動しています。
けれど、それは誰かを変える仕事ではありません。
答えを渡す仕事でもありません。
私はただ、目の前の人が、自分の人生のハンドルをもう一度握り直す瞬間に立ち会っているのだと思います。
子どもたちの瞳の輝きを曇らせたくなかったように、今も私は、その人の中にある小さな火種を消したくないのです。
振り返れば今までの人生、どの場面でも私は、自分で選んできました。
私は、ずいぶん無茶もしながら、結局は自分で選んだ道を進んできたのだと思います。
過去は消せません。
なかったことにもできません。
傷つかなかったふりをする必要もありません。
でも、過去の意味づけは変えられます。
過去は、未来を縛る運命ではない。
過去は、未来を築くための材料に変えることができる。
私はそう信じています。
そして今も、私はまたひとつ、自分で選べる未来に向かって歩き出しています。
人生のハンドルは、何度でも握り直せる。
その起点は、いつだって今ここにあります。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
