2月6日生まれ母子、26歳から46歳までの阿古屋な20年
26歳から同学年と8年の差異を持合せての進学でございました。
2011年の震災後、
私は自分の故郷が
岩手県釜石市だと公言せず、
大槌町の大親友に
『俺に悪ぃと思ってんのんか?んだば、気にしねーでいたる君は東京に残ってて』と背を押され
本当はずっと辞めたかったの、
役に立たないから、
みんなに申し訳なくて本当に役に立たないから本当に申し訳なくて。
ただ、
大親友は大学院行けと
『奇跡』は起きるからって言いながら自販機でジュース買ったったっけ
本当に当たったったので、
岩間君がそう言ってくれるんなら、
ぼくも少しやってみる、って
素直に従い、大学院まで進ませて頂きました。
モスクワ音楽院へは視察渡航を含め、2年連続で日本代表を務め、
チャイコフスキーさんやラフマニノフさん、ミャフコフスキーさん、
『んだ』って私、つい東京弁から
田舎訛りを声に出してしまいましたら、
なんだかモスクワの皆様が
僕だけに話し掛けて来て下さるようになり、
2018年7月20日の
釜石市民ホールTEETO杮落の
舞台を最期に引退、
コロナ禍を境に
岩手県感染者ゼロを背負って、
消毒検温、1日中、店外で6年間、
最期の修行と心得、
世界中の皆様へ
これまで日本が、
そして何より郷里が頂戴した御恩の
返礼をと、
いくばかりかの笑顔、
世界中のチビちゃんたちとの
硝子越しのかくれんぼのふれあいとで、
ドアマンという
素晴らしい職種と巡り会いながら、
本当に本当に、
幸せな毎日を生きる事が出来ました。
昨年6月6日、
何故か
特に中国のSNSサイトで好評を頂戴したようでしたので、
それを『成果』と自分で判断し、
ドアマンを引退。
いま小休止をしております。
坂東玉三郎さん、
震災直後、
釜石市の都市計画の中には
市民ホール建設が絶対無い必要ないって本当に言ってだったんだよ、
にも関わらず、
多大な、多大な恩寵、
本当に、ありがとうございました。
昭和56年10月、
『鶴の巣籠』
『長崎十二景』(←ぼく水戸八景だと思っておりました)
たった2番の、
たったの1日だけの『釜石』を
覚えていて下さった、
そんな貴方様が
この世に存在してらしたことを
知れただけで、
ぼく、生まれてそして、
生き続けて来た甲斐が
ありました。
願わくば 花のもとにて 春咲かん、
その如月のもちづきの頃
ぼくの母も2月6日生まれで、
母は玉三郎さんの大ファンでした。(おそらく同学年だったのだと思われますそして本当に好きだったのだと思います)
大阪の呉服問屋へ
奉公に行っていた時分に、
何とか1日休日をやっとこさっとこ
頂戴し、
『椿説弓張月』を
国立劇場に日帰りで観劇に出掛け、
あぁ、これでもう死んでもいいって
感激して大阪に泣きながら戻ったのって、
嬉しそうに話してくれた
最愛の母との会話の車内、
同じ空気を吸えるってこういう事なのかなぁって、
そこまで教えてくれた母親の貴方様と僕への愛情を込めてくれた音声は、
生涯忘れられない想い出の音楽なのでございます。
坂東玉三郎さん、
ぼくね、本当に勝手に幸せな人生を歩ませて頂いておりました。本当に申し訳ありません!
身体を
アートに出来た心地でしたよ。
巴黎世家蝋人形 事

瓦田周(いたると読ませます)











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