s出身k、s出身sの語る「努力」はただの暴力である
t出身kの悲哀
みなさんはt出身kという言葉をご存じだろうか。
知らない?
まあ普通は知らないかもしれない。
かの有名なクラウン発狂辞典によるとこうある。
tは低学歴、kは高学歴、sは資産家を指す。それぞれに家庭のニュアンスが入ることも多い。例えば、t出身kと言えば低学歴家庭出身高学歴のことである。tには「底辺」の意味が含まれることもしばしばある。sは一代ではなかなか成れない。
この定義によれば、t出身kとは低学歴家庭出身高学歴のことを指し、もちろんk出身kとは高学歴家庭出身高学歴、s出身sは資産家家庭出身資産家のことである。
もっと雑に言えば、どこの階層から、どこの階層へ行った人間なのかを表す言葉である。
そして私は、おそらくこの分類で言えばt出身kにあたる。
自分の親を「底辺」であると言いたいわけではもちろんない。大学まで行かせて貰ったのは事実だし、今も実家に寄生してお世話になっている。
しかし、私の家族は両親も、妹も大学を出ていない。
家系をいくらさかのぼってもお医者さんなんて一人もいないだろう。
私はジアゲンタウンの突然変異体であり、地元のコウリッチューのアポカリプスであった。
地頭限界タウンの略称。三代都市圏外の中学受験文化が盛んでない地域を指す。地域に根差す超大手有名企業はほとんどなく、地元公務員が勝ち組とされ地頭天元突破系優等生の行き先がない。階級や人生の上昇制限がかかるため、アポカリプスであっても「第二ジアゲンタウン速度」を越えられない一定レベルに収まってしまう傾向にある。
公立中学校のこと。社会の縮図である。ピエロ達はコウリッチュースコアなる期末テストや実力テストの点数を大人になってもずっと覚えている。コウリッチュースコア450から賢いとされ、470からは秀才、490からは天才とされる。
かつてのコウリッチュー1位のこと。仮に全国のアポカリプスを集めた進学校があるとすれば、そのレベルは種類物以上御三卿未満と言われている。
アポカリプスであった私は、当然ジアゲンタウンで一番の種類物高校に進むこととなった。種類物とは、例年の東大合格者数が5~20人程度の高校のことである。
そこから私は大きなカルチャーショック、いや階級上昇負荷とでも言うべき洗礼を受けていくこととなる。
運ガキ達の狭間で
「運だけのガキ」のこと。生まれつきの環境やタイミングに恵まれていて、良いスタートを切ったり、大して努力せずに成功したりしている人を、妬みや批判を込めて呼ぶ言葉。SNSの普及により、「初期装備」の差が違いすぎることが明らかになってこだまする怨嗟の声。発狂界隈以外でも幅広く使われている。以下、運ガキ要素の例。
帰国子女・私立小・中学受験・ジュニアNISAで4桁万円・歯列矯正・舌下免疫療法・両親や祖父母が都内不動産持ち・祖父母からの教育資金贈与・都内私立医・顔整い
コウリッチューを抜け出した後の種類物高校の世界では、運ガキたちによるパレードが行われていた。そこでは私は、たまたま発達特性が机上の「お勉強」に向いていただけの人間にすぎなかったのだ。
運ガキの彼らはおそらく悪人ではなかった。
むしろ、いい人間も多かったのだろう。
普通に優しかったし、普通に真面目だったし、普通に勉強もしていた。
ただお勉強ができるだけではなく、楽器や語学や海外渡航経験など、文化資本的なものも併せ持っていた。
まるで人生の「お手本」を演じているかのような、健全で、明るくて、真面目で、努力家で、親にも教師にも友人にも愛されるような、気持ちの悪い人間たちだった。
いや、おそらく気持ちが悪かったのは私の方だろう。
だから私は、ライオンキングのように自らを装い、踊った。
ライオンキングの演劇で「踊らない」変な人間は「劇団四季」から追放されるため全力で演技をしなければならないのと同様に、壁内人類(後述の「進撃の巨人」の記事を参照)の社会人はホワイト社会から追放されないように「まともな人間」を演じなければならないという理論。社会の厳しさをライオンキングに例えているのに、現実社会はハクナ・マタタ(ライオンキング作中に出てくるワード、どうにかなるさを意味する)ではやっていけないというのはなんとも皮肉である。
階級上昇のふるい
私は種類物高校を抜け、医学部へと進むことになるのだが、運ガキ純度とでもいうべきなのか、それが一段濃さを増した。
もちろん医学部にも色々な人間がいる。
地方公立高校出身の人間もいる。
奨学金を借りている人間もいる。
親が医者ではない人間もいる。
私のようなt出身kも、存在していたはずだ。
だが、それでもなお医学部という空間は、所詮ジアゲンタウンのアポカリプスでしかなかった私にとっては、あまりにも異質だった。
親が医者。親戚も医者。兄弟も医学部。実家が開業医。親の病院を継ぐ予定。小さい頃から医療が身近にある。「医者になる」という選択肢が、最初から家庭内に置かれている。
種類物高校についても、医学部についても言えることだが、上に行けば行くほど、私は自由になるものだと思っていた。
地元の狭い世界を抜け出せば、息がしやすくなる。
勉強して偏差値の高い場所に行けば、自分と似た人間に会える。
優秀な人間たちの中に入れば、もう「変な奴」として浮かなくて済む。
だが、実際には上に行けば行くほど、私は自身の出自や資本格差を意識するようになった。情けない話だが、上の世界のパワーに圧倒されてしまったのだろう。
階級上昇の果てにあるとされる世界のこと。上の世界の住人は都心三区(厳密には千代田区)のタワマンを所有し、ロブション、ピータールーガー、久兵衛などに常日頃から通い、夜景を見ながら山崎25年を嗜み、子どもは慶應幼稚舎に入学させる。ただし、これらは下の世界の住人の空想に過ぎず、単なる成金では上の世界に入れたとは「言えない」のだろう。
いや、医者の世界ごときを「上の世界」と呼ぶのはおこがましいのかもしれないが、私にとっての上昇負荷限界は、ここまでだった。
努力は実在するのか
では、そういった上の世界の運ガキたちは努力をしていたのだろうか。
いや、おそらく彼らの自認としては、一生懸命頑張っていたし、きっと社会で今も頑張っているのだろう。そしてそのことに誇りを持っているはずだ。
彼らの努力が嘘だと言いたいわけではない。
努力は実在する。
努力しなければどうにもならないことは、この世に山ほどある。
私自身、割と地頭によってここまで来た部分はある気がするが、もちろん勉強しなければ種類物高校には行けなかったし、医学部にも届かなかっただろう。
だが、努力だけが実在するわけではない。
初期装備も実在する。家庭環境も実在する。文化資本も実在する。金も実在する。親の学歴も実在する。進路情報も実在する。地頭も実在する。歯列矯正や海外旅行も実在する。
それらを全部なかったことにして、最後に残った本人の頑張りだけを「努力」と呼ぶのは、あまりにも都合がよい。仮に自覚していたとしても、持たざるものからは嫌味にしか見えないものである。
地頭限界
理解力、思考力、応用力といった人間がもともと持っている頭脳のスペック=地頭の限界を指す言葉。ジアゲンと略して使われることも多い。誰もが四六時中練習したところで一流スポーツ選手になれるわけではないのと同様に、誰もが全てを捧げて勉強したところで一流大学の入試や難関資格試験で勝てるわけではない。身もふたもないことを言えば、義務教育の算数や英語で躓く人間が高学歴になるのは難しい。地頭限界を受け入れて他人に勝てる分野を見つけるか、臥薪嘗胆により苦手な分野でも人並みレベルについていくか、何らかの要因による地頭の開花に賭ける必要がある。なお、大半の人間にとって地頭限界は自身の想定より低いレベルで定まっている(要出典)。
褒めているのか貶しているのか、私はしばしば彼らから「地頭がいい」と言われた。しかし、多くの恵まれた同輩達の中で、天が私に与えたものは、おそらくそれだけだったのである。
私はたまたま、地頭という小さなブースターを持っていた。だが、第二ジアゲンタウン速度を越えた先にあったのは、無重力の自由ではなかったのだ。
私自身にも、無自覚に恵まれている部分があることを否定するつもりはない。
しかし、それを踏まえた上で、私自身も含めて、運ガキが自分の足場を忘れたまま、お説教のように語る「努力」など何の意味もない暴力でしかないのだ。
床のない場所で爪を立てていた人間に、姿勢の正しさを説くように。
落ちないようにしがみついていた人間に、歩き方を説くかのように。
我々は、ゆめゆめ地獄理論というものを忘れてはいけないのである。
自分が苦しいときにもっとひどい状況を想像することで精神の安寧を図ろうという理論。もっとひどい状況は自分の経験したものでなくても構わない。自己暗示する分には良いが、他人から諭されると腹が立つ理論である。
スペシャルサンクス
悪目納豆note
