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指先だけの労働から、身体性を取り戻す:創造性をリブートする「不便」の空間デザイン

AIとの対話やデジタル空間での作業が業務の大半を占めるようになった今、私たちの身体は奇妙なアンバランスの中にあります。PCに向き合って仕事をするときに動かしているのは指先と目のみです。その他の身体機能は、デスクに向かう作業時間中、休止状態にあるといっても過言ではありません。効率や利便性を追い求めた結果として生じたこの身体の不在こそが、いまワーカーの創造性を削ぐ要因になっています。そんな中、近年オフィス空間に「あえて物理的な不便さや距離を設計に組み込む」ことで、身体的な働きを促したり、交流が創出されるようなオフィス事例が増えてきました。本記事では、その具体的な事例をいくつか紹介していきます。


失われた「儀式」とRTOの形骸化

かつては、オフィスに行けば、会議のために部屋を移動し、資料のプリントアウトや配布をするためにオフィス中を行脚することも珍しくありませんでした。しかし現在では、オフィスの自席にいながら、あるいは自宅のワークスペースから一歩も動かずに、目の前の画面を切り替えるだけで瞬時に別の会議や別の作業に移行できます。効率化によって時間は確保されましたが、同時に私たちは、脳をモードチェンジさせるための「切り替えの儀式」を失ってしまったのです。
オフィスに来ているのに、結局一日中同じ姿勢で座り続け、周囲の同僚と話すこともなくPCに向かっている。そんな「オフィス内リモートワーク」のような状況を経験している人も少なくないのではないでしょうか。実際、2021年~2025年の国内のワークエクスペリエンスレポート『WORKVIEW』でも、オフィスに行っても話しかけないでほしいというワーカーが増加していることが明らかになりました。

コクヨ『WORKVIEW』5年の軌跡|データで読み解く職場体験の変遷と現在地

企業の積極的なRTO(Return to Office)推進により、オフィス出社が日常に戻りつつありますが、企業が本当に意図したRTOが実現できているといえるのでしょうか。Harvard Business Reviewでも、RTOの本来の目的は、「新しいアイディアの火種となる雑談」や、オフィスでのリアルな交流による「信頼関係の構築」であると指摘します。つまり、オフィス内リモートワークの状態では、オフィス回帰で企業が目指す職場の姿には程遠いといえるのです。では、人がリアルに行き交い、交流が生まれるオフィスの実現には、どのような空間デザインが求められるのでしょうか。

事例1:意図的な距離の設計

Mindspaceのトレンドレポートでは、2026年のオフィスデザインにおける重要なキーワードとして「意図的な距離(Intentional Distance)」が挙げられています。これは、カフェスペースやオフィスの共有アメニティを、あえて執務エリアから離れた場所や、オフィス内の一か所に集約させるアプローチです。社員はコーヒー1杯を淹れるために、わざわざ席を立ち、オフィスを横断して歩かなければなりません。これは、座りっぱなしを防ぎ、オフィス内で歩くことを促すことで、姿勢の変化や身体活動を自然な形で業務時間内に組み込むことを狙いとしているといいます。
たとえば、オーストラリアのMacquarie Bankで2024年に新設されたグローバル本社には、オフィスの中央に「シドニーブルー」のアイコニックな巨大階段があります。これは、エレベーターの使い勝手をあえて制限し、社員がオフィス内のフロアを移動する際に、自らの足で移動することをあえて強いるための、戦略的なシンボルとして設計されているのです。
一見「不便」なこの動線は、二つの効果を狙っていると言えます。1つ目は、強制的に歩くことによって、社員の心身の健康が促進されることです。スポーツメーカーアシックスの研究によると、長時間のデスクワークにおいて、毎日15分身体をストレッチする人は、心の状態のスコア(リラックススコア・回復力スコア)がストレッチをしない人に比べて高い数値(良好)が出ていることが明らかになりました。そして、2つ目が、「偶発的な出会い」の創出です。長い動線を移動する過程で、普段接点のない社員とすれ違ったり、偶発的な交流が生まれることが期待されます。効率的なデスクワークを行っているだけでは決して生まれないコミュニケーションの種を、空間的な「不便さ」が蒔いているのです。ある国際的な研究によると、このような偶発的な交流が職場で積み重ねられることは「弱い紐帯」を育み、働く環境における幸福度が増すということが判っています。つまり、社員のウェルビーングを高めるためにこうした空間への工夫が重要な役割を果たしていると言えるのです。

事例2:「茶室」にみる、不便な入口の効用

心理的なリセットを実現するための空間的な装置として、日本の茶室のアイディアが近年、脚光を浴びています。伝統的な茶室において、物理的な不便を強いるこの入口は、俗世の身分や志向を捨て、精神を研ぎ澄ませて内部空間へ入るための「境界」として機能してきました。
イベントプロデュース事業を行う株式会社グローバルプロデュースでは、2025年に「オフィス茶室」を設けたことを発表しました。この会議室では、「香・光・音・手触りなど、従来の会議室では得られない感覚を通じて、発想の転換を促進」する仕掛けが施されています。さらに、茶室特有の「狭い入口(にじり口)」が設けられていることもこの会議室の特徴です。ここでは、あえて身体的に入りづらい入口にすることによって、身体を通じた脳のリセットが行われます。利用者は、内部に入るために、腰をかがめ、膝をつくという決してスムースではない「不便な動作」が避けられません。しかし、この物理的な負荷こそが、重要な役割を果たします。体を小さく折りたたんで通過する行為が、現代におけるスピード感あふれる、効率的なオフィス環境からの「離脱」を促し、内部の没入感を高めるのかもしれません。

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これは単に、入りにくい扉ではないのです。ワーカーの脳に対して「ここからは異なるモードである」という信号を送るための、認知的な装置として機能しています。このリセットにより、脳は過剰な緊張から解放され、リラックスした状態で次に進めます。さらに、コクヨが毎年発行しているワークエクスペリエンスレポート『WORKVIEW 2025 ーー職場の食が満たすもの』では、オフィスに茶室を設置することは、ワーカーの働きがいや現代人が抱える孤独感にポジティブなインパクトをもたらすことが判明しました。
2024年のドバイ・デザイン・ウィークで発表された「The Warp」でも、この概念を現代的に解釈し、具現化されました。茶室的アイディアに基づき、外部との「境界」「切替」を身体を通じて体感できる空間づくりは、世界的にも今注目を浴びているのです。

事例3:身体感覚を呼び覚ますSpeakeasyの仕掛け

「あえてわかりにくい場所」を作ることもまた、オフィスを魅力的な空間にするための仕掛けの一つです。近年の米国のオフィスでは、禁酒法時代にお酒をこっそりと提供していたもぐり酒場を模した「Speakeasy(スピークイージー)」をあえて社内に設けるトレンドが生まれています。
サンフランシスコのオフィスビル525 Market Streetでは、フロアの改装を行った際に、隠し扉のような入口の奥に、ジャズクラブ風のラウンジThe Oak Roomが誕生しました。ここでは、一見すると普通の壁や本棚に見える場所が、実は扉になっており、そこを開けることで初めてこのバーに入ることができるという仕掛けになっています。この「隠れ家を見つけ、入る」という体験は、終日座って仕事をすることになれた従業員にちょっとした刺激を与えています。ほかにも、Stonebriar Commercial Financeや360 N Greenなどでも、同様の仕掛けが施されたSpeakeasyがあります。Work Lifeの記事によれば、照明が明るいオープンなオフィスでは、常に「見られている」緊張感や処理しきれないほどの情報にあふれています。対して、あえて照明を落とし、アクセスしにくい閉ざされた空間を作ることで、社員は五感をリラックスさせ、深い集中や、少人数での深い対話を行うことができるというのです。
あえて「不便な動線」を辿り、自分の身体を使ってその場所に「たどり着く」というプロセス自体が、モニターに吸い込まれていた意識や鈍くなった身体感覚を呼び覚ますのです。

Tammy616 / gettyimages

機能重視のオフィスから、良質な摩擦を生むオフィスへ

動かずとも成り立つ業務が増えた現代において、オフィスにあえて「不便さ」を設計する意義は、大きく2つあります。

(1)身体的スイッチによる脳の切り替え

長時間同じ場所に居続けながら仕事をすることで、仕事やシーンの合間に余白がない状態が続き、脳は疲弊していきます。Speakeasyや茶室のようなにじり口の例が示唆するように、あえて身体や脳に手間をかけさせることは、ある種の「豊かさ」を生み出すのではないでしょうか。わざわざ身体を動かして遠くまで歩いたり、隠された扉を探して開けたりする「不便な身体的な動作」は脳にとって強力なスイッチとなるのです。

(2)身体的な動線設計が新しい発見を呼び込む

オフィスにおける動線の選択肢をあえて狭めたり、共有スペースへの距離を遠くすることや、隠れ家的な空間を共有することは、社員の行動範囲を心理的にも広げることにつながります。これは、出社をしても孤独に仕事に向き合うワーカーにとって、「リアル」な対人関係を取り戻すための仕掛けともいえるかもしれません。オフィスを単なる作業場から、移動と発見、そして体験を伴う場へと進化させること。あえて設計された「不便」こそが人々を再びオフィスへと呼び戻し、企業側が真に望むRTO(オフィス回帰)が実現する足掛かりになる可能性を秘めています。

業務効率化の果てに失われつつある「身体性」を、空間によって取り戻すことは、単なる社員のウェルネス向上につながるだけでなく、社員のコラボレーションや組織の創造性を再起動させるための経営投資になる可能性を秘めています。「いかに無駄を省くか」という従来の指標から、「いかに良質な摩擦と余白を生むか」という視点への転換が、いま企業に求められているのではないでしょうか。
デジタルで完結できない「身体的な体験」こそが、これからのオフィスが提供すべき真の価値となるはずです。

文=久田祐里 Yuri Hisada 2025年コクヨ株式会社に入社。前職では主にエネルギー業界で小売事業やDX推進に携わり、現在はワークスタイル研究所で「働き方」に関するリサーチを行う。