43)明治30年代伊勢講に行ったおじいちゃん。中飯降の世帯数や産業についても昭和20年に思い出して書いてみた
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伊勢講に行った話
十三歳で伊勢講に参加した
奈良で宿泊したのは魚佐旅館 (この宿、調べたら2013年まで猿沢の池の脇で営業。)宿帳が残って居たかも。明治36年の春の宿泊者名簿があったら見たかったな。
宇治は宇治館(この宇治は京都ではなくて伊勢に現在宇治館町というのがあった)
汽車が大変に混んでいて亀山駅で一団とはぐれた
木下隆ストアーと読める名前が気になる。名前をつけた商店があるようにこうした店名でお店をしていた人かな?
驚いたものであった。また一三才の春村の伊勢講の講集まりに政十郎方の下男鶴吉氏が自分の世話役をしてくれるということで講中に混じりて伊勢参宮
旅行に加わった。奈良(魚佐旅館)宇治(宇治館泊まり)柘植の京都と四泊の参宮を兼ねた見物旅行であった。途中汽車の混雑死ぬほどであったこと亀山駅の乗り換えで混雑の為鶴吉氏もその他講中一才の人にはぐれて独りポッチになって出鱈目に飛び込んだ汽車の中でやがて講中の人の顔を発見した時の嬉しかったこと。奈良市の春景色に子ども心に陶然としたこと、内街宮の森厳さ、宇治の旅館宇治館の設備の宏大さなどに田舎少年は驚嘆の目を見張ったものだ。同行中に例の太郎君がその父上と一緒に居たので旅館に泊まって3人がその日の感想などを語り合ったり同行だった木下隆ストア氏の物語に興がったりしたものであった。世の中には我々の田舎の世界以外にこういう世界もあるということを知ったので心の目を開いたことは実に素晴らしいものであった。
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(現かつらぎ町)中飯降の明治30年代の話を昭和20年に記録
全体で200世帯
東西に県道 県道沿いに家が並ぶ
葛城山と高野山に挟まれて景色がいい
とりわけ叔父さんの木下政十郎の家からの眺めが良い
県道沿いを北出、離れた地域を南出と呼んだ
北と南とで産業が違った
村は醤油醸造と酒造業と製糸工場もあった。主に半農半商か半農半労であった。
大阪人の気風があり功利的だった
駅からは徒歩20分だった
ここで当時の生活地中飯降の状況を簡単に記しておこう。全体で二百戸ばかりの大字で東西に通っている県道=奈良市より和歌山市に通ず=筋に沿った南部落(南出と呼んだ)と?道を離れた北部落(北出と呼んだ)とあったが自分の家及び父母方系親族とも南出であり、県道に沿い家が並び?道には小田堰が並行し小田堰=郡内慶其村小田部落より紀の川の水を取り入れ西に七里ばかりの延長にある農業用水路である=に並行して南側やや離れた下の所と紀ノ川が流れている。北側には葛城山脈が屏風をめぐらした様に東西に連なり川向こうの南側には高野山支脈が起伏して走りその間の狭谷なる紀ノ川沿いの峡谷的盆地であるが川沿いの場所は景色がよく。ことに政十郎叔父の家屋要はその最勝の位置にあった。
北出の方は自作農が自小作農及び半農半労が多く、南出の方は半商半農または半商半労であった。人の気風は大阪に近いためその影関が多く功利的であった。木下姓を名乗るものには親族の外にも一二つ系等があったが遠祖に置いては???近代的には血のつながりがないということであった。自分らの木下一門は今日では尾羽打ち枯らし多ものであるがこの当時は財的にも断然優勢で社会的地位も生活文化も一段と高く所謂旦那さま坊ちゃん嬢ちゃん階級でこれに出入りする労役者及びその小作人階級とこれら以外の独立的存在たる自作農階級とその中間階級とより部落民は掲成されていた。村の工業としてて富十郎及び政十郎本家の酒造業、康吉家の醤油醸造業のほか、木下系及び岡村宗昭氏の会員による二百釜ばかりの製糸工場があった。汽車妙寺駅は徒歩20分を要する距離であった。

