「釣らせたい」という哲学 ──ある釣り堀店主の50年
「どうして釣り竿はこんなにしなるか、考えたことがありますか?」
しなる釣り竿に視線をやりながら、店主が、少し間を置いて問いかけてきた。
室内釣り堀「量山園」、最後の日。
この日は、朝から台風の影響で警報が出るほどの大雨だった。
夕暮れの量山園で、記念写真を撮ろうと決めていた僕は、日没の時間ばかりを気にしていた。
道路に規制はなくスムーズに進めたが、量山園に着く頃には、ワイパーを最速にしても視界がにじむほどになっていた。
車を降りれば、たちまちずぶ濡れになるほどの雨。カメラバッグは諦め、量山園へ駆け込んだ。

「もう来られないかと思っていましたが、本当によく来てくれましたね。今日はよろしくお願いします」と、店主と奥さんが温かく迎えてくれた。
激しい雨脚とは対照的に、店内には穏やかな空気が流れていた。
あの問いかけは、常連客と軽く挨拶を交わしたあと、店主が、貸し出し用の釣り竿を手に取ったそのときのことだった。
「今日は、釣りについてじっくり話したかったのです」
そう続け、僕の答えを待った。

釣り竿がしなるのは当たり前だけど、どうしてだろう?
僕にとって、それは初めての問いかけだった。
そんな僕の様子を見て、釣り竿の先をひとしきりしならせながら、ゆっくりと話し始めた。
常連客たちは生簀に視線を向けたまま、釣り堀には雨音だけが響いている。
店主は、釣り具を手に取りながら、およそ1時間、穏やかな中にも熱を込めて語ってくれた。
「釣り竿がしなる理由」から始まったその話は、やがて、量山園で使う仕掛けが最も基本的なものであることに触れ、釣りの原点へと向かっていった。
「フナ釣りに始まり、フナ釣りに終わる」という格言を交え、釣りという営みの奥深さを教えてくれた。
それは、シンプルだからこその人々を飽きさせない釣りの核心であり、半世紀にわたりその基本に真摯に向き合ってきた生き方が、まるごと詰まっていた。
しなやかで、決して切れないもの。店主の生き様そのものが、竿先に宿っているようだった。
それらの根底には、釣りを通して培われた知恵と、まっすぐな「軸」があった。
その「軸」を知るきっかけは、最初に量山園を訪ねた日だった。
釣りの哲学との出会い
「魚のことしか知らない」――岐阜県大垣市にある屋内釣り堀「量山園」(りょうざんえん)の閉店を伝える新聞記事の一節が、読み終えたあとも心に残った。
料理人でも魚屋でもないのに、50年ものあいだ、魚と向き合い続けてきた人がいる。こんなすごい人には、きっと出会えないかもしれない。
2度訪ねても店主には会えず、このまま言葉を交わすことさえできずに終わるのか。焦りが募った僕は、三度目の正直で電話をかけた。
ようやく声がつながり、話を聞くことができた。
量山園を初めて訪れた日。
最終日の大雨とは対照的に、お盆らしい強烈な陽射しが目にする全ての景色を照らしていた。
そんな猛暑の中、量山園はクーラーが故障しており、景品交換のためだけに開いていると聞いていた。
入り口には、50年間の感謝と閉店を知らせる手書きの張り紙。その下には大きな犬がいることを示す、やはり手書きの看板が立っていた。
ドアを開けると視界に飛び込んできたのは、無機質な空間を彩るように配置された、巨大な青い生簀(いけす)だった。そのすぐ脇には、店の看板犬タッピーがおとなしく横たわっている。
生簀が作り出す涼やかな空気のせいか、室内の温度は思いのほか低く感じられた。
汲み上げられた水が立てるザーザーという音だけが響き、まるで時間が止まったかのようだった。


左側に回り込むと、ショーケースには、子どもの頃に小銭を握りしめて買い求めたようなカラフルな駄菓子が並んでいた。銭湯の番台さながら一段高い受付カウンターの向こうに、店主が座っていた。
「こんにちは。電話で連絡をさせていただいた者です」
ちらりとこちらを見て「ああ、そうですか」と応じ、考え込むように目をそらした。
その瞬間、全ての音が消え、目にしていた光景が白一色に染まった。
閉店を受け入れようとする繊細な気持ちの中で、日々寄せられる問い合わせや訪問に、心の中で何かが押し寄せているのだろう。
正直なところ、僕は歓迎されていない客なのかもしれない。
だが、大切なものを手放すその時に、せめてその人の心に残る写真を届けたい。
その気持ちを伝えることができれば、たとえ撮影に応じてもらえなくても、店主の心が幾分か軽くなるはずだと願うしかなかった。
「岐阜新聞の記事を読みました。50年もの間、同じ仕事を続けてこられたその経験や想いを記録に残し、伝えていきたいのです」
思いの丈を伝えた。
「残して、伝えるためですか?それはとても嬉しいです」
その瞬間、店主の顔がほころび、一瞬にして景色に色が戻った。
景品交換のためだけと聞いていたが、生簀の周りには、数組のお客さんが黙々と竿を握る姿があった。
こうして、量山園の半世紀にわたる物語が、少しずつ語られ始めたのだった。
量山園の歴史は銀座から
店主は立ち上がり受付から出てくると、文字通り水を得た魚のように目を輝かせ、僕のそばに立った。

「昭和何年頃かはわかりませんが、昔の話ですがね。元々、銀座で始まった量山園という名の釣り堀が、この店の起源だと聞いています」
受け継いだ人から伝え聞いた話で、店主も確かめようがない遠い話だが、口調はどこか楽しげだ。
「当時は魚もそれほど大きくなく、生簀もたらいのようなものだったかもしれません。それがとても人気で、もっと大きな場所と良い環境を求めて、ここに辿り着いたそうです」
ゆっくりと紡ぎ出される物語に耳を傾けていると、子どもの頃、父に昔話を聞かせてもらった夜のように、緊張が解けていった。
高層ビルが林立する今の銀座のただ中に、素朴な釣り堀がぽつんと佇む光景が浮かんできた。
通りを急ぎ足で行き交う人々が、その扉をくぐり、無心に釣り糸を垂らす。そんなありもしない風景が、なぜかありありと脳裏に浮かび、穏やかな心地よさに包まれた。
僕は、店主がよほど釣りが好きだったのだろうと思い、そう尋ねてみると返ってきたのは意外な答えだった。
「いやいや、そんなことはなかったんですよ」
笑いながら、自身の経歴を語り始めた。
もともと製薬会社の営業マンで、西日本一帯を担当していたという。営業先での待ち時間、ぽっかり空いた時間を潰すため、ふらりと釣り堀に立ち寄ることが増えていったのだそうだ。
「あの頃は、釣り堀もたくさんあったので、行った先での時間潰しにちょうど良かったんです」
喫茶店に行って時間を潰すような感覚だったといい、そのうちの一つが量山園だった。
「こういう仕事は、土日祝日が忙しいでしょう? 見ていればわかると思いますが、常に人手が必要な商売ではないんです」
そうして客として訪れているうちに、店を忙しい日だけ手伝う形で、今でいうダブルワークを始めたのだ。
19歳のとき、営業の仕事が自分に向いていないと感じ、転職を決意。その後、施設を買い取り、量山園は自身の城となった。
「お店の人は本当にいい人で、今でも感謝しています」
23歳で結婚。コロナ禍以前は年末年始も関係なく、営業時間は12時から23時まで。
完全に休む日はほとんどなく、その人生はまさに釣り堀一色だった。
かつては「何でも仕入れる」と宣言し、景品にミニバイクを用意した。最盛期には1日に200人以上が訪れる賑わいを見せ、レジャーの多様化が進む中でも、常連客に支えられていたと、読んだ記事には書かれていた。
このエピソードに強く惹かれていたが、店主はその話をしなかった。既に語り尽くした、あるいは、言葉に尽くせないほどの深い意味があったのかもしれない。
それとも、半世紀にわたる日々の営み――魚と向き合った純粋な想いそのものを、伝えたかったのだろうか。
釣り堀を取り巻く逆境、そして閉店へ
「鯉を食べたこと、ありますか?もう、今はほとんど食べませんよね」
釣り堀を取り巻く環境は、時の流れとともに大きく変化していった。
量山園で泳いでいたのは、霞ヶ浦で養殖された食用の鯉や、観賞用の金魚たちだ。もちろん、釣った鯉は持ち帰って食べることもできた。
かつて岐阜の山間部では、庭に池を作り、そこに食用の鯉を飼って冬のタンパク源としていたが、そうした習慣も次第に姿を消していった。
加えて近年では、鯉の病気発生、コロナ禍による飲食店の減少など、さまざまな要因が重なり、養殖業そのものも縮小。結果として、鯉の仕入れは年々困難になっていった。
食文化の変化は、釣り堀にも影響を与えていたのだ。
鯉の病気には、持ち帰りを辞めて対応し、コロナ禍では、長い自粛期間中、水面に浮かぶ魚を一匹、また一匹と網で掬い上げながら辛い時間を過ごした。
お客さんを入れることもできず、大好きな魚の死と向き合うだけの日々。
「あの時は、人を集めて楽しんでもらう仕事を、完全に否定された気持ちになりました」
なぜこのようなことになってしまったのかと、ここで釣り堀を諦めていてもおかしくなかったはずだ。
それでも、店主はそれをようやく乗り越えた。
さあこれからという時に、能登半島地震の影響で生簀にひびが入り、十分に水を張ることができなくなってしまった。
それに加えて、自身の衰えも感じるようになり、時間制で釣りに来ている客を待たせることへの不安も大きくなっていった。
実際は、魚が飲み込んだ針を外したり、絡まった仕掛けを付け替えたりするその手さばきは、触れただけで外してしまうほどの素早さだった。
「50年やっていますからね。お客さんがこっちに来る時に、引っかかっている魚を見ればだいたいわかります」
その技は、待たせないという客への気遣いと、魚をなるべく傷つけないように――そうした心配りの積み重ねによって磨かれてきたのだろう。
「でも、もう鯉を満足に仕入れることができなくなりました。それが閉店の理由です」
自分で下した決断を、自分に納得させようとしているかのようだった。そうした中で抱いてきた無念さが、じんわりと僕の胸に響いた。
「この仕事で、嬉しいことは何ですか?」
言葉が口をついて出ていた。
「元気な魚を仕入れることができた時が、一番嬉しいですね」
笑顔を浮かべて返ってきたその言葉に、一切の迷いはなかった。

魚の大きさで点数が決まっている
「釣らせたい」という50年の哲学
水の音が響く中、生簀の周りには、入れ替わりながらも数組のお客さんが点々と竿を垂らしていた。
時折、店主は生簀の魚を気にしている。水は半分ほどしかなく、澄んだ水面に、わずかに鯉の姿が見えるだけだ。
「10年くらい来ていないお客さんもいますが、得点を貯めているお客さんもいます。お客さんとの約束ですから、得点の交換を済ませるために開けているようなものなんです」
本来の量山園は、こんな姿ではなかった。
水を染め、生簀に隙間がないほどの魚を入れ、釣りやすくするための工夫を重ねてきたという。魚がたくさんいれば競争が働き、人が近づいてくるだけで、餌を求めて山のように顔を出すのだそうだ。
そういった本来の姿を僕に見せることができず、残念そうだった。
「こちらから魚がよく見えていると、魚からも人がよく見えている。だから釣りにくいんです。私たちは、釣ってもらったら損をするから、釣られないように工夫していると思うでしょう? でも本当はその逆で、釣ってもらうために努力を重ねてきたんです」

色々とアドバイスをしたり、手伝えば釣るのは簡単だが、「ここに来て自分の力で釣ったという経験を一度でも味わってもらいたい」ので、釣りを直接手伝うことはない。
その代わり、釣り方のコツを図解にした看板を掲げて、自分で工夫してもらえるよう促している。
「長く続けているとね、時々本当に超人みたいな人が現れるんですよ。皆さん、ここでの釣り方を一生懸命研究して、自分なりの釣り方を見つけて楽しんでいるんです」
釣り人たちの工夫を楽しそうに語った。
小さな魚を狙って、いかに早くたくさん釣るかを考える人もいれば、逆に大物を狙ってじっくり釣りを楽しむ人もいる。
中には、1分に1匹以上のペースで釣り上げていく「超人」もいるそうだ。
「短時間に釣るためには、針から魚を素早く外す必要があります。針の形や、魚がどんな風に引っかかっているかを理解しておけば、針を持ってその形に沿ってクッと返すだけで外れるんですよ」

お客さんたちに楽しんでもらうために、大物賞や早釣り大会など、さまざまな企画も考えて環境を整えてきた。
魚は、一度釣られると警戒心を強めてしまう。そのため、別の生簀に移して休ませ、餌を与えながら徐々に癒やしていくのだ。
「魚が一番大切」と語る店主は、愛情を込めてその健康状態を保ち続けてきた。
「養殖場でどんなふうに餌を与えて育てているかでも、魚の性格に差が出るんです。人が手で餌を撒いて育てた魚は、警戒心が薄くて、人が近づくと寄ってきます。魚は賢いですし、人のことをよくわかっているんですよ。こうやって餌をあげようとするとスッと出てきてくれる。本当にかわいいですよ」

説明を聞いて、釣り竿と餌を受け取り、1時間ほど遊ばせてもらった。
「同じ場所に何度も針を落とすこと。撒き餌って知っていますよね?繰り返すことで、それと同じような効果になるんです」
アドバイス通りにしてみると、人生で初めて鯉を釣ることができたのだ。
水面に竿を向けていた時間は、その手応えの余韻とともに、いつの間にか思い出に変わっていくのを感じた。
帰り際、店主の姉が家族連れで訪ねてきた。
「お店を閉めることが決まって落ち込んでいたから、心配して見に来てくれたんですよ」と奥さんが教えてくれた。
それを聞いて皆さんと記念写真を撮り、最終日にまた来ることを約束して、量山園をあとにした。

量山園、最後のひととき

雨脚がいっそう激しさを増す中、常連客たちが次々と遊びに入ってきた。
子どもの頃からここで釣りを覚え、今は海釣りにも出かけるという男性の姿も見える。
「彼がチャンピオン」と紹介されるほどの腕前を持つ彼でさえ、「今日は釣るのが難しいね」と苦笑いしていた。
釣り堀としての状態は万全ではない。それでも、この日もいつもと変わらない空気が流れていた。
閉店は18時の予定だった。
一度、駅前まで昼食に出ると、市内北部で川の決壊を知らせるニュースが報じられていた。
知人からも「大丈夫?」と心配の連絡が届く。
市街地の水路も、今にもあふれそうな勢いで水かさを増していた。それでも、夕方には、思い描いた通りの光で撮れるという予感がした。
不安もあったが、確信にも似た何かに背中を押され、僕は再び量山園へ戻った。

釣り堀に戻ると、家族連れが2、3組。親子二代にわたって通ったという常連の姿もあった。皆が思い思いに釣り糸を垂らしている。
時折、店主は、お別れに訪れたお客さんと、短い言葉を交わしていた。
「最後と聞いて、こうやって遊びに来てくれる人も、会いに来てくれる人もいる。なんでもない釣り堀なのに、こうして話を聞きに来てくれる人もいて、本当に、幸せだったのかもしれないな」
自分にそっと語りかけるような口ぶりには、いくつもの思いが折り重なっていた。ひょっとしたら、そう言葉にする時を待っていたのかもしれない。
僕はただ、その様子を見ていることしかできなかった。

「皆さま、50年間本当にありがとうございました。今から早釣り大会を行います!1着と2着の方にこのぬいぐるみを差し上げますので、釣った方はお知らせください!」
夕方5時前、生簀の周りには家族連れが2組、合わせて8人になった。受付から特大のぬいぐるみを掲げ、お客さんに向かって声を張り上げた。
そう告げた直後、1人の男性が鯉を釣り上げた。
大物を釣って喜ぶその姿を見て、店主もまた、たまらなく嬉しそうだった。

再び釣り堀に静けさが戻った。
そのとき、常連客が「ありがとう」と声をかけに訪れた。
「ちょっと釣れた順番を見ておいてもらえますか?」
店主はそう言って、常連客のもとへ向かっていった。
突然のジャッジ役に、緊張感は一気に高まった。それでも、こんな大事な場面で少しでも力になれているような気がして、ささやかな誇りを感じた。
僕は、カメラを置いて生簀の様子を見て回った。釣れた順を見逃さないよう目を凝らしたが、戻ってきても、あたりは落ち着いたままだった。
店主は、しばらく泳ぐ魚を見つめながら、どうにも納得できない様子だった。
「こんなに魚がいうことを聞いてくれず釣れないのは初めてです。50年やってきてこんな動きをするんだなと知ることもありました」
呟くように言って、女の子の横に行き釣りを手伝い始めた。
自分で釣ったという感触を味わってもらいたかったからこそ、これまで直接手伝うことはなかった。
それでも、どうすれば釣れるかを追い続けてきた日々が、その姿にそのまま現れていた。
本来の賑わいからは程遠い、釣れないままの最終日。それを見過ごすことはできなかったのだろう。
せめて、小さな子どもたちに「釣れた」という手応えだけは残してやりたい。そんな思いを託すように、そっと手を差し伸べているようだった。



最後まで残っていたお客さんと、語らいながらの景品交換。賑やかな声が店中に響き渡り、いよいよ量山園の歴史に幕が下ろされる時がきた。
「長い間、お疲れ様でした」
僕がそう声をかけると、「ありがとうございます」と店主が応じた。
挨拶を交わしたあと、僕は店主の言葉に耳を傾けた。
「正直、私は魚のことしかわかりません。私たちは、毎日ここで同じように同じ仕事を続けてきました。それが良かったんですね」
50年の営みを振り返るように、ぽつりと呟いた。
店主は、打ち込んできたものを手放した現実と向き合いながら、明日からは片付けを進め、新しい道を探していくのだろう。
その姿を前にして、僕はなんとか希望を抱こうとしていた。
数々の困難を乗り越えてきたからこそ、また新たな生きがいを見つけていくに違いない。いつかきっと、元気な笑顔に再会できると信じている。
雨はあがり、釣り堀の外に出ると、夕暮れ時の柔らかな光があたりをうっすらと琥珀色に染めていた。
「じゃあ、写真を撮りましょう!お願いします」
店主と奥さん、看板犬のタッピーが揃って入り口まで出てきてくれた。
お二人に見送られ空を見上げると、夕焼けが、明日への希望を告げるように鮮やかさを増して広がっていた。

記念写真のために出てきてもらうと、看板犬タッピーはお散歩に行けると思って大喜びだった
記憶に残るしごと
あれから、何か手伝えることはないかと、何度かお店の前を通りました。
でも、店主の姿を見かけることはありませんでした。
今でもふと、「釣り竿はなぜしなるか」という問いを思い出します。
「多様性」という言葉が聞かれるようになった時代。
でも、そんな言葉がなかった頃も、町には、自分のやり方で黙々と何かを続ける人がいました。
町の文具屋さんや電器屋さん、村いちばんの名人。
誰に頼まれたわけでもないけれど、その姿は地域のあちこちで日常に溶け込み、自然に敬われていました。
量山園の店主も、そんな人のひとりでした。
どうやって「自分で釣った」手応えを持ち帰ってもらえるか。
店主は50年間、その一点だけを考え続けてきました。効率や多様性が叫ばれる今の時代において、その姿はあまりにも不器用で、そしてあまりにも誠実でした。
今は、物事が効率的になったぶん、何ごとも、どこか画一的であることが求められるようになってきたように感じます。
そのほうが、誰にでもやさしい仕組みに見えるのかもしれません。
効率や多様性と引き換えに、「ひとつのことを続ける不器用さ」を、どこかに置き忘れてきてしまったのではないでしょうか。
積み重ねてきた日々に、確かなあたたかさが宿っていたこと。
それを、誰かが覚えている。
量山園の店主は、そんな記憶を残してくれる人でした。
この記事のもくじ
最後になりましたが、量山園で出会った皆さまにこの場を借りてお礼申し上げます。
この記録が、どこかで誰かの「何かを続けてみよう」という気持ちに寄り添うことができたなら、それ以上にうれしいことはありません。
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この撮影は、初日、九州から訪ねてきてくださったカメラマンの上田稔さんに付き合っていただきました。
創作大賞2025入選作を含む『未来に手紙を出す旅』シリーズは、撮影済みの記録を随時更新しながら、ひとつのページにまとめています。
👤 撮影者プロフィール・お問い合わせ
ふだん商業カメラマンとして働きながら、
「だれかの記憶をそっと残すこと」を、自分なりの仕事として続けています。
皇室行事の撮影を経験したのち、この活動をまとめた記事が、note公式お題企画「未来の当たり前にしたいこと with これからラボ」で、参画企業の SHARPさまより「社員に読ませたい記事」として選出されました。
なぜ今もカメラを提げて走り続けているのか。
その理由と、これまでの記録、撮影のご依頼については、以下のプロフィールにまとめています。
