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「夫はATM」は、実は優しい言葉だったのかもしれない

「夫はATM」という言葉が流行ったとき、私は絶賛パパっ子だった。


私の父は、小さいころから私の長い話をひたすら聞いてくれる人だった。この言葉が流行った当時、私は思春期だったと思うけれど、思春期ならではの結論の出ない(そして多分偏っていた)話をずーっと聞いてくれて、それでいて大人の「正しい」話でお説教するようなこともなくて。


私の父性に対する信頼は、多分この頃形成されたと思う。


もちろん、今思えば父にも自分勝手なところはあった。それでも母はなんやかんやで父をたてていたし、私のなかでは、それはそういうものだった。


――そんなわけで、私は「夫はATM」という言葉を随分と酷いもののように感じていたし、そういうふうに言ってしまえるような家庭は自分とは無関係なのだと、そう思っていたのだ。


それから時はたって、私も縁あって家庭を持つこととなった。そうして娘が生まれた時思ったのだ。この子が父親を大好きだと思えるといいな、そのためにできることは何でもやろう、と。


自分が割を食ってるなと思っても娘と父親の時間のお膳立てをしたり、入念な私の下準備の上に成り立ったものも、夫に花を持たせたり。夫の急な気分の変化や仕事の都合で約束が守られなかったときも、夫が悪者にならないようにもっていった。たとえそれで、娘の苛立ちが私に向かったとしても。それは私にとってはごくごく当然のことだった。だって、夫と娘の関係性の良さは、イコール家族全体の関係の良さにもつながるのだから。それは私なりの家族への愛情であり、役割だと思っていた。


――けれどそんな私の努力は、夫にとっては全く見えていなかったらしい。

もちろん、私がいくら努力したところで、夫本人の努力なしには娘との関係は成り立たなかっただろう。
でも、夫が自分の準備だけすれば娘とのお出かけが叶うのは、準備も帰宅後の作業も私が引き受けているからだし、夫が与える「特別なこと」は、普段私が我慢させているから成り立つことでもあった。

普段はだめと言っているおやつを夫が与えれば、悪者になるのは私だ。
一度解禁したものを「日常」に戻す作業もなかなか骨が折れる。
それでも、そのほうが親子の時間は楽しくなると思っていた。

だからこそ「パパがいるときは特別」に、私も乗っていたのだ。
私個人の損得よりも、家族という集団のことを考えて。
なのに、「自分は稼いでいるのに子育てもして、自分だけが沢山担っている」といったようなことを、しょっちゅう言われていた。

確かに周りから見ても、夫は「子供をよく見る人」だと思う。
特に親世代から見たら。

そういった周りの評価も、自分自身の正しさを後押しする一因になったのだろう。
家事のレベルが低いと、離婚をちらつかされたことも何度もある。

まぁ確かに掃除は嫌いだからなぁ。でも、どんなに寝不足でフラフラでも、泣き叫ぶわが子と格闘しながら毎日朝食作ったり、頑張ったんだけどなぁ。その間ゆっくりお風呂に入っていただけの夫が「まだできてないの?(仕事してよ)」とか言うのにも、黙って耐えてたんだけどなぁ。

それに、経済的な優位性が自分にあると分かったうえでそれを言うのは、かなり意地悪なやり方だったと思う。
そもそも私が仕事を辞めたのは、夫の転勤について行ったからでもあるのに。

あの時辞めていなければ。
もし、離婚して子供を引き取ったら……

でもだめだ。それじゃあ結局、夫が責任から逃れるだけだ。
そもそも子育てって、月数万程度の養育費で代替できるようなものじゃない。

何より、夫の仕事の実績は当たり前に積み上がり続けるのに、こちらはイチから積み上げられたらまだいい方だ。
たいていの場合、積み上げの土俵にも乗れない。

そうして追い詰められて、初めて思ったのだ。
娘と夫の時間のために、努力なんてしなければよかったな、って。

こうやって言ってやればよかった。
「せっかく寝たのにどうしてあなたの気分で起こすの?起こしたなら寝かしつけまでやってもらえる?」
「私にお金を使うなって言うんだから、あなたもお金を使わないで遊んできてね。私は蒸しパンを作ってから出かけていたよ」
「ふだん健康管理に厳しいんだから、あなたもそれに準じてね。ケーキなんか食べさせたら駄目だよ。あなたが決めたルールでしょ」

どれもさして厳しくもない、当たり前のことだ。
でも多分、こうやって夫の行動を制限していたら、夫と娘は今ほどいい関係を築いていないと思う。

単純に接する時間も短くなるし、選べるカードも少なくなってしまうから。それがわかるからこそ、正論だと思えることも言えなかった。
正論よりも、親子の関係性の方が大切だと思っていたのだ。

なんだろう。夫側が常に「役割分担」「正しさ」みたいな考えがベースにあるのに対して、私の方が関係性とか夫のプライドとか、そういうことを重視し過ぎていたような気がする。
それは愛情ゆえだったけれど。

本当に、不均衡だ。愛情というのは全てを飲み込んでしまうから。
公平性を謳う側が見えていないものも、全て。

それでも、そんな中で本当に色々なことを考えた。
言い返したり、自分の領分を守るための言葉をもっと身につけないといけないかもしれない。
見えないものに輪郭を与える努力をしない私がいけないのかもしれない。
夫が役割を大切にしているなら、私の担っている役割を何とか可視化できたら……

でも、それっておかしくないだろうか。
家族への「愛情」を相手に認めさせるために、わざわざ成果物みたいに提出しなきゃいけないのだろうか。
家族って、お互いに評価したりテリトリーを奪い合うんじゃなくて、慈しみあうべきじゃないのか。

私は夫の土俵に無理やり乗せられているのに、勝負できない。
そっち側にはどうしても踏み込めない。なら、我慢するしかない。

そう考えたとき、不意に思い出した。「夫はATM」という言葉。
私もそう考えればいいのかもしれない。
そうやって割り切ってしまえば、幾分か傷つかずに済むだろう。
愛情で抱えてきたものを愛情ごと捨てるための言葉を探しているなんて、どうかしていると思うけれど。

いや、だからこそ、なのか。あんなに嫌だった言葉に、救いがあるような気がしてきた。

けれど一瞬立ち止まる。でもなぁ。ATMは家事に文句を言わないからなぁ……

ATMはタオルを朝晩洗濯に出さないし、朝ごはんのひき肉がまずいとか、言わない。

ATMはお金の使い道を細かく指摘したりもしない。ぶっきらぼうなのは……まぁいいか。

――思考が明後日の方向に向かい始めたところで、ふと気づく。

あれ、待てよ。そもそも、お金を家庭に入れるって、「子供を作って家庭を作った父親が当たり前にやるべきことの一つ」なんじゃない?
特に専業主婦が当たり前で、女性が働き続けることが難しかった当時は。

あれ?
――ってことは、「ATM」っていうのは、相手をけなしているんじゃなくて、最低限をこなす存在であると割り切っているだけ……?

それにいくら割り切ったと言っても、身の回りのお世話は結局やってあげているわけだろうし。
本当にATMだったら、自分の事は自分でやってくれ、ってなるよなぁ。

そのうえで、「本当は家族である以上、父親や夫として相手を気遣うという役割が求められているけど、それは免除してあげるよもう」っていうことだったりする……??

もしかして、「夫はATM」って、ある意味優しさだった……!??


まぁ家庭というのは様々なので、本当に旦那さんの扱いが酷い場合もあったとは思う。だから別に、一律で優しさだとは言わないけれど。

でも一般的に考えて。稼ぐ側の方が弱いって事、構造上ほぼなくないですか。ほぼないから、そういう扱いをされてる人が取り上げられるんだと思う。
「自分はぞんざいに扱われている」と思っている理由が、単に「望むタイミングで望むお世話をしてもらえない」だったりするケースも結構あるし。

でもそうか。
この割り切りが優しさなら、躊躇することはないのかもしれない。
「夫はATM」と割り切ったところで、誰に申し訳なく思う必要もないのだ。


―—なんだけど。

そう思うには、夫は少しばかり存在感が大きすぎる。口出しするし、支配的だし、不機嫌を顔に出しまくるし、身体もデカいし……

でも存在感の大きさはそこだけじゃない。
夫は「家庭に無関心」とは程遠い人なのだ。
家族行事はほとんど夫の発案だったりする。
まぁ私が計画したことには基本文句をいわれるから私が計画しなくなったってのはあるけれど。

私だけなら選ばない場所へ子供を連れていったり、不思議な遊びを思いついたり、なかなか毒のあるジョークを飛ばしたり、社会で起きていることを家族の会話に持ち込んだり。
とにかく刺激という刺激は夫からもたらされているように思う。
それはとても素敵なことだし、なかったら困る。ATMにこんなことは出来ない。

なにより、私が社会的な夫を尊敬してしまっている。家庭内では王様だけど(本人の自覚はないだろうけど)、多分外ではものすごく、正しさとか公平さとか、そういったものに対して誠実な人だと思う。
家庭でも、本人が「これは自分の役割だ」と認識していることに対しては忠実な気もする。見えにくい役割を認識できていないだけで。

とは言え、いくら存在感が大きかろうが、「ATM」という言葉を防波堤にして割り切る、という道もあるとは思う。
それは心の問題だから。
それでもやっぱり、私にとっての夫はATMじゃない。
愛情をなくして、役割への義務感とそれに付随する優しさだけを残せたら、すごく楽だとは思うけれど。

休日返上で努力しているところだって、私からしたらとてもまぶしい。
それは賃金に直結するわけではない上に家族との時間を減らしているけれど、それを「自分のことばかりで家族としての義務を果たさない人」という風には、どうしても見ることができない。
そうなってくると、もう八方ふさがりだ。

私にとっては、役割分担よりも愛情が優先される。それをまだ変えることができない。
夫は夫で、自分の考える役割分担の方を優先している。それはきっと変わらないだろう。
結局、ここで止まってしまう。 

このまま子供たちが成長していくにつれて、私の役割は、見えるものも見えないものも、少しずつ減っていく。その時、私と夫の間に何が残るのだろう。

私は愛情ゆえに割り切れないけれど、それゆえに怒りを抱えてもいて。
この構造では、愛情が怒りを生むループになってしまっていて、それらがまだ明確な境界線を持たずにずっとぐるぐるしている。

でもそれも仕方がないのかもしれない。
白黒つけた瞬間に無くしてしまうものがあるように、曖昧だからこそなんとか形を保てるものも、あるから。

時代が変わって私の経験値も増えれば、このもやもやに言葉を与えられる日が来るかもしれない。それはきっと夫側も同じだろう。

その時生まれた言葉が、愛情からのものであればいいなと思う。



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