小説|僕らの日常にアップデートがあります #創作大賞2026
【あらすじ】
ゲーム会社で働く笹本は、終電でギャル風の天使・ミカに出会う。ミカの使命は、少女・皐月が自転車に乗れるよう手助けすること。しかし彼女にできるのは、眠った相手を喋らせることと、天使の輪を出すことだけだった。かつて病弱な妹を自分のアイデアで救えなかったと悔やむ笹本は、ミカのしょぼい奇跡とゲームづくりの発想を組み合わせ、皐月の背中を押そうとする。だが、黒猫ハローとの出会いが、坂道で起こる皐月の事故へつながっていく。夏の目黒を舞台に、妹を救えなかった過去と向き合う笹本、非力な自分にめげないミカ、ついに自転車のペダルに足をかける皐月。現役ゲームクリエイターの著者が描く、日常を少しだけアップデートする物語。
終電で僕は変なギャルにからまれた。
金髪を耳にかけており、ピアスが車内灯できらめいていた。
開発中のゲームのバグが深夜まで直らず、いつこの仕事を辞めてやろうかと思いながら辛うじて切り抜けて、ようやく退社したあとのことである。
僕はガラガラの東横線車内の端の席に座り、ドアに貼られた専門学校の広告を眺めていた。「君のアイデアが人を救う」というコピーを見て、妹のためにゲーム会社へ入社した当時を思い出し、溜息をついていた。
「自転車、乗れちゃったりする?」
ギャルの声は深夜の重い空気に反して、底抜けに明るかった。僕は終電のヘビーユーザーだから分かる。こういうとき、目を合わせてはいけない。
冷房が効きすぎているわりに湿度の高い車内に、缶チューハイと誰かの整髪料の甘い匂いが漂っている。向かいの席で、スーツの男がスマホを握ったまま眠っていた。窓の外は、駅に着くたび白くなり、すぐまた黒に戻る。
「スルーすんなし」とギャルはたたみかけてくる。
ああ、これはゲームなら負けイベントだ。無視してもダメだし、たぶんなんと答えても言いがかりをつけられる。
「乗れちゃいます」と僕は言ってみた。
せめてノリを合わせることで、これから受けるだろうダメージを軽減できないかと考えた。タメ口で話しかけてくるギャルに敬語で返すのは、われながら三十歳にもなって弱腰すぎる。
「ウケんね」
ギャルは僕のとなりに座ってきた。ウケたらしい。
「あたしは、そうね。ミカって呼んでいいよ。本名長すぎだから」
ギャルもといミカさんは言う。
どうやってこの場から立ち去ろうか。まだ家の最寄り駅まで数駅ある。次の駅で降りて、別の車両に乗り換えるのがよさそうだ。
「自転車だけどさ、やばくない? タイヤふたつで走るわけなくない?」
ミカさんはひとりで盛り上がっている。やばいのは自分だという自覚がないらしい。
「子どもの頃、めちゃ練習しました」
また「スルーすんなし」と詰められてはたまらないから話を合わせる。
「やっぱ自転車の練習するんだ、人間って」
「人間?」
ますます話が見えなくなってきた。それが顔に出ていたか、ミカさんは指を鳴らす。
「あ、そうか。ちょい待ち」
ミカさんは色とりどりの猫のキーホルダーがジャラジャラついた鞄からスマホを取り出す。
何やら操作すると、車内の明かりが強くなった。天井のライトの調子がおかしいのかと思ったが、違った。
金髪の頭上に、半透明のリングが浮いて光っているのである。
◯
週末、目黒通りにある天乃珈琲の二階席に僕は座った。
店内は、打ちっぱなしのコンクリートと鉄骨が目立ち、カフェというより小さな工場のようだ。店員さんが白衣を着ているあたり、研究室がモチーフだろうか。中央は二階までガラスに囲まれた吹き抜けになっており、巨大なコーヒーロースターが設置されている。厚い窓から大通りが見えるけれど、車の音は遠い。八月の強い日が射し込み、冷房のゆるやかな風に乗って、珈琲の匂いが漂っていた。
「インスタで見てさ。来てみたかったんだよねえ」
ミカさんは窓際にある革張りのソファーへ座り、サングラスをテーブルに置いた。西暦の数字の形をしている。年越しでもないのにつける人、初めて見た。
終電でからんできた変なギャルとこうしてまた会うというのは、人生に起こったバグみたいなものではないか。
僕は注文したコールドブリューに口をつける。あの日、終電の車内で起こったことを思い返す。
あのとき、ミカさんの頭上で浮くリングの上下左右に手を入れても、タネも仕掛けもなかった。リングをつつくと、ゴムみたいな弾力があり、指が押し返された。意外にもゲームで言う「当たり判定」があった。
さらに、電車の向かいの席で眠っていたスーツの男が言った。
「あたし、いわゆる天使なんよ」
車内に二人目の変な奴が現れたわけではない。いや、そのほうがまだ納得できた。ミカさんがスマホに何かを入力したあと、男が目をつぶったまま喋ったのである。
「起きてる人間を喋らすのはムズいんだけどね」
口ぶりから、どうやらミカさんが男を操ったらしいと察したが、僕は二人目の変人が出没した説も捨てきれないでいた。
「じゃあ、好きなこと喋らせたげる」とミカさんは言った。
眠っている男は「ハロー、ワールド」と喋った。僕が指定した言葉そのままである。プログラミングの初歩で画面に表示させる文字列だ。
なるほど、ほんとうにミカさんの仕業らしい。
「今度、どうやってるか教えたげる」
そうして、僕はカフェラテを飲むミカさんの向かいに座っている。ゲームに例えるなら、バグが再現する条件を知りたくなったわけだ。悲しいかな、あまりにも仕事に毒されている。
珈琲の入ったグラスの表面は結露しており、触れると手が濡れた。
「で、どうやったんです?」
口元にカフェラテの泡をつけたまま、ミカさんはニッと笑う。
「知りたい?」
「だから来たんです」
「どうしよっかなあ」とミカさんはセミロングの金髪を耳にかける。
「スマホですか?」
僕はグラスを傾ける。
「え、ヤバ。なんで分かったの?」
「いや、仕組みは分からないですけど。あの人喋らせたとき、輪っか出したときも、スマホいじってたじゃないですか」
ミカさんはスマホを操作してみせる。
「大正解!」
ミカさんが言うと、僕の頭上が明るくなる。ガラスに映った僕の頭上に、縦向きのリングが二つ重なって浮いていた。正解を示す二重丸のつもりらしい。周りの目が気になったが、誰も気にしていない。
「思ったとおり、やっぱ向いてそう」
「何にですか?」
口元についたカフェラテの泡を拭い、ミカさんはニヤニヤしている。もともとそういう顔なのかもしれない。
「この世界のアップデートに」
僕のグラスの氷がカラリと鳴った。
◯
ミカさんは説明がへたっぴだ。聞けば聞くほど、分からないことが増える。
「こんがらがってきたので、待ってくださいね」
珈琲を飲み干し、僕は目をつぶる。仕事でゲームの仕様を考えるときと同じように、聞いたことを頭の中で整理してみる。
ひとつ、彼女は人を助けるのが仕事の「天使」である。
ふたつ、彼女はスマホで世界を「微修正」して人を助ける。
彼女の話を鵜呑みにするなら、そういうことになる。
でも「なるほど、なるほど、さようですか」と納得できるほど、三十路の頭は柔らかくない。
仕組みを知りたくて貴重な土曜を潰してノコノコやってきてしまったが、聞けば突拍子もない話である。あらためて考えると、こういう筋書きのほうがまだ分かる。
車内にいたミカさんが「操っていた」男は、ミカさんとグルだった。だから、僕らの会話に合わせて、指定した言葉を喋れた。
輪っかのタネは分からない。でも、たとえばプロのマジシャンならできなくもなさそうだ。少なくとも、彼女が世界を変える天使だという話より、よっぽど筋が通る。
「でね、今回のターゲットはこの子なんだけど、ぶっちゃけどうすればいいのか分かんなくてさー」
ミカさんはスマホを渡してくる。
画面に小学校中学年くらいの黒縁メガネをかけた女の子が映っていた。僕の記憶の中の妹と同い年くらいだ。
なぜか転んでいるところの写真だ。泣いている。
「誰です?」
ミカさんへの疑念を口にすると話がこじれそうだから、いろいろと飲み込んだふりをする。適当なところで切り上げて帰る作戦である。賢い。
「二葉小学校に通ってる皐月ちゃん。フルネームは上が教えてくんないんだよね。ターゲットの苗字か名前だけ。なんか、プライバシーがどうたらこうたら」
僕が返したスマホをミカさんは鞄にしまう。
「なんでこの子、泣いてるんですか?」
「そこよ」とミカさんは指を鳴らす。癖らしい。
「自転車、乗れないんだって」
頭の中で変に話が繋がる。だから電車で自転車の話をしていたのか?
「上からのミッションでね。自転車乗れるようにしろって。無理くない? あたし、自転車とか乗ったことないんですけど」
ストローでカフェラテの泡と珈琲を混ぜながら、ミカさんはひとりでウケている。
僕も笑みを浮かべながら、帰るタイミングを見計らう。
白衣の店員さんがグラスに水を注ぎに来てくれたが、僕は丁重に断る。ミカさんに切り出してみた。
「お仕事、大変そうですねえ。秘密、教えてくれてスッキリしました。もう、ほんとに。では、今日はありがとうございました」
上司のつまらないゲームのアイデアをかわすスキルを使ってうまいことやったつもりだったが、ミカさんは不満そうな顔をする。
「えっ、ひどくない? こんなに可愛い子が困ってたら助けるっしょ」
「たしかに泣いてるのは可哀想ですけど」
「いや、可愛い子ってのはあたし。この子も可愛いけど」
ヘラヘラと愛想笑いをしたら、睨まれた。
「いやでも、どうしろっていうんです?」
「笹本さん!」
とつぜん、ミカさんが僕の名前を言い当ててきた。そういえば、まだ名乗っていなかったはずだ。
「ゲーム、つくってるんでしょ。世界もつくれるくない?」
ミカさんはカフェラテを飲み干した。
◯
翌日、日曜の深夜一時過ぎのことだ。
休日出社で疲れていたのに、線路に猫が立ち入ったとかで、東横線が止まった。仕方なく迂回路で目黒駅に出て金毘羅坂を上って帰っていた。
金毘羅坂は二百五十メートル以上続く坂で、夏の夜に運動不足の僕が歩けば、汗が止まらなくなる。
運動不足はゲーム開発者の常だ。長時間働いていて運動する暇はないし、外で遊ぶより家でゲームをするほうが性に合う人が多い。僕もインドア派である。それも、インドア鷹派である。
ペットカートにフレンチブルドッグを乗せて歩く老婦人にさえ追い抜かれた。夜間診療を受け付けている動物病院が近くにあるから、そこで治療をした帰りなのかもしれない。息を切らして坂を上っている途中、会社から電話がかかってきた。
「集合場所、言い忘れてた。来週土曜、林試の森公園の北門前に朝八時ね! べつに、断ってもいいけど、ね」
先ほどまで会社で対応していたゲームの不具合が再発したかと焦り、通話ボタンを押したら、社長がそう言ったのである。
口調は明らかにミカさんだった。
社長はそれだけ言って、電話を切った。僕はつまずいて、危うく金毘羅坂を転げ落ちそうになる。歩道のアスファルトが隆起してひび割れていた。辛うじてガードレールに手をついた。スマホを握ったまま呆然とする。
たしかにうちは零細企業で社長との席も近いが、それでも深夜に社長が社員をデートに誘うはずはない。ミカさんが社長と通じていたとも思えない。
どうやらミカさんが他人の言葉を操れるのは本当らしい。
そばにあるゴミ集積所にはビン・カンの回収容器が畳まれており、防鳥ネットがかかっていた。
「断ってもいいけど、ね」という含みのある言いかたが気になる。わざわざ社長の言葉を借りて連絡してきたのはなぜか? 他人の言葉を操れるなら、いち会社員を社会的に陥れることなど、朝飯前では?
首筋から汗が吹き出る。坂の途中にあった自販機で、麦茶を買う。
飲み干すと、ちょっと落ちついた。でも、すぐまた歩き出す気にならなくて、近くのバス停のベンチに座った。
口を拭い、僕は呟く。
「天使のやることじゃないな」
ただ、それならそれで、良い機会かもしれない。
僕は上を向く。バス停の屋根の向こうに夏の大三角が見えた。
最悪、会社を辞めさせられるだけだろう。それは、ほんとうに最悪か? いつか辞めようと思っていた。その「いつか」が来た。そう思えば、このままミカさんとの約束を反故にしたって、かまわない。
「ゲームつくってるんでしょ。世界もつくれるくない?」
ミカさんの適当な言葉を思い出して、いまさら腹が立ってくる。それは、かつて僕が信じたかった嘘だった。子どもの頃、自分のアイデアで本当に妹を救えると信じていた。
五百五十ミリリットルのペットボトルの麦茶を一気飲みする。
バカらしい。約束なんて守ってやるもんか。
そう決めて、僕はベンチから立ち上がった。
◯
目黒区と品川区に広がる林試の森公園は、僕の家の近くにある。東京の街なかにありながら、公園というより、ほとんど森である。
空高く茂る木々が朝日を遮り、生ぬるい風が吹くと打ち寄せる波みたいな葉擦れの音が蝉の声と重なる。緑の青い香りがした。
結局、来てしまった。
今朝、昨晩麦茶を飲みすぎたせいでトイレに籠っていたときも、泣いていた皐月ちゃんの写真が頭から離れなかったからだ。
皐月ちゃんは、お母さんと一緒に北門寄りの広場にいた。
離れたところにあるベンチに、僕とミカさんと黒猫が座っている。
黒猫は野良猫のようだが、ミカさんにやけに懐いた。彼女の膝の上ですやすや眠っている。となりのベンチには、開いた参考書を顔に載せて学生が横になっていた。のどかだ。
僕らは遠くから皐月ちゃんのようすを見守るつもりだった。ところが、皐月ちゃんは自転車のハンドルを握ってこそいるが、一向に乗る気配がない。
黒縁メガネのブリッジを中指で押し上げ、皐月ちゃんはさっきから母親を相手どり、妙に大人びた調子で演説を繰り広げている。
「自転車なんて、乗れなくても良いんじゃないですか? 学校も公園も、おばあちゃんちだって、歩いていけます。そもそも、ですよ。四つのタイヤで走ってたのに、補助輪を二つも取って、走れるわけないじゃないですか。二分の一ですよ。大人も分数、知ってますよね?」
お母さんは慣れたようすで、額に汗で張りついた皐月ちゃんの前髪を目にかからないよう整えている。どうやら、いつものことらしい。
僕は天乃珈琲で買ったコールドブリューを傾ける。
「ありゃ、簡単には乗れなさそうですよ」
ミカさんもカフェラテを飲み、黒猫を撫でた。西暦の数字を模したサングラスを下げ、皐月ちゃんを眺めている。
「二つのタイヤで走るの、意味わかんないのはめちゃわかるけど」
「スマホで、ピピっと乗れるようにしてあげられないんですか」
「そんなんできるなら、笹本くん呼んでないよ」
いつのまにか「くん」付けで呼ばれている。ずいぶん年下に見えるが、天使ならずっと年上かもしれないので、文句は言わないでいる。
「じゃあ、どうするんです?」
「それを考えてほしいわけ」
ミカさんは指を鳴らして、頷いている。呼び出しておいて、ノープランだとは思わなかった。
でも、こういうことには慣れている。
ゲームの企画を考えるプランナーは、上司の「なんか面白くないから、どうにかして」という無茶振りに毎日応える職だ。プロデューサーやディレクターに明確なビジョンがあるとは限らない。とくに、うちみたいな弱小企業は、資金がないからアイデアで乗りきれ、という指示が多い。僕らはクリエイターである以前に、サラリーマンなのである。
「なんか、怒ってない?」
ミカさんは僕の眉間を指さす。シワが寄っていたらしい。
「怒ってません」と言った口調が自分で聞いても明らかに怒っていて、思わず僕は笑ってしまった。
「終わったら、さっきのクッキー奢るからさあ」
ミカさんは人差し指と親指で輪をつくる。先ほど天乃珈琲のカウンターにあったジンジャークッキーのことだろう。ミカさんがじいっと見ていたから覚えている。
「自分が食べたいだけでしょ」
「よし、これで何ができるか教えたげる」
ミカさんは話を逸らして、スマホの機能を説明し始めた。黒猫は欠伸をしていた。
◯
やはり、ミカさんは説明がへたっぴである。
僕は要約しながら自分のスマホにメモをとる。
まず、天使のスマホは使うたびに通信量を食う。大きく世界を変えるほど、料金は上がる。容量の大きい動画を見たらスマホ代が高くなるようなものらしい。
つぎに、使える通信量には上限がある。上限は天使のこれまでの成績によって決まるという。いろいろな料金プランがあり、「同期ばかり良いプランに入っててズルい」とミカさんは文句を言っていたけれど、そのくだりはメモしなかった。
大事なのは、ミカさんが最低ランクのプランに入っているということだ。つまり、ミカさんは天使の中でも世界を変える力が一番ショボい。
「ゲームを超低予算でアップデートしなきゃいけないみたいなもんですね」
「よくわかんないけど、たぶんそれ!」
問題は、ミカさんにできる世界の修正方法がふたつしかないことだ。
ひとつ。眠った相手を喋らせること。
ふたつ。天使の輪っかを出し入れすること。
「あ、ターゲットの情報は、わりと見られるよ。世界を変えるわけじゃないからね。助ける人がピンチのときに速報が届いたり。でも、それはちょっと違うか」とミカさんは頭をかく。
僕は眉根を寄せる。
「修正のアクションコマンドは、実質ひとつじゃないですか」
「そうなの。どうしろってんだい!」とミカさんはウケている。
僕は頭を抱える。
天使と名乗るからには、病気や怪我を治したり、事故や災害から身を守れたり、そういう奇跡みたいな力があってしかるべきだろう。
「喋らせられるのは、眠っている相手に限るんですよね?」
「うん。起きてる人を操るの、めちゃ通信量食うの」
「つまり、いま皐月ちゃんのお母さんを喋らせるのは」
「無理だねえ」
「お母さんに皐月ちゃんを説得させるのは無理か」
「無理だねえ」
ミカさんはずっと膝の黒猫を撫でている。
「でも、あの調子じゃ自転車にまたがりもしなさそうですよ」
「笹本くんを助手にしたあたしの気持ち、分かったでしょ」
「いつから助手になったんですか」
「今日から」
「勝手なことを。いや、とにかく導線が要りますね」
「ドウセン?」
「たとえば、ゲームの要素って足すだけじゃダメで。遊ぶ人が気づかなかったら無いのと同じ。だから、気づかせる仕組みが要る。それが導線です」
「どういう漢字?」
「導くって字に、ラインの線です」
「ミチビクってどういう字だっけ」
話が進まないので無視する。
「皐月ちゃんにとって自転車に乗るのは未知の体験ですよね。それが楽しいって気づいてもらう必要があると」
「ゲームだと、どうやんの?」
「わかりやすいのは、チュートリアルですね。ゲームの初めにプレイしながら楽しさを学んでもらうやつです」
「ほーん、ゲームやったことないから分かんないけど、そのチューなんとかはゲームの中の話でしょ? 皐月ちゃんにどうやってチューさせんの?」
「変な略しかたしないでください。ただ、まあ、それが問題です」
僕はカップの中の氷を口に含む。日陰でも暑い。
「それ、癖なの?」とミカさんはケラケラ笑う。
僕は右手の人差し指を鼻先につけながら考えていた。「しーっ、静かに」というような仕草である。言われてみれば、ゲームの仕様を考えているときも、こうしているかもしれない。ベッドで仰向けになっているときだって、考えごとをするときはいつもこうだ。
「あ、ベッドか」
「ベッド?」
ミカさんは黒猫の丸い前足を握っている。
僕は人差し指を宙に立てる。ひらめいた。でも、それができるのか、ミカさんのスマホの仕様を確かめる必要がある。
「うちの社長操ったとき、ミカさんどこにいました?」
「その人んち」
「家のそばですか?」
「いや、部屋ん中」
「え、入ったんですか?」
「じゃないと笹本くんに電話かけらんないし」
「どうやって」
「窓、開いてた」
「スマホのロックは?」
「寝てる顔、映したら開いた」
「そんな天使いてたまるか。いや、そういうことが聞きたかったんじゃないんです。ええと、つまり喋らせる相手の近くにいなきゃだめなんですか?」
「いや、あんときは電話かけたかっただけ」
「どのくらいの距離まで操作できるか、調べたことあります?」
「ないねえ」
「確かめましょう」
僕はとなりのベンチで眠っている青年を親指で指した。
◯
皐月ちゃんはいつまでも自転車に乗らない。身振り手振りを交えて迫真の演説を続けている。僕はベンチで待った。
僕のスマホにミカさんからメッセージが届く。
「着いたよ」
公園の北門まで行ってほしいと僕がお願いしたのだ。黒猫は、ミカさんが立ち上がると僕に目もくれず、しっぽを立ててどこかへ行ってしまった。
「やってみてください」と僕は返信する。
「りょ」と返ってきてから、ちょっと待つ。
「ハロー」
となりのベンチで眠っていた青年が、顔に参考書を載せたまま喋りだす。
「成功です。次は、天乃珈琲前に行ってください」
「りょ」と返ってくる。
北門から天乃珈琲まで歩いて二十分くらいだ。しばらくして、ミカさんからスタンプが送られてくる。ミカさんがバッグに付けている色とりどりの猫のキーホルダーと同じ絵柄のスタンプだ。天使の輪をつけて飛んでいる。
「波浪注意報」
青年が喋った。すぐそばをフレンチブルドッグを連れて散歩していた老婦人が、ぎょっとしている。
「ハローでいいですよ。変なアレンジやめてください」と僕は送る。
でも、成功だ。遠くにいても、眠った人を喋らせられる。
「仕様は把握したので、戻ってきてください。作戦を話します」
ミカさんがまたスタンプを返してきた。
天使の輪をつけた猫が二匹に増えた。
◯
天乃珈琲の窓際の席で、僕とミカさんは向かい合う。
スマホを見ると夜の十時を過ぎている。天乃珈琲は十時半に閉まる。昼間は賑わっていた二階席も空席ばかりだ。
「あ、やっとベッド入ったかも」
ミカさんはスマホを見せてくる。
よくあるチャットアプリと似た画面だ。白と緑の吹き出しが交互に並んでいる。皐月ちゃんとお母さんの会話だ。メッセージの入力欄もある。このアプリで人を喋らせているという。
公園で僕が思いついた作戦は、シンプルだ。
起きている人の言葉を操れないのなら、お母さんが眠るまで待てばいい。眠ったあとでお母さんを喋らせて、皐月ちゃんに自転車の楽しさを伝えるのだ。遠隔で喋らせられることは朝に確かめた通りだ。
お母さんの言葉を借りてうまく誘導できるか、という点には自信がある。それこそ、チュートリアルのメッセージをつくるようなものだ。これまでいくつチュートリアルをつくってきただろう。転職したら無用になりそうなスキルが、ここに来て役に立つとは思わなかった。
「寝そうですか?」
「まだ喋ってるねえ」
ミカさんはスマホをテーブルに横向きに置き、僕にも会話が読めるようにしてくれた。
「お母さん、いつ自転車に乗れるようになりました?」
吹き出しに「皐月ちゃん」と表示されている。ミカさんが設定しているらしい。
「さてねえ、いつだったかなあ」
こちらの表示は「お母さん」だ。
「私がこのまま、ずうっと、自転車に乗れなかったら、どう思いますか?」
「そうねえ。そういうこともあるかあって思うかなー」
皐月ちゃんも変わった子だが、お母さんもなかなか変わっている。娘を力強く励ますタイプではなさそうだ。やはり、僕が背中を押すしかない。
「おばあちゃんち行くとき、どうしよう。もらった自転車で行かないと、おじいちゃん、がっかりしますよね」
「車で連れてってあげるよ」
「それじゃあ、だめなんです。乗れるようにならないと。でも私、才能ないの。クラスのみんなは楽しそうに乗ってるのに。怖くて。転んだら、ひざから血が出ちゃうでしょ。どうして、私はだめなんでしょう」
「皐月」
お母さんの吹き出しが出たところで、しばらく間があった。
ミカさんはデカフェのカフェラテを飲む。
「寝たのかな?」
「このタイミングで寝ないでしょう」と僕もデカフェのコールドブリューが入ったグラスを傾ける。
「皐月が生まれたとき、お母さんね、まだお母さんじゃなかったの」
「お母さんは、お母さんでしょ?」
「お母さん、すごく不安だったの。私なんか、皐月を育てられないんじゃないかって。抱っこのしかたも知らないし、おっぱいだってどうあげればいいか分からない。ほんとうに、お母さんになれるのかなって」
「なれてますよ」
「いまはね。でも、最初は違ったの。生まれたあと、夜中に四回起きておっぱいあげて、昼間に八回おむつ変えて。毎日、毎日繰り返して、ちょっとずつ、ちょっとずつ、お母さんになったの」
「ご迷惑をおかけしました」
「とんでもございません。それで思ったの。人って、変わるんだなって」
「変わるの」
「簡単じゃないけどね。時間をかけて、人って変われる。いまだめでもね」
「変われる」
会話が途切れた。お母さんが眠ったのかもしれない。
天乃珈琲の高い天井に空調の低い音が響く。目黒通りを走るタクシーの音が、大きなガラス越しに微かに聞こえた。
僕とミカさんはテーブル越しに顔を見合わせる。
「チャンスだね」
ミカさんは小声で言う。聞こえるはずもないのに、画面の向こうのお母さんを起こさないようにしているようだ。
僕は首を横に振る。ミカさんは驚いた顔をした。
会話を見て、何も思わなかったのか。そう訊くことさえ野暮な気がした。
僕は子どもの頃、家族四人で寝室で眠っていたことを思い出した。父が早く眠り、僕が目を閉じているとき、母と妹が何を話していたか、もう忘れてしまったけれど、心地いい耳触りだけが記憶に残っている。
僕はうつむく。木製のテーブルに付いた傷が目に入った。
お母さんの口から皐月ちゃんに語りかける資格なんて、僕らにはない。
◯
平日の朝、誰よりも早く僕は出社する。
もちろん、やる気があるからではない。人がいないほうが仕事が捗るからだ。ゲーム会社の人間は、だいたい夜型だ。学生の頃に深夜までゲームをしていた名残りか、残業ばかりだからか、その両方か。
濡れた折りたたみ傘を手にフロアの電気を点けると、おもちゃ箱をひっくり返したような同僚たちのデスクが目に入った。ゲームキャラクターのフィギュアや、団扇、タオルなどが、ところ狭しと並んでいる。モニターの高さを漫画雑誌で調整している席もある。とても人が働く場所には見えないが、ゲーム会社ではそれが仕事を愛している証だと言えなくもない。
狭いフロアの中央に、きれいに片付いた僕のデスクがある。古いモニターが三台載っている。メインモニターと、社内チャットを見る用と、ゲーム画面を映す用だ。折りたたみ傘をケースに入れてデスクの脇に置く。
朝一番に、溜まったチャットの通知を消化する。僕が早々と退社したあと、深夜に交わされていた議論に目を通す。
いま開発しているのは家庭用ゲームではなく、アプリゲームだ。運営中のゲームに不具合が起きていないことを確認したあと、昨日の売り上げを見る。運営を管理するツールで、リアルタイムに売り上げが分かる。
一昨日のアップデートで実装したアイテムの売り上げがよくない。破格の性能だったから、商品にたどりつくまでの導線が足りなかったのではないかと仮説を立てる。
導線か、と思う。
椅子を引き、人差し指を鼻先につける。皐月ちゃんが自転車に乗れないのは、乗りたくなる導線が足りていないからだと思ったが、違った。彼女は乗れるものなら乗りたいと思っていそうだったし、お母さんはしっかり皐月ちゃんを導いていた。
古いオフィスチェアの背もたれを後ろに倒す。それなら別のアイデアを考えるまでだ。そう思っている自分に少し驚く。前向きにアイデアを考える気が起きたのはいつぶりだろう。
子どもの頃はアイデアを振り絞り、体の弱い妹でも横になりながら遊べるカードゲームをつくった。
いろいろなお菓子の空き箱に描かれたキャラクターをハサミで切り、トランプのように数字を書き、カードにした。二人が同時にカードを出して、数が大きいほうが勝ち、という単純なゲームだ。妹は病床でひとりでも遊んだ。夢中で遊ぶ小さい背中を見るのが、嬉しかった。
僕はボードゲームをいくつもつくった。病院へ向かう車に乗る妹に、新しいゲームを持たせて見送った。ボードゲームを抱きしめる妹の背中には、しかし手を伸ばしても届かない気がした。
病室で看取ったとき、妹の声はかすれていた。目を閉じるまぎわ、僕の手を握って妹は何か言ったが、聞き取れなかった。聞き返すと、目を閉じてから少しして、「ありがと」とだけ言い残した。
ボードゲームは捨てられず、妹の部屋のクローゼットにあった。カードを入れていた箱にも、拙い字で「ありがとう」と書かれていた。アイデアで現実は動かせないと、僕は思い知った。
それでも十年経ち、僕はゲーム会社に入社した。外で遊べない人のためにゲームをつくりたいと思った。けれど、四本、五本とゲームをつくれば、嫌でもやる気は薄れていく。ゲームは面白いだけではだめだからだ。プレイヤーが楽しんでくれても、売り上げが立たなければ、会社としては失敗だ。
一日八時間、月に百六十時間、売り上げについて考える。そんななか、クリエイターとしての素朴な夢を抱きつづけるのは難しい。
皐月ちゃんのお母さんは「時間をかけて、人って変われる」と言っていた。それは正しい。良くも悪くも、人は長い時間をかけて変わる。
会社の外線が鳴った。僕は手もとの端末で代理応答のボタンを押す。
「ハロー」
間の抜けた、明るい声だった。
◯
ミカさんだ。今回は社長を通じていない。もう起きている時間だからか。
「仕事中なんですけど」と僕は返す。
「今週末も土曜の同じ時間、同じ場所だからねー」
「カフェで聞きましたよ」
「すっぽかされないようにと思って」
「そんなことしたら何されるか分かったもんじゃない」
「あたし、天使なんですけど。その言いかたはなくない?」
声がわずかに低くなった。気にさわったらしい。
「じゃあ、なんで前にわざわざ社長を通して電話してきたんですか?」
「それは」
ミカさんの言葉が詰まる。窓の外の雨脚が強くなった。
「ちゃんと話聞いてくれるかなって。あたしだって、ほんとはああいうの、あんまりやりたくなかったけど」
「皐月ちゃんたちの会話を見てて、何も思いませんでした?」
「いや、あれさ、何で笹本くん急に作戦中止したわけ?」
僕は頭をかいた。次の手を考える気が削がれる。
「そもそも、何でそんなに皐月ちゃん自転車に乗せたいんですか?」
「話したじゃん。上からのミッションだからだよ」
「それだけですか?」
通話口からまた沈黙が流れる。僕もむきになっていて、口をつぐむ。
「あたしのママはさ。雪、降らせられるんだよ」
「何の話ですか?」
「パパは風を吹かせて旅客機を墜落から助けられるし、お姉ちゃんはバスジャック犯に雷を落とせる。弟も降ってる雨を強くして火事を消せる」
ミカさんの言いたいことが分かった。分かったから、何も言えない。
「家族だけじゃない。みんな、どんどん人を救って、どんどんできることが増えてくの。あたしは? 寝てる人を喋らせて、どうなるの?」
僕の頭の中に、同級生が体力測定で新記録を出したと聞いて、喜ぶフリをしていた妹の顔が浮かぶ。
「バックれたければ、どうぞ。それで笹本くんに迷惑なんてかけないよ。あたしがどうにかするよ。あたしのミッションだし」
僕は受話器から口を離して、ため息をつく。
「分かりました。こうしましょう。あの子が自転車に乗れたら、クッキーだけじゃなくて、あの高い珈琲も奢ってください」
「あ、ゲイシャ?」
声の高さが戻る。分かりやすい。子どもみたいだ。
「それです。ミカさんが試飲してたやつ」
「あれね、美味しかった! 飲みたかったなら言ってよ。ぜんぜん奢るし」
自分も飲むつもりだろうなと思うと、口もとがゆるむ。
「そうと決まれば、切りますよ。土曜、遅れないように」
外線を切り、僕は仕事を再開した。
◯
土曜の朝八時、僕とミカさんは再び林試の森公園のベンチに座った。
待っていたように黒猫が近づいてきて、当たりまえみたいな顔をしてミカさんの膝の上で丸くなる。
「膝、ひんやりしてるから気持ちいいのかも」
ミカさんは黒猫の背を撫でる。
「ミカさんは暑くないんですか」
「天使だかんね」
「関係あります?」
「手が冷たいひとは、心があたたかい、みたいな、あれよ」
「分かりました、適当なこと言ってますね」
午前中でも風が熱を帯び、青々としたプラタナスの葉を鳴らす。コールドブリューの氷は、ほとんど溶けてしまった。
皐月ちゃんとお母さんは広場で自転車の練習を始めていた。
皐月ちゃんはアイスミントの色をしたヘルメットを被り、ハンドルをぎゅっと握りしめているけれど、なかなかサドルにまたがろうとしない。
「やっぱり、やめておきますか? 怪我しちゃったら、お盆におばあちゃんち、行けなくなっちゃいますよね。おじいちゃんの動物病院、見学させてくれるって約束なのに」
先週と同じように、お母さんは皐月ちゃんの頭を撫でている。
「ヘルメット被ったのは進歩だね」
ミカさんはストローでカフェラテをちゅうと吸う。
「前向きですね」
「そうだ、聞いて。あたしもアイデアを考えてきたんだけど」
「聞きます」
「じゃーん! 見て」
ミカさんは藍色のマッチ箱のようなケースを手のひらに載せた。
「なんですか、これ」
「お香。サンダルウッドの香り。よく眠れるって書いてあった」
「どう使うんです?」
ミカさんは人差し指を鼻先に当ててニヤニヤしている。僕の真似をしているつもりらしい。
「皐月ちゃんの近くで焚くの。でね、眠ったら、私はできる、私はできるって言わせてね。できる気持ちにさせるの。どう?」
「寝てたら自転車乗れなくないですか」
再びミカさんは鼻先に指を当てる。
「それは、ホントそう」
「ノープランじゃなくなったのは進歩ですね」
皮肉を言ったが、褒められたと思ってミカさんはニコニコしている。
僕は目をつぶり、珈琲を飲む。ミカさんの話は、半分聞き流すくらいがちょうどいいのかもしれない。
ただ、僕もここに来るまでにいろいろアイデアを考えてはみたものの、まともなプランがないのは同じだ。眠っている人を喋らせることの一本槍で、何ができるというのだろう。
たとえば、公園のベンチで眠っている人がいたとしよう。赤の他人であるその人に「お嬢ちゃん、自転車はいいぜ」などと喋らせようものなら、お母さんに通報されかねない。
「どうしようかねえ」
ミカさんはスヤスヤ眠る黒猫を撫でている。夢の中で歩いているのか、丸い前足がぴくりと動く。のんきなものだ。
「あ!」
僕は立ち上がる。珈琲がちょっと溢れた。
「なに?」
「こういうのはどうですか?」
僕はミカさんの仕草を真似して、指を鳴らした。
◯
今でこそゲームは大容量のデータを扱えるが、昔は数キロバイトしか扱えない時代もあった。有名な話では、とあるゲームは小さな容量でやりくりするために、雲の形を転用して色を変えて地面に生える草として使った。
この「同じものを別のところで使えないか」という発想は、今でも低予算のゲームをつくるときに役に立ち、それはショボい天使の能力の使いかたにも応用できる。
皐月ちゃんの自転車の前カゴで、黒猫が大人しく丸まっている。
先ほど、ミカさんが運び入れたのである。皐月ちゃんとお母さんがベンチの脚に自転車のチェーンロックをかけて公衆トイレへ行った隙をついた。
「グッドアイデアだね」
ミカさんはベンチで両脚をブラブラさせる。
「眠るのは人だけじゃないですから」
僕はミカさんから借りたスマホに文字を打つ。
「良い自転車じゃないか」
皐月ちゃんはハンドルを握ったまま固まった。自転車のカゴに現れた黒猫が、とつぜん喋り始めたからだ。
辺りを見回している。まだお手洗いから戻らないお母さんを探しているのかもしれない。
黒猫をじいっとにらみ、皐月ちゃんは尋ねた。
「きみが喋ったんですか? お名前は?」
距離があるから、僕らはスマホの画面で皐月ちゃんの発言をたどる。ちょっと考えてから、僕は思いついた名前をスマホに入力する。
「ワシは、ハロー」
「ハロー? 変な名前」と皐月ちゃんは笑った。
「おじいちゃんっぽい」とミカさんもツボにはまっている。
「ゲームに出てくる動物のキャラクターって、こういう意外な口調だったりしません?」
「知らんけど」とミカさんはウケていた。
「ハローは、なにしてんですか」と皐月ちゃんは続ける。
「自転車が懐かしくてな。昔、飼い主がよくカゴに乗せてくれた」
ミカさんは「そうだったの?」と僕に尋ねる。
「いや、適当に考えてるんですよ」
「よく思いつくね」
僕は入力を続ける。
「このまま少し漕いでみてくれんか。またあの感覚を味わいたい」
「飼い主さんは?」と皐月ちゃんは言った。話をそらしている。
「いない」と僕は入力した。そこまで考えていなかったから、フワッとした答えになってしまった。
「もしかして捨てられたの?」
「うむ」と話に乗っておく。
「かわいそう」と皐月ちゃんはハローの背中を撫でた。
「起きちゃうんじゃないですか?」
僕は慌てて背筋を伸ばし、ようすを窺う。
「喋ってるあいだは起きないよ」とミカさんはスマホを見たまま言う。ひと安心して、僕も画面へ目を落とす。
「わかった、乗せたげます」と皐月ちゃん。
僕とミカさんは小さくハイタッチをした。皐月ちゃんがサドルにまたがったのが見えた。
ミカさんの手のひらは、なるほどちょっとひんやりしていた。
◯
皐月ちゃんは、なかなか両足をペダルに乗せられない。
お手洗いから戻ったお母さんは、サドルにまたがっている娘をひとしきり褒めたあと、いまはベンチで応援している。お母さんもカゴの黒猫に気づいていたが、皐月ちゃんはハローが喋ったことを話さなかったらしい。
右足をペダルに乗せたまま、皐月ちゃんは何度も左足を浮かせようとする。でも、すぐに地面に足がついてしまう。
「ごめんね、あたし、三年生なのに」
皐月ちゃんの言葉が画面に映る。
「ワシなんて、じいさんなのに自転車乗れないからな」と僕は文字を打つ。
その吹き出しをミカさんはコツコツと指さす。
「ハロー、良い奴じゃん」
「僕が良い奴なのかもしれません」
「そうかも」
「否定してください。恥ずかしい」
皐月ちゃんの言葉が表示される。
「一年生のとき、おじいちゃんがこれくれたの」
「自転車か」とハローに喋らせる。
「それって、一年生でも乗れるでしょってことなんです」
「そのうち乗れればいいと思ってくれたんじゃないか」
「お母さんもそう言ってました。でも、そのうちって、いつ? 今日乗れるようになりたいのに。毎日、今日乗りたいって思ってきたのに。みんなは乗れるのに」
皐月ちゃんは下を向く。彼女の気も知らず、幼い兄妹が自転車のそばを走り回っている。
僕は次の言葉を考える。下手なことは言えない。
ゲームのチュートリアルなら、どうやってプレイヤーを励ますだろう。アプリゲームはチュートリアルの離脱率が高い。よくあるのは成長を感じられないパターンだ。ゲームが進んでも自分は停滞している気がするとき、人はやめる。
僕は慎重に文字を打つ。
「歳をとると、自分の欠点がはっきりしてくる。ワシは長く家で飼われてきたから、ネズミを狩るのはあきらめた。だが、お嬢ちゃんは若い。ネズミを狩る練習は、いくらでもできる」
「ネズミは要らないです」と皐月ちゃんは笑った。
「たとえ話さ」と僕は続ける。「ワシには、妹がいた」
「お兄ちゃんだったの」
広場を走る幼い兄妹が、また皐月ちゃんのそばを通り過ぎた。
「生まれつき体が弱くてな。同じ歳の猫たちが塀の上を歩いているとき、妹は手前の段差をよじのぼるだけで精一杯だった」
「うん」
「妹は喜んでいた。この段差、前まで上れなかったと」
皐月ちゃんは、またハローの背を撫でる。
スマホを握る僕の手が止まる。妹の話を出すべきではなかった。画面を覗いているミカさんに気づかれないよう、僕は手の甲で目を拭う。
ミカさんは画面を見つめたまま、困ったように笑っていた。初めて見る表情だった。
これはチュートリアルの中の物語にすぎない。自分にそう言い聞かせて、深呼吸をする。
「大事なのは、自分が変わっていくことだ。他人じゃなくてな」
「お母さんも、人は変われるって」
「そうとも」
「ハローも変われますよ。このあと、ネズミとる練習しよう」
走っていた兄妹のお兄ちゃんが転び、妹が丸い手を伸ばす。
皐月ちゃんは、両足をペダルに乗せた。
◯
あの日、皐月ちゃんが自転車に乗れるようになったとは言えない。
でも、地面に足をつけず、一メートルほど進めたとき、僕とミカさんは思わず握手をした。
「そろそろミッションクリアだね。前祝いしちゃおう」
林試の森公園から学芸大学駅へ向かう途中、ミカさんは言った。お盆休みに、天乃珈琲で夕飯を食べることになった。
皐月ちゃんとお母さんは、お盆に目黒の大鳥神社の近くに住む祖父母の家へ泊まるらしい。獣医のおじいさんにハローを診せるという。飼うことにしたそうだ。わざわざ自転車のカゴにハローを乗せ、ハンドルを押して歩いて祖父母の家へ向かったようだ。
「クロックムッシュ、食べてみたかったの。笹本くんのもあとでちょっとちょうだい」
ミカさんはトレイを持ち、天乃珈琲の階段を上る。僕の分はミカさんが指定した海老とアボカドのサンドイッチだ。朝食みたいな夕食だ。
いつもの窓際の席が空いていた。お盆の夜は客が少ない。ミカさんのカフェラテと僕のコールドブリューのグラスで乾杯する。
「皐月ちゃんが自転車に乗れたら、どうなるんですか」と僕は尋ねる。
「どうなるって?」
「ミッションって言うからには、達成したら何かいいことあるのかなと」
「あー、あるよ。ランクアップする。スマホの通信量の上限が上がんの。寝てる人を喋らせるだけじゃなくて、もうちょい、できることが増える」
「それは前に聞きましたけど、給料上がったりは?」
「ウケる。天使に給料とかないかんね。ご飯食べなくても生きてけるし」
「カフェラテ飲んだり、それ食べたりはするんですね」
ミカさんはクロックムッシュを口にする。
「美味しいから。趣味みたいなもん。あ、それ一口ちょーだい」
ミカさんは僕のサンドイッチに手を伸ばす。
「ミカさん、楽しいですか?」
「そんな責めかたする?」
「いや、サンドイッチじゃなくて、天使の仕事です」
「あー仕事ってか、使命よね。同じようなもんか。ずっと失敗ばっかだったから、つまんなかった。けど、楽しくなってきた。笹本くんのおかげ」
たしかに、これまでのミカさんを見ていると、ひとりでスムーズに物事が解決する気はしない。僕はミカさんの大きすぎる一口でちっちゃくなったサンドイッチを頬張る。
「笹本くんは? ゲームつくる仕事、楽しい?」
「ミカさんのもください」
僕はクロックムッシュを奪い取ろうとする。
「させるか」とミカさんはフォークでガードする。
二人が笑ったときだった。
不協和音のアラームが鳴った。緊急地震速報の警報音に似ていた。心臓が跳ね上がる。
ミカさんの顔から笑みが消えた。彼女は急いでバッグに手を入れる。スマホが鳴っている。
「ヤバ」
画面を見て、ミカさんは言った。
◯
アプリゲームの運営で最優先は、大きな不具合への対応だ。
プレイヤーが遊べなくなるような致命的な不具合が発生したら、メールや電話で障害コールが届く。新しい仕様の実装は脇に置き、退社間際だろうが、夜食にメロンパンを食べていようが、不具合を直す。
ミカさんのスマホのアラームは、世界にバグが発生したと告げているようなものだった。
「皐月ちゃん、怪我しちゃう」
ミカさんは遠くを眺めるような目でスマホの画面を見ている。僕はスマホを受け取った。
不具合は自然に生まれない。たいてい実装した新要素か、仕様の修正から発生する。人がつくる以上、どれだけ慎重に実装しても、思いもよらないバグは生まれる。
ハローが原因だ。
僕が黒猫を喋らせたことで、皐月ちゃんはハローを飼うと決めた。それが問題を引き起こした。
画面の報告書は「経緯」と「予告」の二段組だ。僕は「経緯」を読む。
金毘羅坂の途中に、皐月の祖父の動物病院がある。今夜、皐月は自転車のカゴに黒猫を乗せて動物病院に行った。検診のあと、黒猫は病院にあったペットカートに乗せられた。そのストッパーは経年劣化で壊れている。
次に「予告」へ目を移す。
黒猫を乗せたカートは金毘羅坂を下り始める。坂の終点に交通量の多い大鳥神社前交差点がある。皐月は自転車で追いかける。自転車は横転し、皐月は顎を七針縫う大怪我をする。
「予告って?」と僕はミカさんを見る。
「これから起こることが書かれてる」
「未来が分かるってことですか?」
「すぐ先のことだけ」
「予告」の文字のとなりに時刻が書かれていた。
八月十一日午後八時三十二分。今日だ。いまは八時十一分だ。
「動物病院まで走れば二十分です」
僕は立ち上がる。
「場所分かるの?」
ミカさんも急いで腰を上げる。僕は頷く。
食べかけの夕食を残し、僕らはカフェの階段を駆け下りた。
◯
夜なのに目黒通りのアスファルトは熱を帯びていた。僕らは走る。
湿気を含んだ空気が吸いにくい。呼吸が浅くなる。まだ十分間しか走っていないのに、僕のTシャツが汗で濡れる。
「ミカさん」
「なに」
ミカさんは走りながら振り返る。彼女は汗ひとつかいていない。
「すみません、無理かも」
僕はバス停の前で吐くように言った。足が止まる。
「早く!」
ミカさんは言う。僕はうまく足を前へ出せない。
ゲーム開発者に運動能力を求めてはいけない。何時間も座ったまま画面と向き合う仕事だ。会社を出ることもまれだ。入社以来、名刺も数枚しか使っていない。
足がもつれて、子どもみたいに転んだ。太ももが変に痙攣する。グレーのパンツの右膝のところに黒い染みができた。擦りむいたようだ。
すがる思いでバス停の時刻表を見る。バスは数分前に行ったばかりだ。
「走るしかないって!」
ミカさんは僕の手を引く。ひんやりしている。僕は立ち上がった。
でも、無理だ。熱帯夜に、あと十分間も走れる気がしない。熱中症で行き倒れる自信がある。
「飛べたりしないんですか、天使なんでしょ」
「飛ぶの通信量大きすぎる」
「頑張ってくださいよ!」
「あたしの台詞だ! 皐月ちゃんが怪我してもいいの?」
「先、行ってください」
「あたし場所分かんないって!」
「真っ直ぐ行くだけです」
「走るだけでしょ!」とミカさんはまくしたてる。
ミカさんの肩越しに、タクシーが目に入った。信号を待っている。
ラッキーだ。車なら動物病院まですぐだ。僕は手を挙げた。タクシーは反応しない。
僕はタクシーの近くまで足を引きずるように歩いた。表示板にオレンジ色の「賃走」の文字が光っている。乗れない。脚の力が抜ける。右膝が痛む。
喉に唾液がからんで、ひどくむせる。ちょっと走っただけなのに、情けない。われながら無様だ。
「乗って」
ミカさんが僕に背を向けて中腰になり、両手を後ろへ出している。
「おんぶなんて無茶ですよ」
「やってみなきゃわかんない」
「天使って力持ちなんですか?」
「かよわい女の子と同じ」
「本気ですか」
「あたしだって、無理なことくらい分かってるし!」
ミカさんは声を荒げる。
「それでもやるの。人を助けるんだ。あたしだってね。あたしだって、天使だかんね」
ミカさんは空回りばかりしている。でも、本気でもがいている。
その本気を無駄にしてはいけない。僕が考えないといけない。
信号が変わり、走り始めたタクシーの車内が見えた。
助手席で老婦人が眠っている。後部座席の端には、フレンチブルドッグの入ったペット用のキャリーバッグがシートベルトで固定されている。
「ミカさん! スマホ貸して」
「何するの」
「いいから」と急かし、僕はスマホに文字を打つ。
やや間があって、タクシーが停まった。
ドアが開く。
今度は僕が手を引き、ミカさんと後部座席に滑り込んだ。ドアが閉まる。車窓の夜景が後ろへ流れ始める。
「どうやったの」
ミカさんに僕はスマホを見せる。「なるほど」とミカさんは頷いた。
助手席で眠っていた老婦人をスマホで喋らせた。「友人だから乗せてあげて」とタクシー運転手に言ってもらった。
キャリーバッグの中のフレンチブルドッグが、つぶらな瞳でこちらを見ている。緊急事態だから、許してほしい。
熱くなった僕の頬に冷房が当たる。生き返る。車なら五分もせずに動物病院へ着くだろう。呼吸を整えて、僕は鼻先に人差し指を添えた。
どうやって皐月ちゃんを救うか、考え始める。
◯
タクシーから降りたのは、午後八時三十一分だった。
「予告」の時間の一分前だ。何度も信号につかまり、結局、最後は走るしかなかった。
銀杏並木に月光が注ぐ金毘羅坂の急斜面で、皐月ちゃんが自転車のハンドルを握っている。僕とミカさんの三十メートルほど先にいる。お母さんとおじいさんはいない。皐月ちゃんは動物病院を見ている。診察後の手続きを待っているのかもしれない。
錆びたガードレールのそばに、年季の入った水色のペットカートがある。ハローには飛び出し防止のリードが付いている。
ストッパーが外れたのか、カートが急坂を下り始めた。僕らが先回りして止めるつもりだった。しかし、遅かった。
その直後、皐月ちゃんが異変に気づいた。坂の先は交通量の多い大鳥神社前交差点だ。リードに繋がれたハローは逃げられない。
皐月ちゃんは、ためらわなかった。走っても間に合わないと見るや、自転車にまたがり、ライトも点けず、すぐさま地面を蹴る。一瞬の動きが、僕にはひどくゆっくりと見えた。
ミカさんに続き、皐月ちゃんまで無茶をする。あれだけ言い訳を重ねていたのに、あれほど怪我を怖がっていたのに、皐月ちゃんはハローだけを見据えている。ペダルを漕ぐ右脚と左脚が、スローモーションに見える。皐月ちゃんの小さい背中が、遠ざかっていく。
僕の頭がフル回転する。
追いつけるか? 無理だ。子ども用とは言え、二十メートル以上先で急坂を下る自転車に、走って追いつけそうもない。
となれば、ミカさんのスマホに頼るしかない。ミカさんのスマホは僕の手にある。でも、どうする? 近くに眠っている人間などいない。いたとしても、人を喋らせてどうにかなる状況ではない。
胃の底が重くなる。たいした距離も走っていないのに吐き気がする。
打てる手がない。
そう思うと、いよいよ時間が止まったような気がした。
コンビニのメロンパンを食べているときも、お腹を下して便座におしりをつけているときも考え続けていたゲームのアイデアを、捨てることがある。売り上げに繋がらないからだ。お前のアイデアに価値はないと、毎日、毎週、毎年、噛んで含めるように自分に言い聞かせてきた。
僕はスマホをミカさんに放り投げる。
「投げんなし! お手上げってこと?」
キャッチしたミカさんが怒鳴る。
「そう思ってからが始まりです」
走りながら考える。低予算のゲーム制作ほど、アイデアの勝負になる。
皐月ちゃんの自転車のタイヤがちょっと跳ねた。ハンドルが左右に振れて、バランスが崩れている。
歯を食いしばって走っていると、とつぜん僕の体が宙に浮く。タイヤが跳ねたのは、アスファルトが隆起していたからだった。僕はそれに気づかず、つまずいた。僕が世界の制作者なら、絶対にこんなところに「当たり判定」をつけない。
今度は時間が止まるどころか、一瞬のうちに頭の中に映像が流れる。林試の森公園でミカさんと握手したこと、ハイタッチしたこと、困ったような笑顔、受話器から聞こえた明るい声、教えていないのに呼ばれた僕の名前、そして終電の車内に浮かぶ天使の輪っか。走馬灯は、エンドロールに似ているなと思った。
ゴミ集積所のゴミ袋の山に僕は突っ込む。袋が破れて生ゴミの臭いに包まれる。得体のしれない茶色い液体が両手に付いた。
ミカさんが手を差し伸べてくる。肩についた玉ねぎの皮を払い、僕は手を取って立ち上がり、また走る。
「怖っ、なんで笑ってんの」
走りながらミカさんは言う。
「そうだ、当たり判定ですよ!」
「なに、頭打っちゃった?」
僕はミカさんに尋ねる。
「輪っか! どこにでも出せますか?」
「え?」
「天使の輪っかです! 出し入れできるでしょう。頭の上だけですか?」
「どこでも出せるけど」
「いくつ出せますか?」
「たしかめたことないけど、三つまでだったような」
「よし、こうしてください!」
僕は手短にミカさんにアイデアを伝える。
「やってみる!」とミカさんは立ち止まる。
僕は止まらない。失敗に備えて、走り続ける。
ハローを追う皐月ちゃんの自転車の車体が、左右に大きくブレている。いつ転んでもおかしくない。当たり前だ。まともに乗るのは初めてだ。急発進していたから、ヘルメットも被っていない。
それでも自転車はペットカートに迫っていた。でも、横転する寸前だ。
「やってみた!」
後ろからミカさんの叫ぶ声が聞こえる。僕は振り返らず走り続ける。
カートに乗っているハローと、追う皐月ちゃんの頭の上に、天使の輪っかが現れた。神々しく光っている。
「何やってんですか! 縁起でもない!」と僕は叫ぶ。
「ごめん、出すとこ間違えた!」
ミカさんの声が小さく聞こえる。輪っかが消える。
「これでどう!」
再び、光が強くなる。
「そこです!」
皐月ちゃんの自転車の後輪のあたりが輝き、歩道を照らす。二つの天使の輪っかが、後輪の脇に寄り添っている。
初めて僕が天使の輪に触れたとき、弾力を感じた。ゲームで言う「当たり判定」があった。それはつまり、物にぶつかったり、支えたりできるということだ。
二つの天使の輪っかが後輪の左右に並び、地面を転がる。自転車の揺れが収まった。漕ぐのに必死で、皐月ちゃんは気づいていない。
天使の補助輪だ。
自転車が走ったあとに二筋の光の残像が見える。皐月ちゃんが輝く線路を敷いているかのようだった。
皐月ちゃんの伸ばした右手が、ペットカートの持ち手を掴む。補助輪がアスファルトに擦れ、自転車が減速する。
大鳥神社交差点は目の前だった。中型トラックが勢いよく通り過ぎる。
僕は走る。鼻水で息ができないが、なりふりかまっていられない。
皐月ちゃんの背中に近づく。妹を思い出す。ボードゲームを抱きしめ、病院へ向かう後ろ姿を思い出す。「ありがと」という言葉を思い出す。
その小さな背中へ、伸ばした僕の手が届いた。
◯
カフェで僕は変なギャルにからまれた。
先週、目黒通りを全力疾走して負った筋肉痛が、ようやく和らいできた頃である。
「半分こしようぜ」
ミカさんは勝手に席の向かいへ座る。ジンジャークッキーと珈琲を二杯、トレイに載せていた。ゲイシャだ。
「仕事中なんですけど」
僕はノートパソコンから目を上げる。土曜の朝からゲームの不具合が発生して、リモートで対応していたのだ。家だと息が詰まるから、カフェで画面を隠しながら働くことはよくある。
「差し入れってことで」
ミカさんはクッキーを半分に割り、片割れを紙ナプキンに載せた。そばに珈琲のグラスを置く。
僕はノートパソコンを閉じた。「ありがとうございます、いただきます」
「仕事は?」
「まあ、ちょうど落ちついたんで」
クッキーをかじる。生姜がしっかり効いている。
「お疲れ」
ミカさんもクッキーを口にする。ほっぺに手を当てて、目をつぶっている。やっぱり自分が食べたかっただけだろう。
「休日の仕事は体に毒です」
「いや、皐月ちゃんの話」
「ああ、怪我なくてほんとよかったです」
「見て」
ミカさんはスマホを見せる。画面に無料のフォントっぽい字で「達成!」と表示されていた。ミカさんがバッグにつけている猫のキーホルダーと同じキャラクターが、天使の輪っかをつけて文字の周りを飛んでいる。
「乗れるようになったって」
「ほんとですか! あれ、あした練習するって話でしたよね?」
「坂で漕げて、自信ついたみたい」
ミカさんは通りに面する大きな窓の外を親指で指した。
「ああ、だからいま来たんですね」
目黒通りを、ヘルメットを被った皐月ちゃんとお母さんが自転車で並走している。風を切って走っていく。前カゴでハローが眠っていた。
後ろ姿でも笑っているのが分かった。その小さな背中が、懐かしい。
「そういや、ミカさん。僕に言ってないことありません?」
「何?」
ミカさんは皐月ちゃんたちを見送っている。
「先週、坂で死にかけたとき、気づいたんです。短い走馬灯見て。ミカさん、なんで初めから僕の名前、知ってたんですか」
ミカさんはゲイシャを飲んでいる途中でむせた。
「言ってましたよね。ミッションのターゲットの名前が分かるって。僕がターゲットだったこと、あったんじゃないですか?」
「いや、その」
ミカさんは分かりやすく動揺している。
「どういうミッションか分かりませんけど、僕の妹、知ってますね?」
ミカさんは下を向いてしまった。僕が公園でハローに妹の話をさせていたときのミカさんの困ったような笑顔が思い出される。
「最期の言葉、ミカさんが喋らせたんじゃないですか?」
そのままミカさんは手を合わせて、深く頭を下げる。
「ごめん」
僕は溜息をつく。
「別に、怒ってないです」
「画面にね、あの子の言葉が表示されたの。でも送信失敗のアイコンが出てて、それで」
「どういうミッションだったんですか」
「笹本くんを励ますっていう」
「あんまり、励まされませんでした」と僕は苦笑する。
「謝ろうと思ってたんだけど」
僕もゲイシャを口にする。苦くなく、ほのかに甘い香りがした。僕はしばらく、グラスの中の氷を見ていた。
「いいです。もともと怒ってないですから」
ミカさんが顔を上げる。分かりやすく嬉しそうだ。なぜミカさんが電車で僕に声をかけてきたのか、分かった。
「貸してもらえます?」
僕はミカさんからスマホを受け取る。鼻先に人差し指を当て、ちょっと考えたあと、文字を打つ。
僕がテーブルにスマホを置くと、ミカさんは画面を見る。
「これ、ハローに言わせたの?」
「助けたのは皐月ちゃんですからね」
「笹本くんの気持ちかと思った」
「なんで僕が」
また僕は珈琲に口をつける。
窓から降る八月の日差しに「ありがとな」という文字が輝いた。
<了>
いいなと思ったら応援しよう!
牛乳を買って金曜よるに一杯やります。