短編小説|栞に祈りを書く古書店
祈ることが、その古書店で本を買う条件だ。夕暮れどき、僕は半蔵門線神保町駅A7出口より徒歩五分にある「星ノ堂」へ向かう。夏の斜陽の影を縫うように星ノ堂へたどり着いた僕を出迎えたのはブルーグレーの猫だった。
「また来たね」と壁一面の本棚を背に千鶴さんが銀色の髪を撫でる。挨拶もそこそこに僕は料理の本が並ぶ棚を漁る。大学の長い夏休みの間にお菓子をつくりたい。古い本にはネットに載っていないお菓子があるかもしれない。
足もとにまとわりつくルナを撫でながら「楽しいお菓子づくり」という素朴な題の古本を手に取る。お会計を済ませたあと、千鶴さんはいつものように、ラタンのバスケットを会計台に載せた。中には古い栞が山とある。
ルナが前足で、ひとつの栞に触れる。それを千鶴さんは「楽しいお菓子づくり」に挟む。僕は店の出口近くにある古机に着く。ガラスペンと新品の栞がある。古書を買ったとき、栞にお祈りごとを書き残すのが決まりだった。
「彼女ができますように」と呑気に書こうとした手を止める。千鶴さんの挟んだ栞を読んだのだ。「プリン食べたし 昭和十七年」と書いてある。星ノ堂は戦前から続く老舗だ。それでも戦時中の祈りが残っているものか?
窓外の空は藍色に染まっていた。雑穀や芋ばかり食べていた当時、甘味への思いの切実さは、僕などには想像もつかない。僕は別の祈りを栞に書き残し、バスケットに入れた。千鶴さんに会釈し、ルナを撫でて店を出る。
家につくと「楽しいお菓子づくり」に載っていたレシピで、僕はプリンをつくった。なるほど、純喫茶で出るような古きよきプリンだ。クリームとチェリーが、たしかに「楽しい」。プリンを前に、手を合わせて目を瞑る。
「プリン食べたし」の書き手を偲ぶ。彼あるいは彼女は、無事にプリンにありつけただろうか。平成生まれの僕には、分からない。だから、栞に託した言葉を胸中で繰り返す。「世界が」と書き始める紋切り型のお祈りを。
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牛乳を買って金曜よるに一杯やります。