桜の街に咲く涙
雨に濡れたアパートの外廊下を転がるキャスターの鈍い振動が、彼の手のひらに伝わります。キャリーケースはやけに軽く感じられました。八年間の暮らしが積み重なった荷物はもっと重いものと彼は思っていたのです。すでに他の荷物も引越し業者に軽々と運び去られていました。新しい職場の近くへ越すことは楽しみでさえあるのに、三月の冷たい雨にまぎれて一滴の涙が落ちたことに彼は気づきました。
彼は笑います。慣れ親しんだ街を離れるからといって大の大人が泣いてしまったからではなく、その涙が小さな手に受け止められたからでした。少し開いたドアのすきまから手は伸びています。中から出てきたのは中学生くらいの女の子でした。少女は得意そうに彼の顔を見ます。そして、手のうちにある涙を指で包みました。彼は目を拭います。少女は唇をとがらせて、握った手にそっと息を吹きかけます。
八年前の三月、このアパートに引っ越してきた日に、彼は少女に出会いました。外廊下で泣いていた少女に彼が声をかけたのです。親に叱られたのか? 友だちに嫌なことをされたのか? 尋ねる彼の言葉に、少女は首を横に振って答えました。来月から小学校へ通うのがこわいのだと言います。少女のとなりにしゃがみ込み、大丈夫だとも、心配ないとも言わずに、流れ落ちる涙を彼は手で受け止めました。
うつむいていた少女は面を上げて、彼の顔と手のひらを見くらべます。ふいに、春風が吹きました。アパートの駐車場に咲く桜の枝先が揺れます。彼は手のうちにある涙を指で包みました。そして、握った手に息を吹きかけます。少女が見つめている彼の指がほどかれると、涙は消えていました。魔法が使えるんだ。そう笑った彼の手のひらには、代わりに一枚の薄桃色の花びらが、春の日を浴びていました。
雨音に包まれながら、彼は少女の右手を見つめます。いつのまにか小学校を卒業して、少しだけ大人びた少女の手がゆっくりと開かれました。しかし桜の花びらはありません。まだ魔法は使えないようだね。言いながら彼はまたキャリーケースを引きはじめます。それはどうでしょう。少女は涙を乾かすように手を振りました。彼は前を向き、振り返らず手を振りました。雨降る街の桜並木を抜け、彼は駅へ。
名残惜しむまもなく電車のドアが閉じます。車窓越しに高架から見下ろす街に、知らない店はありません。にわかに窓を打つ雨の音が小さくなります。強い春風。灰色の雲間からは陽が漏れます。億や兆でも数えきれない雨粒に代わり、薄桃色の花びらが街に降りました。空舞う桜吹雪は三月の日にきらめきます。窓のすきまをすり抜けた花びらが、彼の頬にはりつきます。雨に濡れていたせいか、あるいは。
ショートショート No.393

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