短編小説|蛇口から流れる曲を聴く夜に
蛇口からフランク・シナトラのカバーした「Fly Me to the Moon」が流れ出す。家を引き渡すまえに水道が停止しているか僕は確かめに来たのだけれど、水の代わりに曲が流れ出たのだった。片づけが終わり、なにもない屋内にメロディが響く。
「Fly Me to the Moon」は三十年以上まえに亡くなった祖母がレコードでよく聴いていた。「ばあちゃんは月へ行ったのかもな」と葬式のあとに父が空を見上げたのを僕は覚えている。蛇口を閉めると曲は止まった。静かな夜に耳が痛くなる。
また蛇口を捻った。やはり水は流れず、別の曲が流れる。ショパンの「ノクターン(夜想曲)」だった。月明かりのような旋律に包まれる。十二年まえに他界した母がピアノで弾いていた。母は音楽教師だった。演奏中に父はよく昼寝をした。
父の希望で捨てずに遺されていたピアノも、業者に引き取ってもらった。もとあった場所の壁だけ日焼けを免れている。この家を買った次の住人は、この跡を見て何を思うだろうか。何も思わないかもしれない。僕はそっと壁を撫でる。
蛇口を閉めたあと、また捻る。曲が変わった。ビートルズの「Let It be」だ。三年まえ、母のあとを追った父が車でよく流していた。家の車庫に、父の車はもうない。祖母を失ったときも、母を看取ったあとも、父は「Let It be」を聴いていた。
英語教師だった父は「Let It be」を「手放そう」と意訳した。思い出も悲しみも握りしめていると手のひらが痛くなってしまうから、指の力を抜かないとだめだと父は僕の背中をさすった。手のひらを見つめる。ようやく僕は、この家を手放す。
蛇口を閉める。すべてがあった、いまはなにもない家を、僕はあとにした。かつて父の車が停めてあった車庫から、僕の車を出す。雨跡のあるフロントガラス越しに僕も月を見上げた。手の甲へ七月の月影が落ちる。僕は握った手の力を緩めた。
父の遺したカセットテープで「Let It be」をかける。押し寄せる激しい波が凪ぐまで見守るような曲だと思う。「手放そう」と呟き、僕はバックミラーに映る家が月より小さくなるまで見送った。蛇口を伝う最後の一滴を惜しむように。
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