短編小説|南極で珈琲を飲んだ日
十二月上旬の日曜、私は南極に呼ばれている気がしました。
夕暮れの白氷商店街を行き交う人たちの声が、弾んで聞こえます。年末が近づいてきたからでしょう。
でも、私の体は重くなっています。弁当屋の繁忙期で、水色亭も仕出しが増えているのです。
今日は定休日で、三つの忘年会のお誘いをいただいていましたが「すみません、その日はバタバタしているので」と丁重にお断りしました。「バタバタカフェ」へ行くつもりだったのです。
せっかくのお誘いを断るのは、胸の奥にじんわり後ろめたさを感じます。
ともあれ、私はたい焼き屋「花鳥風月」を通り過ぎ、東口商店街の外れにあるバタバタカフェへ、ずんずん歩いていきました。
木造のブルーの壁に「Butter Butter Coffee」と書かれた白抜きの店名を横目に、真鍮の丸ノブを回しました。涼しい鈴の音が鳴ります。
薪ストウブの匂いと焙煎豆の香る空気に、天井の古いランプの灯りが溶けていました。棚にあるデンマーク製の白熊の貯金箱や木彫りのペンギンを、ステンドグラスの窓から差した西日が色鮮やかに染めています。
「白井くんか、よく来た。また背伸びたかね?」
親戚の叔父さんみたいな口ぶりをする店主は、シロクマの被り物を被っています。初めて来たお客さんは、さぞビックリすることでしょう。
「伸びません。私、今年でニ十七ですよ。部長、アレいただけますか?」
私は珈琲豆の入った麻袋が並ぶ棚を見ました。部長とは、店主のことです。私は地域の文芸サークルに所属しており、彼が部長なのです。
「席まで持っていく。今日はテラスと地下、どっちかね?」
私は地下を選び、店の奥にある薄暗い階段を下ります。
一歩下りるたび、あたりに揺らめく青い光が明るくなっていきました。
壁の三面を天井まで覆う本棚に、波紋が青く映っています。
地下の席から、巨大な水槽にぷかぷか浮かぶミルクのおなかが見えました。黒い羽根をバタバタさせて気持ちよさそうです。
バタバタカフェはテラスで一羽のコウテイペンギンを飼っているのです。丸みを帯びたワガママボディから、ちょんと伸びた短い脚。たいへん趣深く、愛すべき姿ではありませんか。
「バタバタ珈琲、お待ち」
部長は一杯の珈琲を置いて「ごゆっくり」と階段を上っていきました。シロクマの被りものを被っていて、よく暗がりで転ばないものです。
深煎りのよい香りがします。他にお客さんはいません。
バタバタ珈琲の正式名称は、エッグウォーム・ブリュー。白くてまんまるの陶器に生豆を入れ、それを卵と勘違いしたペンギンが温めることで生まれる絶妙な「ペンギン温度」により熟成された珈琲豆が使われています。
珈琲に口をつけると、温かいのに雪みたいに柔らかい口あたりで、バターのような甘みがありながら、ラズベリーにも似た酸味が、味わいの輪郭をはっきりさせています。
バタバタ泳ぐミルクを眺めていれば、誰もいない南極でひとり静かに座っている気持ちになります。美味しい珈琲を飲んでいると、師走の忙しさで氷みたいに固まっていた体が溶けていくようでした。
ぷかぷか浮かぶミルクの影が落ちたテーブルに、私は手帳を広げます。
かつての私なら今日、誘われるまま三つの忘年会すべてに顔を出していたかもしれません。
楽しい時間になるのは間違いありませんが、終わったあとはへろへろになるのもまた事実なのです。仲良くしてもらっているのに、ほんとうはお誘いを断りたい自分を、ひどく勝手なやつだと思っていました。
二年前、忙しい仕事と連日の忘年会でへろへろが極まったとき、ペンギンが氷上をおなかで滑るように、するんと頬に涙が流れたことがありました。私は子どもの頃から、人前では我慢して見えないところで泣く子でした。
あの夜、初めて行ったバタバタカフェで、部長は私に言いました。
「コウテイペンギンは、寒い地でぎゅうぎゅうに集まり、暖を取る」
部長は珈琲を一口飲み、「だがね」と声を落としました。
「足の上で大切な卵を温めるときは、ぶつからないように、ちょっぴり離れる。白井くん、それは果たして悪いことかな」
「ふむふむ」と私はしっかり手帳にメモを取ったものです。
私は水中をひとり気ままに泳ぐミルクを眺めます。
ここでゆっくりバタバタしていると、しぜんと明日もがんばろうという気持ちがすくすくと育ちます。
また私はバタバタ珈琲に口をつけます。
ひとりの時間を「ペンギン温度」で大切に温めながら。
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